坂本龍馬
出典: Jinkawiki
2009年1月19日 (月) 02:23の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | 坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。 | + | 坂本龍馬(1835-67) |
- | 生涯 | + | 幕末期の倒幕運動指導者。海援隊長。1866年、仲介人として[[薩長同盟]]を成立させ、大政奉還に尽力する。尊攘志士として活動後、脱藩して勝海舟の下で航海術を学ぶ。竜馬は通称であり、直陰の後に直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの偽名を使用する。 |
- | 天保6年(1836年)、1月3日、土佐に生まれ、 12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。 | + | 高知城下町の本丁で、町人郷士の家に生まれる。14歳の時に、小栗流剣術師家日根野弁治に入門して武芸に打ち込みはじめると、5年後の嘉永6年(1853)、江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門下となり、1858年には北辰一刀流目録を授けられている。また、江戸滞在中の嘉永6年には、ペリー来航に直面して、蝦夷思想の影響を受けたが、翌年の安政元年土佐に帰国後、絵師の河田小竜から海運の必要性などについて教示される。 |
- | 嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場に入門した。 | + | |
- | 安政元年(1854年)に土佐に帰郷し、画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。 | + | |
- | 安政5年(1858年)、剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝 | + | |
- | 文久3年(1863年)、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。 | + | |
- | 元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が創設された。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される。 | + | |
- | 慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。 | + | |
- | 龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。 | + | |
- | 慶応3年(1867年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。 | + | |
- | 暗殺 | + | このペリー来航により幕府が開国要求に応じて以来、尊王攘夷論と佐幕開港論とが激しく対立し、この動揺に揺さぶられる形で、若い龍馬は1861年(文久1年)に「土佐勤王党」に参加した。この頃において、龍馬は単なる剣士ではなく、尊王攘夷論に同調する志士となったのである。 |
- | 龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。 | + | その後、龍馬は土佐潘を脱藩し、江戸に出て勝海舟の門に入る。勝海舟は、進歩的な開国論者として注目された人物であり、龍馬はその勝海舟に学んで、航海術や海軍に関する知識を習得し、また、幕府の要人や知識人である松平春嶽や大久保一翁などの知遇を受け、その政治的な視野を大きく開いたのである。 |
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+ | また、薩摩藩に支援されて長崎に亀山社中を開き、一方で、三条実美らを大宰府に訪ねたり、下関で木戸孝允と会談し、中岡新太郎・土方久元らの動きに協力し、これが薩長同盟へと繋がることになる。そして、竜馬は社中を率いて、長崎で外国の艦船銃砲を購入することを幕府に禁ぜられていた長州藩のために、薩摩藩の名義で購入するなどの周旋を通じて薩長の関係を深め、ついでに京都薩摩藩邸で竜馬の仲介により薩長同盟が成立した。社中で航海術の稽古をしながら運輸業などに従い、さらに商社経営の企画を行い、慶応四年初旬に龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。また、藩の支援を受け海援隊業務が拡大し、後藤象二郎とともに、割拠論と公議政体論が結び付けられた「船中八策」を策定する。しかし、十一月十五日、京都の近江屋で何者かに暗殺される。明白なわけではないが、暗殺したのは幕府の京都見廻組ではないかとされている。 | ||
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+ | 彼にはこのような逸話が残っている。 | ||
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+ | ある時、勤王党の所属していた当時の同士がその当時流行であった長い新刀を手に入れ、誇らしげに見せてきた。しかし、龍馬は、「それでは長時間の格闘に腕が疲れて不利を招く。だから、自分は短い刀を持っている。」と言った。それを聞いて感心した同士は後日、短い刀を披露した。すると、龍馬は懐からピストルを取り出し、今度は「西洋にはこんな利器があるぞ。」と言った。以前との話と異なることから驚いた同士だったが、苦心の末ピストルを手に入れ、鼻高々に龍馬に見せると、「それは古い。私は今これを読んでいる。」と見せたのが、“万国公法”の和訳本であったという。 | ||
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+ | 坂本龍馬という人物は、絶えず進歩を求めてやまなかった人物であった。 | ||
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+ | '''船中八策について''' | ||
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+ | 土佐藩士の坂本竜馬は尊皇倒幕の勢いが強まる中「幕府を支持する藩はまだ多い、無理に武力で討伐しようとすれば内乱が起きるし、そうなればイギリスやフランスの外国勢が干渉してくるので平穏に事態を解決したい」と考え1867(慶応3)年6月長崎から上洛する途中、船中で新しい政治の方針をまとめました。 | ||
+ | その内容は次の八つです。 | ||
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+ | 1、政権を朝廷に返すこと | ||
+ | 1、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行うこと | ||
