ナショナリズムと神学
出典: Jinkawiki
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== フリードリッヒ・シュライエルマッハー == | == フリードリッヒ・シュライエルマッハー == | ||
- | 近代プロテスタント神学の父、自由主義神学の父という肩書を持つ、フリードリッヒ・シュライエルマッハー(1768~1834)はナショナリズムと神学が結びついたきっかけを作った人物である。 | + | 近代プロテスタント神学の父、自由主義神学の父という肩書を持つ、フリードリッヒ・シュライエルマッハー(1768~1834)はナショナリズムと神学が結びついたきっかけを作った人物である。<br> |
啓蒙主義以前の古プロテスタンティズムの時代には、逐語霊感説という考えが主流だった。これは、マタイやマルコ、ルカといった聖人に霊が乗り移って、聖書の一文字一文字を自動筆記した、つまり霊の力によって書いたという考え方である。また、この考えを少し緩めた考え方で、十全霊感説がある。こちらは、各々がこれを書かなければならないという神からの霊感を受けながらも、それぞれの個性を反映させて書いた、という考え方である。<br> | 啓蒙主義以前の古プロテスタンティズムの時代には、逐語霊感説という考えが主流だった。これは、マタイやマルコ、ルカといった聖人に霊が乗り移って、聖書の一文字一文字を自動筆記した、つまり霊の力によって書いたという考え方である。また、この考えを少し緩めた考え方で、十全霊感説がある。こちらは、各々がこれを書かなければならないという神からの霊感を受けながらも、それぞれの個性を反映させて書いた、という考え方である。<br> | ||
このような古プロテスタンティズムの行き過ぎをひっくり返さなければならなくなり、近代プロテスタンティズムとともに近代の自由主義神学が登場する。ここで押さえておきたいのは、プロテスタンティズムのもとになった宗教改革は復古維新運動であった。カトリック神学は一般の人々にとって難解になってしまい、信仰を取り戻すためにはイエス・キリストの時代に戻る必要があると主張した。つまり、反知性運動である。そうした歴史的背景をもつプロテスタンティズムが、18世紀に登場した「理性」を中心に据える啓蒙主義と並存することに成功したのである。 | このような古プロテスタンティズムの行き過ぎをひっくり返さなければならなくなり、近代プロテスタンティズムとともに近代の自由主義神学が登場する。ここで押さえておきたいのは、プロテスタンティズムのもとになった宗教改革は復古維新運動であった。カトリック神学は一般の人々にとって難解になってしまい、信仰を取り戻すためにはイエス・キリストの時代に戻る必要があると主張した。つまり、反知性運動である。そうした歴史的背景をもつプロテスタンティズムが、18世紀に登場した「理性」を中心に据える啓蒙主義と並存することに成功したのである。 | ||
- | そもそもキリスト教において、キリスト教の神は人間にとって「見えない世界」にいる。近代以前の世界観では、神が天上に存在することに誰も疑問をもたなかった。しかし、地動説が主流の考えとされる世界観になると、近代以前の上と下という概念で神を表すことが難しくなってしまった。 | + | そもそもキリスト教において、キリスト教の神は人間にとって「見えない世界」にいる。近代以前の世界観では、神が天上に存在することに誰も疑問をもたなかった。しかし、地動説が主流の考えとされる世界観になると、近代以前の上と下という概念で神を表すことが難しくなってしまった。<br> |
- | シュライエルマッハーはこの問題を根本的に解決したのである。彼は初期の著作『宗教論』(1799)で「宗教の本質は直観と感情である」と定義し、晩年の著作『キリスト教信仰』(1821~22)では「宗教の本質は絶対依存の感情である」と定義した。その結果、神は天上ではなく、各人の心の中にいるということになった。こうして彼は神の居場所の問題を解決したのである。 | + | シュライエルマッハーはこの問題を根本的に解決したのである。彼は初期の著作『宗教論』(1799)で「宗教の本質は直観と感情である」と定義し、晩年の著作『キリスト教信仰』(1821~22)では「宗教の本質は絶対依存の感情である」と定義した。その結果、神は天上ではなく、各人の心の中にいるということになった。こうして彼は神の居場所の問題を解決したのである。<br> |
しかし、彼の定義により別の問題が新たに生じてしまった。それは、人間の心理作用と神を混同してしまうことである。つまり、自らの心の中に絶対的な存在を認めることで、人間の自己絶対化をしてしまう危険性が生じたのである。 | しかし、彼の定義により別の問題が新たに生じてしまった。それは、人間の心理作用と神を混同してしまうことである。つまり、自らの心の中に絶対的な存在を認めることで、人間の自己絶対化をしてしまう危険性が生じたのである。 | ||
