ハンナ・アーレント

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ハンナ・アーレント 杉浦敏子 藤原書店 2002 ハンナ・アーレント 杉浦敏子 藤原書店 2002
ハンナ・アーレント 杉浦敏子 現代書舘 2006 ハンナ・アーレント 杉浦敏子 現代書舘 2006
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2013年1月28日 (月) 10:05の版

ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者。


目次

生い立ち

1906年ドイツ北部のハノーバに生まれ、ケーニヒスンベルクで育つ。両親は裕福な同化ユダヤ人で、政治的には社会民主主義者だった。父は技師で古典の造詣に深く、家庭には多くの書物があった、母は政治サークルに参加するなど、政治や文芸への関心を持つ教養ある女性だった。 父はアーレントが7歳の時に死亡。母は彼女が14歳の時、工場の経営者と再婚する。 アーレントは子供のころから知的能力が高く、自己主張が強かった。そのため、高校時代授業をボイコットし、放校処分を受けた。その後ベルリン大学で聴講生としてギリシア語、ラテン語、神学などを学び大学入学資格を取得し、1924年にマールブルク大学に入学。そこで指導教諭の哲学者ハイデガーから学問的影響を受けるとともに、恋愛関係にもなった。その後、学位論文を書くためハイデルベルク大学に赴く。そこでヤスパースの指導を受け、研究に没頭する。彼女の学位論文は「アウグスティヌスの愛の概念」という題名でハイデガー、ヤスパールらと共振している。 1929年、彼女は研究者ギュンター・シュテルンと結婚する。彼も中産階級のユダヤ人でアーレントと学問的にも共通点も持っていた。 1933年、国会議事堂放火事件をきっかけにナチスは共産党を弾圧。多くのユダヤ人学者も仕事を失っていたアーレントは反ユダヤ主義活動の資料収集の仕事をドイツシオニスト機構から依頼され、その仕事のため逮捕されるが運よく釈放される。これらをきっかけにプラハ、ジュネーブを経てパリに脱出。 しかし、パリでも反ユダヤ主義は高まり、迫害を受けた。この亡命生活からユダヤ人問題にのめりこみ、思想の核が構成されることとなる。またパリには何百万もの亡命者がおり、そこで多くの学者や作家と交流を深めた。 1936年、夫シュテルンと離婚。アーレントはシオニストたちと交流したが、シュテルンは共産党員と交流する二人の仲間や仕事が原因だった。 1940年に活動家ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚し、彼から政治的思考と歴史的観察について学ぶ。 1940年5月、アーレントは敵性外国人としてギュレにある抑留キャンプに収容される。その2,3週後にフランスは降伏し、その際に幸運にも釈放書類を手に入れキャンプを出る。しかし、ここを出ることができたのは7000人のうちわずか200人しかいなかった。 1941年、アーレントはモントーバンで夫と再会し、アメリカに渡る。 アメリカではユダヤ人組織で活躍し、文筆家として活躍した。 1951年「全体主義の期限」で政治哲学者としての地位を不動のものにする。この作品でユダヤ人たちを弾圧することに導いた全体主義を普遍的な形で表現した。またその年にアメリカ国籍を取得。ドイツからの亡命者は祖国に帰るものが多かったが、アーレントはアメリカの政治体制に共感していたためである。 その後も著作を中心に精力的な活動を展開した。1959年プリンストン大学教授に就任する。レッシング賞を受賞。これをはじめにその後もたくさんの賞を受ける。バークレー、シカゴ大学などでも教鞭をとる。1967年からはニューヨークのニュースクールで教授を務める。 1975年の12月4日、アーレントは心臓発作を起こし死去。


思想・政治理論

ハイデガー、ヤスパール、フッサールらから学んだ強い影響を受けている。 ユダヤ人である自らの迫害の経験に基づき、著作の「全体主義の起源」で全体主義の脅威を分析し批判した。またユダヤ人問題の解決にも積極的な提言をした。異なる民族が政治的要素で連邦を構成することで、多数派民族と少数派民族問題が解決できると主張した。 「人間の条件」では人間の活動力を「労働」「仕事」「活動」と分類し、「労働」や「仕事」が「活動」を凌駕する現代の状況を否定した。「活動」はまさに政治的活動を意味している。 アーレントはアメリカの憲法を肯定し、特にアメリカの共和主義的側面を高く評価し、期待した。しかし、ベトナム戦争での政府への責任やアメリカ社会の反共主義、人種差別に対し批判をすることになる。 「革命について」では、血縁や土地が基盤とする共同体による貧困の解決を目的にしたフランス革命と対比し、憲法への忠誠という水平な社会契約によって結ばれた人々たちが政治制度の変革を目指したアメリカ独立革命を共和主義の体現として高く評価した。 アーレントの共和主義は複数の擁護と公的空間の重視を特徴とする。政治は孤独な英雄の行為ではなく、仲間との相互行為である。複数の主体による相互関係によって権力は生み出される。暴力は一方の絶対的な主体性と他方の絶対的な客観性を前提とした支配服従関係を意味する。そして権力は個人が所有するものではない。権力は複数者の属性で、暴力は一者の属性である。


主な著作

「全体主義の起源」 「人間の証明」 「革命について」 「イェルサレムのアイヒマン」


参考文献

ハンナ=アーレント 太田哲男 清水書院 2001 ハンナ・アーレント、あるいは政治思考の場所 矢野久美子 みすず書房2002 ハンナ・アーレント 杉浦敏子 藤原書店 2002 ハンナ・アーレント 杉浦敏子 現代書舘 2006


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