ASEAN
出典: Jinkawiki
2008年10月19日 (日) 16:02の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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東南アジア諸国連合。Association of South-East Asian Nationsの略称。 | 東南アジア諸国連合。Association of South-East Asian Nationsの略称。 | ||
- | 1967年8月8日にインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国によって設立された地域協力機構のこと。その後84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアを加えて、10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構となっている。決定機関である外相会議の下にジャカルタに常設の中央事務局を置いている。 | + | 1967年8月8日にインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国によって設立された地域協力機構のことで、その後84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアを加えて、10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構となっている。決定機関である外相会議の下にジャカルタに常設の中央事務局を置いている。 |
== ASEANの歩み == | == ASEANの歩み == | ||
- | 発足時の「バンコク宣言」では、域外諸国の干渉を排し、地域平和と安定のための集団自助の必要性を確認しつつ、経済・社会・文化的発展に向け協力するなど七項目の目標を掲げていた。発足当初は、中ソなど社会主義諸国から「反共軍事ブロック」と非難され、域内にもマレーシア、フィリピン間のサバ領有権問題など不協和音も目立ち、存続さえ危ぶまれた。しかし、70年代に入ってニクソン・ドクトリンによるアメリカの〈アジア離れ〉や、米中接近に見るアジアでの緊張緩和が進むと、東南アジア地域における大国間のバランスを求めた〈中立地帯宣言〉(1971)を打ち出し、地域紛争の自主的・平和的解決の方向を明確にした。75年のサイゴン陥落後、域内緊張が高まり、とくに79年のベトナム軍のカンボジア侵攻によって危機は深まったが、インドシナ諸国との共存を求めた自主的解決の政策を保つことで、広く国際社会で注目を浴びるようになった。 | + | 1.67年5月 ASEAN設立 |
- | この間に各国は強権によってではあれ、国内的な政治の安定と著しい経済成長を遂げた。経済開発が軌道に乗り、先進工業国との貿易、投資等の経済関係が深まるにつれ、共通の利益を促進するための機構上の整備が進んだ。決定機関である外相会議の下に、常設の中央事務局がジャカルタに開設されたほか、経済閣僚会議を中心とした貿易、資源、技術等の協力のための委員会が設けられ、域内特恵制度の拡充や関税引き下げなど、域内経済協力を強めている。このようにして今日では発展途上国の地域協力機構のモデルとされるまでに至っている。 | + | |
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+ | 【背景】ヴィエトナム戦争(64年~)の泥沼化 | ||
+ | 東南アジアとしてのアイデンティティの確立を重視 | ||
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+ | 2.70年代後半 地域協力機構としての政治的結束の強化及び域外国との対話強化 | ||
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+ | 【背景】サイゴン陥落、インドシナ3国の共産化(75年) | ||
+ | 南北ヴィエトナム統一、中越紛争勃発(76年) | ||
+ | ヴィエトナムの脅威の増大 | ||
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+ | 【主な動き】 | ||
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+ | -第1回ASEAN首脳会議(76年2月) | ||
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+ | -第1回日・ASEAN首脳会議(77年8月) | ||
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+ | [福田ドクトリン] | ||
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+ | 軍事大国とならず東南アジアひいては世界の平和と繁栄に貢献 | ||
+ | 心と心の触れあう信頼関係の構築 | ||
+ | ASEANの連帯と強靱性強化に協力し、インドシナ諸国との相互理解の醸成により東南アジア全域の平和と繁栄に寄与 | ||
+ | 3.80年代後半以降 ASEAN諸国の経済的発展 | ||
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+ | 【背景】投資・貿易の自由化、輸出指向の開放的経済政策の推進 | ||
+ | プラザ合意を契機に進んだ円高(85年) | ||
+ | 日本の対ASEAN直接投資の拡大 | ||
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+ | 4.90年代前半 冷戦構造の終結と地域的結束の強化 | ||
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+ | 【背景】東西冷戦構造の崩壊 | ||
+ | カンボディア和平の達成(91年「パリ和平協定」) | ||
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+ | 【主な動き】 | ||
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+ | -国際環境の急変に対する対応を模索するとともに域内経済協力を推進 | ||
+ | -AFTA(ASEAN自由貿易地域)の設立を決定(92年) | ||
+ | -ヴィエトナム、ラオス(92年)及びミャンマー、カンボディア(95年)が東南アジア友好協力条約へ加盟 | ||
+ | (95年 ヴィエトナムはASEANに正式加盟) | ||
+ | 5.90年代半ば ASEANの対外的イニシアティブの発揮 | ||
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+ | 【背景】同地域の政治的安定と経済発展を背景にASEANに自信 | ||
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+ | 【主な動き】 | ||
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+ | -94年 ASEAN地域フォーラム開始 | ||
+ | -96年 アジア欧州会合開催 | ||
+ | -96年 ASEAN拡大外相会議対話国の拡大(印、中、露) | ||
+ | 6.90年代後半 「ASEAN10」への道とASEANの新たな試練 | ||
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+ | 【主な動き】 | ||