== ナショナリズムと神学の融合 == | == ナショナリズムと神学の融合 == | ||
- | キリスト教神学には受肉論という考え方がある。これは、天上の神がイエス・キリストという人間になる考えのことである。このことを「受肉」という。 | + | キリスト教神学には受肉論という考え方がある。これは、天上の神がイエス・キリストという人間になる考えのことである。このことを「受肉」という。<br> |
- | 「受肉」という視点から、道具主義論者のエリー・ケドゥーリーの主著『ナショナリズム』によると、心の中にある絶対依存の感情が、歴史において受肉して、具体的な形をとる。それが民族(ネイション)であり、国家(ステート)である。さらに両者が一体となった国民国家(ネイション・ステート)という形態をとる。このようにして、一つの言語、一つの民族、一つの国家という近代の国民国家的発想が固まっていった、というわけである。 | + | 「受肉」という視点から、道具主義論者のエリー・ケドゥーリーの主著『ナショナリズム』によると、心の中にある絶対依存の感情が、歴史において受肉して、具体的な形をとる。それが民族(ネイション)であり、国家(ステート)である。さらに両者が一体となった国民国家(ネイション・ステート)という形態をとる。このようにして、一つの言語、一つの民族、一つの国家という近代の国民国家的発想が固まっていった、というわけである。<br> |
- | また、シュライエルマッハーの考えの中には、ものごとは発展していくという、一種の進化論がある。人間の内面の絶対依存の感情は常に発展しており、たえず具体的な形に受肉していくのだという。そうなると、神は民族の中にあるという考えにもなる。 | + | また、シュライエルマッハーの考えの中には、ものごとは発展していくという、一種の進化論がある。人間の内面の絶対依存の感情は常に発展しており、たえず具体的な形に受肉していくのだという。そうなると、神は民族の中にあるという考えにもなる。<br> |
- | しかし、受肉は神がイエスになるという一度きりのことである。このような実体主義的な捉え方になってしまったのは、受肉が輪廻転生と混同されてしまったからだと推測される。 | + | しかし、受肉は神がイエスになるという一度きりのことである。このような実体主義的な捉え方になってしまったのは、受肉が輪廻転生と混同されてしまったからだと推測される。<br> |
- | さらにケドゥーリーは、ナショナリズムの理想とは生への拒絶と死への愛であるという。シュライエルマッハーによって神の場所は各人の心の中となり、人間の自己絶対化を規制する基準がなくなり、各人の内なる声と神の声の差をなくし、民族という考えが入り込んだ。やがて、ナショナリズムの台頭を背景に、心の中の絶対者の位置にネイション(民族)が入り、国家・民族という大義の前に人が身を投げ出す構えができあがってしまったのである。 | + | さらにケドゥーリーは、ナショナリズムの理想とは生への拒絶と死への愛であるという。シュライエルマッハーによって神の場所は各人の心の中となり、人間の自己絶対化を規制する基準がなくなり、各人の内なる声と神の声の差をなくし、民族という考えが入り込んだ。やがて、ナショナリズムの台頭を背景に、心の中の絶対者の位置にネイション(民族)が入り、国家・民族という大義の前に人が身を投げ出す構えができあがってしまったのである。<br> |
以上のことから、シュライエルマッハーがしかけた「神の場の転換」こそ、近代ナショナリズムへの途を拓いたといえる。 | 以上のことから、シュライエルマッハーがしかけた「神の場の転換」こそ、近代ナショナリズムへの途を拓いたといえる。 | ||
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== 参考資料 == | == 参考資料 == | ||
- | 佐藤優 2011年 『はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学―』 | + | 佐藤優 2011年 『はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学―』<br> |
白取春彦 2006年 『今知りたい世界四大宗教の常識』 | 白取春彦 2006年 『今知りたい世界四大宗教の常識』 | ||
H.N. 紫虚 | H.N. 紫虚 |
