原子爆弾4
出典: Jinkawiki
2013年7月31日 (水) 17:56の版 Bunkyo-studen2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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==日本への影響 == | ==日本への影響 == | ||
- | 原子爆弾が人間の殺傷、住宅の破壊に実際に用いられたのは1945年8月6日広島市、8月9日長崎市においてだけであり、投下したのはアメリカ軍であった。しかもその直後に行われた日本人科学者や報道カメラマンの調査資料は占領軍によって押収され、また進駐後アメリカが行った調査も長い間公開されなかった。そのため史上に比を見ない残虐無道な原爆災害の実相を、世界の市民は長い間知らず、特に核保有国の多くの市民たちは、原爆の | + | 原子爆弾が人間の殺傷、住宅の破壊に実際に用いられたのは1945年8月6日広島市、8月9日長崎市においてだけであり、投下したのはアメリカ軍であった。しかもその直後に行われた日本人科学者や報道カメラマンの調査資料は占領軍によって押収され、また進駐後アメリカが行った調査も長い間公開されなかった。そのため史上に比を見ない残虐無道な原爆災害の実相を、世界の市民は長い間知らず、特に核保有国の多くの市民たちは、原爆を国家威信の象徴と考えてきた。 |
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+ | 戦後ソ連、イギリス、フランス、中国が次々に原爆の実験に成功した時、それらの国の市民の圧倒的多数はその報道を熱狂して迎えた。原爆を日本以外の国の市民が真剣に考えるようになったのは、ようやく1980年代初めからで、それも主として西ヨーロッパの市民たちである。それは、そてまで〈使わない兵器〉と信じこまされていた原爆が、〈限定核戦争〉の名で自分たちの住んでいるところで実際に使われる恐れがあることに気づいたからである。彼らはユーロシマという言葉を作り、ヒロシマ、ナガサキを身近に感じ始めた。 | ||
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+ | 1980年代になって日本では中学教科書からヒロシマ、ナガサキの原爆災害写真が除かれるなど、諸外国と逆の傾向があらわれてきた。原爆は生き残った人たちにも長年にわたって肉体的・精神的苦痛を与えるが、その生き証人である原爆被害者に対する救護法も、たびたびの請願にもかかわらずまだ制定されていない。その口実として、被害者と他の戦争被害者を区別するのは妥当ではない、などと言われてきた。にもかかわらず、日本の大多数はヒロシマ、ナガサキの体験によって、日本国憲法の平和主義、とくに戦力放棄を明文化した第9条の世界史的意味を自覚し、核兵器廃絶の思想を堅持してきた。日本もこのことを考慮して、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込まず)を国是としている。 | ||
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+ | == 引用文献 == | ||
+ | 世界大百科事典 発行平凡社 | ||
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原子爆弾
ウラン235、プルトニウム239などの原子核分裂の連鎖反応の際放出される核分裂エネルギーを破壊目的に利用した各兵器原子爆弾。
日本への影響
原子爆弾が人間の殺傷、住宅の破壊に実際に用いられたのは1945年8月6日広島市、8月9日長崎市においてだけであり、投下したのはアメリカ軍であった。しかもその直後に行われた日本人科学者や報道カメラマンの調査資料は占領軍によって押収され、また進駐後アメリカが行った調査も長い間公開されなかった。そのため史上に比を見ない残虐無道な原爆災害の実相を、世界の市民は長い間知らず、特に核保有国の多くの市民たちは、原爆を国家威信の象徴と考えてきた。
戦後の原子爆弾
戦後ソ連、イギリス、フランス、中国が次々に原爆の実験に成功した時、それらの国の市民の圧倒的多数はその報道を熱狂して迎えた。原爆を日本以外の国の市民が真剣に考えるようになったのは、ようやく1980年代初めからで、それも主として西ヨーロッパの市民たちである。それは、そてまで〈使わない兵器〉と信じこまされていた原爆が、〈限定核戦争〉の名で自分たちの住んでいるところで実際に使われる恐れがあることに気づいたからである。彼らはユーロシマという言葉を作り、ヒロシマ、ナガサキを身近に感じ始めた。
戦後の日本
1980年代になって日本では中学教科書からヒロシマ、ナガサキの原爆災害写真が除かれるなど、諸外国と逆の傾向があらわれてきた。原爆は生き残った人たちにも長年にわたって肉体的・精神的苦痛を与えるが、その生き証人である原爆被害者に対する救護法も、たびたびの請願にもかかわらずまだ制定されていない。その口実として、被害者と他の戦争被害者を区別するのは妥当ではない、などと言われてきた。にもかかわらず、日本の大多数はヒロシマ、ナガサキの体験によって、日本国憲法の平和主義、とくに戦力放棄を明文化した第9条の世界史的意味を自覚し、核兵器廃絶の思想を堅持してきた。日本もこのことを考慮して、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込まず)を国是としている。
引用文献
世界大百科事典 発行平凡社
H.N pei