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+ | -97年7月にラオスとミャンマーがASEANに正式加盟 | ||
+ | (当時予想されていたカンボディアについては国内情勢により加盟せず) | ||
+ | -97年のバーツ危機を契機とする経済・通貨危機の発生 | ||
+ | 7.97年 日・ASEAN首脳間の対話の緊密化 | ||
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+ | (1)97年1月 橋本総理のASEAN訪問 | ||
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+ | [橋本ドクトリン] | ||
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+ | 日・ASEAN首脳間の対話緊密化 | ||
+ | 固有の伝統、文化の継承と共生に向けた多角的な文化協力 | ||
+ | テロや環境問題等世界全体の課題への共同の取り組み | ||
+ | (2)97年12月 日・ASEAN首脳会議 | ||
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+ | -ASEAN創設30周年記念、中・韓首脳も招待 | ||
+ | -「橋本ドクトリン」の具体化、特に通貨不安等新たな局面を迎えるASEANへの我が国の協力姿勢の再確認 | ||
== 日本との関係 == | == 日本との関係 == | ||
- | 日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが、とくに1977年の第二回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し、ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに、各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオスとミャンマー、99年にカンボジアを加えて10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は、ますます重要性を増している。 | + | 日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが、特に1977年の第二回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し、ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに、各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。加盟国を増やして10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は、ますます重要性を増している。 |
== 引用文献 == | == 引用文献 == | ||
- | 下中直人(編) 2007 世界大百科辞典20 平凡社 | + | 下中直人(編) 2007 世界大百科辞典20 平凡社 |
- | 新村出(編) 2008 広辞苑第六版 岩波書店 | + | |
+ | 新村出(編) 2008 広辞苑第六版 岩波書店 | ||
渡邊靜夫(編) 1994 日本大百科全書16 小学館 | 渡邊靜夫(編) 1994 日本大百科全書16 小学館 | ||
- | [ハンドル名:あんこ] | + | 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_97/asean97/30year.html |
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+ | [ハンドル名:リバー] |
最新版
東南アジア諸国連合。Association of South-East Asian Nationsの略称。 1967年8月8日にインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシアの5カ国によって設立された地域協力機構のことで、その後84年にブルネイ、95年にベトナム、97年にラオス、ミャンマー、99年にはカンボジアを加えて、10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構となっている。決定機関である外相会議の下にジャカルタに常設の中央事務局を置いている。
ASEANの歩み
1.67年5月 ASEAN設立
【背景】ヴィエトナム戦争(64年~)の泥沼化
東南アジアとしてのアイデンティティの確立を重視
2.70年代後半 地域協力機構としての政治的結束の強化及び域外国との対話強化
【背景】サイゴン陥落、インドシナ3国の共産化(75年) 南北ヴィエトナム統一、中越紛争勃発(76年) ヴィエトナムの脅威の増大
【主な動き】
-第1回ASEAN首脳会議(76年2月)
-第1回日・ASEAN首脳会議(77年8月)
[福田ドクトリン]
軍事大国とならず東南アジアひいては世界の平和と繁栄に貢献 心と心の触れあう信頼関係の構築 ASEANの連帯と強靱性強化に協力し、インドシナ諸国との相互理解の醸成により東南アジア全域の平和と繁栄に寄与 3.80年代後半以降 ASEAN諸国の経済的発展
【背景】投資・貿易の自由化、輸出指向の開放的経済政策の推進 プラザ合意を契機に進んだ円高(85年) 日本の対ASEAN直接投資の拡大
4.90年代前半 冷戦構造の終結と地域的結束の強化
【背景】東西冷戦構造の崩壊 カンボディア和平の達成(91年「パリ和平協定」)
【主な動き】
-国際環境の急変に対する対応を模索するとともに域内経済協力を推進
-AFTA(ASEAN自由貿易地域)の設立を決定(92年)
-ヴィエトナム、ラオス(92年)及びミャンマー、カンボディア(95年)が東南アジア友好協力条約へ加盟
(95年 ヴィエトナムはASEANに正式加盟)
5.90年代半ば ASEANの対外的イニシアティブの発揮
【背景】同地域の政治的安定と経済発展を背景にASEANに自信
【主な動き】
-94年 ASEAN地域フォーラム開始
-96年 アジア欧州会合開催
-96年 ASEAN拡大外相会議対話国の拡大(印、中、露)
6.90年代後半 「ASEAN10」への道とASEANの新たな試練
【主な動き】
-97年7月にラオスとミャンマーがASEANに正式加盟 (当時予想されていたカンボディアについては国内情勢により加盟せず) -97年のバーツ危機を契機とする経済・通貨危機の発生 7.97年 日・ASEAN首脳間の対話の緊密化
(1)97年1月 橋本総理のASEAN訪問
[橋本ドクトリン]
日・ASEAN首脳間の対話緊密化 固有の伝統、文化の継承と共生に向けた多角的な文化協力 テロや環境問題等世界全体の課題への共同の取り組み (2)97年12月 日・ASEAN首脳会議
-ASEAN創設30周年記念、中・韓首脳も招待 -「橋本ドクトリン」の具体化、特に通貨不安等新たな局面を迎えるASEANへの我が国の協力姿勢の再確認
日本との関係
日本は各国と個別的に経済関係を軸として協力関係を築いてきたが、特に1977年の第二回首脳会議よりアジア・太平洋地域の先進国を含む拡大外相会議に参加し、ASEAN全体への協力を強めてきた。最近では相互依存の深まりとともに、各国から日本の市場開放や技術移転等の要求が強まっている。加盟国を増やして10カ国となり、東南アジアの全域をカバーする機構になったASEANとの関係は、ますます重要性を増している。
引用文献
下中直人(編) 2007 世界大百科辞典20 平凡社
新村出(編) 2008 広辞苑第六版 岩波書店
渡邊靜夫(編) 1994 日本大百科全書16 小学館
外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_97/asean97/30year.html
[ハンドル名:リバー]