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古プロテスタンティズムと近代プロテスタンティズム
カトリック教会の腐敗や教皇の世俗化などを批判したルターたちの活動によって、カトリックから分派したプロテスタントは二期に分かれる。16世紀から18世紀に啓蒙主義が起こるまでのプロテスタンティズムを、神学業界用語で「古プロテスタンティズム」という。そして18世紀以降のプロテスタンティズムを「近代プロテスタンティズム」という。
フリードリッヒ・シュライエルマッハー
近代プロテスタント神学の父、自由主義神学の父という肩書を持つ、フリードリッヒ・シュライエルマッハー(1768~1834)はナショナリズムと神学が結びついたきっかけを作った人物である。
啓蒙主義以前の古プロテスタンティズムの時代には、逐語霊感説という考えが主流だった。これは、マタイやマルコ、ルカといった聖人に霊が乗り移って、聖書の一文字一文字を自動筆記した、つまり霊の力によって書いたという考え方である。また、この考えを少し緩めた考え方で、十全霊感説がある。こちらは、各々がこれを書かなければならないという神からの霊感を受けながらも、それぞれの個性を反映させて書いた、という考え方である。
このような古プロテスタンティズムの行き過ぎをひっくり返さなければならなくなり、近代プロテスタンティズムとともに近代の自由主義神学が登場する。ここで押さえておきたいのは、プロテスタンティズムのもとになった宗教改革は復古維新運動であった。カトリック神学は一般の人々にとって難解になってしまい、信仰を取り戻すためにはイエス・キリストの時代に戻る必要があると主張した。つまり、反知性運動である。そうした歴史的背景をもつプロテスタンティズムが、18世紀に登場した「理性」を中心に据える啓蒙主義と並存することに成功したのである。
そもそもキリスト教において、キリスト教の神は人間にとって「見えない世界」にいる。近代以前の世界観では、神が天上に存在することに誰も疑問をもたなかった。しかし、地動説が主流の考えとされる世界観になると、近代以前の上と下という概念で神を表すことが難しくなってしまった。
シュライエルマッハーはこの問題を根本的に解決したのである。彼は初期の著作『宗教論』(1799)で「宗教の本質は直観と感情である」と定義し、晩年の著作『キリスト教信仰』(1821~22)では「宗教の本質は絶対依存の感情である」と定義した。その結果、神は天上ではなく、各人の心の中にいるということになった。こうして彼は神の居場所の問題を解決したのである。
しかし、彼の定義により別の問題が新たに生じてしまった。それは、人間の心理作用と神を混同してしまうことである。つまり、自らの心の中に絶対的な存在を認めることで、人間の自己絶対化をしてしまう危険性が生じたのである。
ナショナリズムと神学の融合
キリスト教神学には受肉論という考え方がある。これは、天上の神がイエス・キリストという人間になる考えのことである。このことを「受肉」という。
「受肉」という視点から、道具主義論者のエリー・ケドゥーリーの主著『ナショナリズム』によると、心の中にある絶対依存の感情が、歴史において受肉して、具体的な形をとる。それが民族(ネイション)であり、国家(ステート)である。さらに両者が一体となった国民国家(ネイション・ステート)という形態をとる。このようにして、一つの言語、一つの民族、一つの国家という近代の国民国家的発想が固まっていった、というわけである。
また、シュライエルマッハーの考えの中には、ものごとは発展していくという、一種の進化論がある。人間の内面の絶対依存の感情は常に発展しており、たえず具体的な形に受肉していくのだという。そうなると、神は民族の中にあるという考えにもなる。
しかし、受肉は神がイエスになるという一度きりのことである。このような実体主義的な捉え方になってしまったのは、受肉が輪廻転生と混同されてしまったからだと推測される。
さらにケドゥーリーは、ナショナリズムの理想とは生への拒絶と死への愛であるという。シュライエルマッハーによって神の場所は各人の心の中となり、人間の自己絶対化を規制する基準がなくなり、各人の内なる声と神の声の差をなくし、民族という考えが入り込んだ。やがて、ナショナリズムの台頭を背景に、心の中の絶対者の位置にネイション(民族)が入り、国家・民族という大義の前に人が身を投げ出す構えができあがってしまったのである。
以上のことから、シュライエルマッハーがしかけた「神の場の転換」こそ、近代ナショナリズムへの途を拓いたといえる。
参考資料
佐藤優 2011年 『はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学―』
白取春彦 2006年 『今知りたい世界四大宗教の常識』
H.N. 紫虚