オランダの教育保障
出典: Jinkawiki
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オランダは歴史的背景から自由主義的性格が強く、教育面でもまた自由な教育制度を持っている。そのために「百の学校があれば百の教育がある」というほど多様で多くの学校があり学校選択の自由を保障されているために、一人一人に応じた教育を行うことができる。 | オランダは歴史的背景から自由主義的性格が強く、教育面でもまた自由な教育制度を持っている。そのために「百の学校があれば百の教育がある」というほど多様で多くの学校があり学校選択の自由を保障されているために、一人一人に応じた教育を行うことができる。 | ||
- | その一方でオランダは高福祉・高負担の社会で経済格差は小さい。教育にも多くの学生が補助金を受けている。私立学校の公立学校のどちらとも義務教育は無料である。義務教育後からは授業料は取られるが、その額は親の収入によって決められ、奨学金や住宅費の援助費も大きい。 | + | その一方でオランダは高福祉・高負担の社会で経済格差は小さい。教育でも、多くの学生が補助金を受けている。私立学校の公立学校のどちらとも義務教育は無料である。義務教育後からは授業料は取られるが、その額は親の収入によって決められ、奨学金や住宅費の援助費も大きい。 |
これらのためにオランダでは教育機会の平等も十分に保障されている。 | これらのためにオランダでは教育機会の平等も十分に保障されている。 | ||
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特に自由な教育が確立されていたオランダという土壌では多くの新しい教育を行うためのオルタネイティブ・スクールやムスリムの子弟向きの黒い学校がたくさん設立された。 | 特に自由な教育が確立されていたオランダという土壌では多くの新しい教育を行うためのオルタネイティブ・スクールやムスリムの子弟向きの黒い学校がたくさん設立された。 | ||
したがってオランダでは閉鎖的だった学校は開放され、学校選択でもさらに多様な選択肢が広がることになった。 | したがってオランダでは閉鎖的だった学校は開放され、学校選択でもさらに多様な選択肢が広がることになった。 | ||
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オランダの個別教育はなぜ成功したのか リヒテルズ直子 平凡社 2006 | オランダの個別教育はなぜ成功したのか リヒテルズ直子 平凡社 2006 | ||
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オランダの大学 太田和敬 文教大学教育研究所紀要 第3号 1994 | オランダの大学 太田和敬 文教大学教育研究所紀要 第3号 1994 |
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特徴
オランダは歴史的背景から自由主義的性格が強く、教育面でもまた自由な教育制度を持っている。そのために「百の学校があれば百の教育がある」というほど多様で多くの学校があり学校選択の自由を保障されているために、一人一人に応じた教育を行うことができる。 その一方でオランダは高福祉・高負担の社会で経済格差は小さい。教育でも、多くの学生が補助金を受けている。私立学校の公立学校のどちらとも義務教育は無料である。義務教育後からは授業料は取られるが、その額は親の収入によって決められ、奨学金や住宅費の援助費も大きい。 これらのためにオランダでは教育機会の平等も十分に保障されている。
背景
子供たちの社会的背景によって生じてしまう教育機会の格差を是正するために実施されている。 19世紀後半から20世紀初頭では宗教や思想の対立、1960年代からは移民問題やオルタネイティブ・スクールの発展において対応した。 19世紀前半に「教育の自由」がオランダ憲法で保障された。そのためにオランダには細かい教育基準は存在せず、学校の設立基準も厳しくないしたがって多様でたくさんの学校があり、学校選択の自由が保障されるようになった。
歴史
1806年、公立学校制度ができたが、学校は国家によって管理され、また私立学校の設立はほとんど認められなかった。 1848年のオランダ憲法の改正によって、自由主義的な改革が進んでいく この改正によって、「教育の自由」、「自治体によって公的な教育の補償のために学校を設立する」ことなどが規定された。そのために私立学校設立が政府によって容認されるようになったが、公的補助は受けられなかった。 19世紀後半は現在の「高福祉・高負担」の福祉国家の芽生えの時期となった。国内的には自由主義勢力に対抗するキリスト教勢力も政権に加わったことによるキリスト教的な福祉の観念が政治に反映されるようになったこと、社会主義勢力の登場、対外的にはプロイセンやデンマークの福祉政策の成功により参考にしたことで、福祉政策が次々と成立した。 1889年、学校の一元化に対抗したカトリックなどのキリスト教の宗教勢力によって教育法を改正し、主に宗教団体によって設立された私立学校にも補助金を出すことが規定された。 宗教界はさらなる補助金の引き上げをめざし、オランダで「学校闘争」と呼ばれる運動が起こる。 そして1917年の憲法改正によって、教育の自由がさらに細かく規定され、私立学校の教育方針の尊重、教材・教員採用の自由と私立学校と公立学校の財政的平等が規定された。 この教育改革によって多様な価値観でも自由に選択できることが確立され、現在のオランダ教育の礎となった。 また柱社会の形成などのオランダ社会全体にも大きな影響を与えた。
1960年代以降、第二次世界大戦の復興を果たした北欧を中心に、社会福祉の充実がさら進んだ。オランダでもそのような雰囲気が高まっていく。 さらにこのころオランダの言語がわからない外国人、特にムスリム系の移民がオランダに大量にやってきた。 それらためにオランダの学校教育にでは、家庭環境に恵まれなった子供たち、障害を持った子供たち、移民労働者の子供たちなど、彼らのために自由で自立できるようにどのよう教育をするかということが議論されるようになった。 そこで教育の自由がすでに確立していたオランダでは独自の改革が起こった。 オランダでは、政府によって教育内容を一つの効果的なものにして画一化された教育を行うことで平等な教育を目指すのではなく、個々の子供に対して方法や教材を変えて教えることで平等な教育が目指された。 さらにこの頃1960年代は先進国の高度経済成長やアジア、アフリカの独立、ベトナム戦争など社会的に大きな影響を与える出来事が続々と起こっていた。 このような社会背景が重なったことにより世界中で新しい教育が誕生した。 特に自由な教育が確立されていたオランダという土壌では多くの新しい教育を行うためのオルタネイティブ・スクールやムスリムの子弟向きの黒い学校がたくさん設立された。 したがってオランダでは閉鎖的だった学校は開放され、学校選択でもさらに多様な選択肢が広がることになった。
参考文献
オランダ 寛容の国と模索 太田和敬・見原礼子 寺子屋新書 2006
オランダの個別教育はなぜ成功したのか リヒテルズ直子 平凡社 2006
オランダとベルギーのイスラーム教育 見原礼子 明石書店 2009
オランダの大学 太田和敬 文教大学教育研究所紀要 第3号 1994
国際教育論 太田和敬 文教大学人間科学部 2012
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