+ | 1、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと | ||
+ | 1、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること | ||
+ | 1、外国と新たに平等な条約を結び直すこと | ||
+ | 1、海軍の力を強めること | ||
+ | 1、親兵を設けて都を守ること | ||
+ | 1、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること | ||
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+ | この船中八策にもりこまれた竜馬の理想は慶喜の大政奉還により一つの実を結びました。竜馬はさらに新政府樹立にむけ奔走しましたが同年11月同士の中岡慎太郎とともに暗殺され、血を流さずに平和のうちに新政府をつくる願いは消えましたが、この理想は明治政府に引き継がれ日本の近代化の礎となりました。 | ||
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+ | 参考文献〉 | ||
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+ | 編集代表・桑原武夫 1978 世界伝記大辞典2<日本・朝鮮中国編> 株式会社ほるぷ出版 | ||
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+ | 発行者・林英夫 2001 日本近現代人名事典 吉川弘文館 | ||
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+ | 著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-臨終編- 株式会社彩図社 | ||
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+ | http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sentyuuhassaku.htm |
最新版
坂本龍馬(1835-67)
幕末期の倒幕運動指導者。海援隊長。1866年、仲介人として薩長同盟を成立させ、大政奉還に尽力する。尊攘志士として活動後、脱藩して勝海舟の下で航海術を学ぶ。竜馬は通称であり、直陰の後に直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの偽名を使用する。
高知城下町の本丁で、町人郷士の家に生まれる。14歳の時に、小栗流剣術師家日根野弁治に入門して武芸に打ち込みはじめると、5年後の嘉永6年(1853)、江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門下となり、1858年には北辰一刀流目録を授けられている。また、江戸滞在中の嘉永6年には、ペリー来航に直面して、蝦夷思想の影響を受けたが、翌年の安政元年土佐に帰国後、絵師の河田小竜から海運の必要性などについて教示される。
このペリー来航により幕府が開国要求に応じて以来、尊王攘夷論と佐幕開港論とが激しく対立し、この動揺に揺さぶられる形で、若い龍馬は1861年(文久1年)に「土佐勤王党」に参加した。この頃において、龍馬は単なる剣士ではなく、尊王攘夷論に同調する志士となったのである。
その後、龍馬は土佐潘を脱藩し、江戸に出て勝海舟の門に入る。勝海舟は、進歩的な開国論者として注目された人物であり、龍馬はその勝海舟に学んで、航海術や海軍に関する知識を習得し、また、幕府の要人や知識人である松平春嶽や大久保一翁などの知遇を受け、その政治的な視野を大きく開いたのである。
また、薩摩藩に支援されて長崎に亀山社中を開き、一方で、三条実美らを大宰府に訪ねたり、下関で木戸孝允と会談し、中岡新太郎・土方久元らの動きに協力し、これが薩長同盟へと繋がることになる。そして、竜馬は社中を率いて、長崎で外国の艦船銃砲を購入することを幕府に禁ぜられていた長州藩のために、薩摩藩の名義で購入するなどの周旋を通じて薩長の関係を深め、ついでに京都薩摩藩邸で竜馬の仲介により薩長同盟が成立した。社中で航海術の稽古をしながら運輸業などに従い、さらに商社経営の企画を行い、慶応四年初旬に龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。また、藩の支援を受け海援隊業務が拡大し、後藤象二郎とともに、割拠論と公議政体論が結び付けられた「船中八策」を策定する。しかし、十一月十五日、京都の近江屋で何者かに暗殺される。明白なわけではないが、暗殺したのは幕府の京都見廻組ではないかとされている。
彼にはこのような逸話が残っている。
ある時、勤王党の所属していた当時の同士がその当時流行であった長い新刀を手に入れ、誇らしげに見せてきた。しかし、龍馬は、「それでは長時間の格闘に腕が疲れて不利を招く。だから、自分は短い刀を持っている。」と言った。それを聞いて感心した同士は後日、短い刀を披露した。すると、龍馬は懐からピストルを取り出し、今度は「西洋にはこんな利器があるぞ。」と言った。以前との話と異なることから驚いた同士だったが、苦心の末ピストルを手に入れ、鼻高々に龍馬に見せると、「それは古い。私は今これを読んでいる。」と見せたのが、“万国公法”の和訳本であったという。
坂本龍馬という人物は、絶えず進歩を求めてやまなかった人物であった。
船中八策について
土佐藩士の坂本竜馬は尊皇倒幕の勢いが強まる中「幕府を支持する藩はまだ多い、無理に武力で討伐しようとすれば内乱が起きるし、そうなればイギリスやフランスの外国勢が干渉してくるので平穏に事態を解決したい」と考え1867(慶応3)年6月長崎から上洛する途中、船中で新しい政治の方針をまとめました。 その内容は次の八つです。
1、政権を朝廷に返すこと 1、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行うこと 1、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと 1、新しく国家の基本になる法律(憲法)を定めること 1、外国と新たに平等な条約を結び直すこと 1、海軍の力を強めること 1、親兵を設けて都を守ること 1、金銀の比率や物の値段を外国と同じにするよう努めること
この船中八策にもりこまれた竜馬の理想は慶喜の大政奉還により一つの実を結びました。竜馬はさらに新政府樹立にむけ奔走しましたが同年11月同士の中岡慎太郎とともに暗殺され、血を流さずに平和のうちに新政府をつくる願いは消えましたが、この理想は明治政府に引き継がれ日本の近代化の礎となりました。
参考文献〉
編集代表・桑原武夫 1978 世界伝記大辞典2<日本・朝鮮中国編> 株式会社ほるぷ出版
発行者・林英夫 2001 日本近現代人名事典 吉川弘文館
著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-臨終編- 株式会社彩図社