朝鮮戦争 5
出典: Jinkawiki
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11月25日 およそ18万人の中国義勇軍が参戦。国連軍は12月15日までに38度線に再び押し返された。 | 11月25日 およそ18万人の中国義勇軍が参戦。国連軍は12月15日までに38度線に再び押し返された。 | ||
12月31日 共産勢力は50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻。 最終的に前線は、北緯38線付近で動かなくなった。 | 12月31日 共産勢力は50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻。 最終的に前線は、北緯38線付近で動かなくなった。 | ||
- | マッカーサーは、中国に対して原爆を用いて基地を攻撃するよう要求。しかし、これはソ連の参戦を招き、第三次世界大戦に発展するトルーマン大統領はマッカーサーを解任した。 | + | マッカーサーは、中国に対して原爆を用いて基地を攻撃するよう要求。しかし、これはソ連の参戦を招き、第三次世界大戦に発展すると考えたトルーマン大統領はマッカーサーを解任した。 |
1951年7月から和平交渉を開始。 | 1951年7月から和平交渉を開始。 | ||
1953年7月27日休戦が成立した。 | 1953年7月27日休戦が成立した。 | ||
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== 日本への影響 == | == 日本への影響 == | ||
+ | 主に以下の3つがあげられる。 | ||
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== 1.朝鮮戦争特需 == | == 1.朝鮮戦争特需 == | ||
朝鮮戦線の国連軍将兵に補給する物資や役務サービスの日本業者からの買い付けを言う。第八軍司令部や在日米軍調達部から発注されドルで対価が支払われた。特需の約7割が | 朝鮮戦線の国連軍将兵に補給する物資や役務サービスの日本業者からの買い付けを言う。第八軍司令部や在日米軍調達部から発注されドルで対価が支払われた。特需の約7割が | ||
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== 3.レッドパージ == | == 3.レッドパージ == | ||
1950年に、占領軍の指示で大規模に共産主義者を、官庁・企業から追放した。 | 1950年に、占領軍の指示で大規模に共産主義者を、官庁・企業から追放した。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
+ | ブリタニカ国際大百科事典、山川日本史事典 |
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概要
大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で1950年6月25日に始まった紛争で、およそ300万人が命を落とした。 この戦争は、第二次世界大戦後のアメリカとソ連の対立を背景とした代理戦争のひとつである。 国連軍が韓国側に立って戦争に参加し、中国が最終的に北朝鮮側に立って支援をした。 戦況は、目まぐるしく変化したうえ、1953年7月、決定打のないまま休戦状態となった。
流れ
第二次世界大戦後、朝鮮は日本の支配を離れ、北緯38度線を境に北はソ連、南はアメリカの占領下に入り、別々に国を建てた。 両者はいずれも統一政府を持って任じ、武力衝突に発展した。
1950年6月25日 北朝鮮は北緯38度線の南部に対する緊密な攻撃計画を開始。 国連安全保障理事会は緊急会議を開き、北朝鮮の侵略とみなし、侵略を押しとどめるため、すべての国連加盟国に支援する要請する決議を採択した。 6月27日 トルーマン米大統領(当時)は議会に諮ることなく、宣戦布告し、韓国に支援するようアメリカ軍に命令した。 6月28日 韓国の首都ソウル陥落。ソウルはわずか3日で陥落した。不十分な装備で駆け付けたアメリカ陸軍の4個師団も南端に後退。 9月15日 マッカーサー率いる部隊が38度線の南方の仁川に上陸戦争を敢行。北朝鮮軍は南北から挟撃を受け、完全に粉砕。12万5000人以上が捕虜となった。
その後、国連軍が反撃を開始し、38度線まで押し返した。中国は、国連軍が、北朝鮮に存在することが国家の安全保障にを踏まえると、受け入れがたく、戦争に介入せざるを得ないと警告したが、国連軍は無視し、南北統一をの意思を表明し、北朝鮮に進軍した。国連軍部隊は北朝鮮と中国東北部にの国境である鴨緑江にまで接近。 11月25日 およそ18万人の中国義勇軍が参戦。国連軍は12月15日までに38度線に再び押し返された。 12月31日 共産勢力は50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻。 最終的に前線は、北緯38線付近で動かなくなった。 マッカーサーは、中国に対して原爆を用いて基地を攻撃するよう要求。しかし、これはソ連の参戦を招き、第三次世界大戦に発展すると考えたトルーマン大統領はマッカーサーを解任した。 1951年7月から和平交渉を開始。 1953年7月27日休戦が成立した。
休戦
1951年7月板門店で休戦会談が開始され1953年7月27日に、朝鮮休戦協定が調印された。なお現在も休戦状態であるため終戦とはいえず、たびたび衝突が起きている。
死者数
韓国人130万人 中国人100万人 北朝鮮人50万人 国連軍5万4000人
日本への影響
主に以下の3つがあげられる。
1.朝鮮戦争特需
朝鮮戦線の国連軍将兵に補給する物資や役務サービスの日本業者からの買い付けを言う。第八軍司令部や在日米軍調達部から発注されドルで対価が支払われた。特需の約7割が 物資(戦地要務物資や復興資材)で、約3割がサービス(修理・輸送など)であった。1950年6月から53年7月までの約3年間で9.8億円を数え、日本の戦後の経済の復興に大きく寄与した。
2.警察予備隊
戦後日本が最初に保有した最初の防衛力。朝鮮戦争勃発と同時に在日米軍の朝鮮半島への出動によって生じた軍事力の空白を埋めるため、マッカーサーは7万5000人の警察予備隊の創設と海上保安庁8000人の増加を指示。今の自衛隊の祖である。
3.レッドパージ
1950年に、占領軍の指示で大規模に共産主義者を、官庁・企業から追放した。
参考文献
ブリタニカ国際大百科事典、山川日本史事典