ゴ・ディン・ジェム
出典: Jinkawiki
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ベトナム共和国(南ベトナム)の初代大統領。フエのカトリック系官人の出身で,早くから親米反共民族主義者として知られた。1954年バオダイ・ベトナム国の首相に任命され,55年国民投票によりベトナム共和国大統領に就任した。その出身,宗教のせいか大衆の支持が得られず,同族,カトリックによる反共ファッショ体制をとった。外交ではジュネーブ協定を無視し,アメリカの援助に依存してベトナム民主共和国(北ベトナム)を敵視する政策をとった。 | ベトナム共和国(南ベトナム)の初代大統領。フエのカトリック系官人の出身で,早くから親米反共民族主義者として知られた。1954年バオダイ・ベトナム国の首相に任命され,55年国民投票によりベトナム共和国大統領に就任した。その出身,宗教のせいか大衆の支持が得られず,同族,カトリックによる反共ファッショ体制をとった。外交ではジュネーブ協定を無視し,アメリカの援助に依存してベトナム民主共和国(北ベトナム)を敵視する政策をとった。 | ||
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2013年8月2日 (金) 15:30の版
表記
ゴ・ディン・ジェム【Ngo Dinh Diem】 1901‐63
内容
ベトナム共和国(南ベトナム)の初代大統領。フエのカトリック系官人の出身で,早くから親米反共民族主義者として知られた。1954年バオダイ・ベトナム国の首相に任命され,55年国民投票によりベトナム共和国大統領に就任した。その出身,宗教のせいか大衆の支持が得られず,同族,カトリックによる反共ファッショ体制をとった。外交ではジュネーブ協定を無視し,アメリカの援助に依存してベトナム民主共和国(北ベトナム)を敵視する政策をとった。
政治
1954年サイゴンチョロン平和委員会が結成され、宗教関係者、知識階級が反米・反ジェム運動が起こる。翌1955年2月12日、米軍援助顧問団は南ベトナム軍の訓練を開始、同1955年7月17日、米国は反共産主義者でカトリック教徒の文民政治家ゴディンジェム(呉廷琰)を大統領(1901年生れ)に任命、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワードランズデールが支援、米国政府は10月23日にはジェム政権への直接援助を通告。同1955年10月26日国民投票が行われ98.2%の信任を得たとし、ベトナム国政府・保大帝(バオダイ)が退陣、ゴディンジェム大統領就任、ジェム政権が樹立、ベトナム共和国(南ベトナム)が成立。この時期ジェム政権は私兵集団・ビンスエン派壊滅に成功。ジェム大統領の実弟ゴディンニュ<NGO DINH NHU>が顧問(秘密警察長官)となるが、秘密警察を使い悪虐の限りを尽くす(ジェム大統領は三人兄弟のもうひとりはカトリックの司祭)。またゴディンニュ夫人のチャンレスゥアン<TRAN LE XUAN>はジェム政権下で “ドラゴンレディ” と呼ばれ僧侶の路上焼身抗議自殺を “バーベキュー” と放言、世界中に報道され憎悪をかう。ジェム一族またカンラオと呼ばれる側近たちの腐敗が蔓延、農民を無視した政策、土地改革・戦略村構想を実施するが失敗。ジェム大統領は1955年5月から翌1956年5月まで第一次反共政策を強行、反政府と思われる人物を逮捕投獄(1958年までに南ベトナム共産党員や指示者の90%を殺害)。1956年4月26日フランス軍司令部がサイゴンから引き揚げる。
1961年1月26日、アメリカでジョンFケネデイが大統領就任、キューバ、ベトナムなど第3世界への軍事介入を強化。1961年11月南ベトナムに米軍ヘリコプター部隊、軍事顧問団を派遣、3200名の米軍兵士が駐留、翌1962年MACV・南ベトナム軍事援助司令部設置、米兵1万1500名に増員。同1961年11月南ベトナムはラオスと国交断絶。1961年5月11日リンドンジョンソン米副大統領、10月15日米大統領軍事顧問テーラー大将が南ベトナム訪問、ジョンソン副大統領はベトナム視察報告書の中で南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を東洋のウィンストンチャーチルと喩え全面的な支援を訴える。12月11日米軍時要員200名、ヘリコプター40機、練習機15機がサイゴンに到着、12月14日ケネディ大統領はジェム大統領に書簡で援助増加を約束する。
1962年2月27日ドンナイのロンタン空港から飛び立ったファムフックオックとグエンバンクゥ2名のパイロットのAD6戦闘機がドックラップ宮殿・大統領官邸(現統一会堂)を爆撃建物左側が破壊される。ジェム大統領は宮殿の建て直しを命令、ローマ優秀賞を受賞した建築家ゴベットトゥの設計で、工期4年で1966年に完成(ジェム大統領は完成前に暗殺される)。同1962年5月9日マクマナラ米国防長官南ベトナム訪問。1963年1月2日米軍の火力支援、航空攻撃支援の後、リトンバ南ベトナム指揮官率いる政府軍は装甲車を立ててアブバクに侵入した、わずか200名の解放ゲリラの反撃に遭い、逃げ出し大きな被害を出し敗北。このアブバクの戦いの敗北により南ベトナム政府軍の無力が露呈、また米軍の特殊戦争戦略の見直しが迫られた。介入に消極的だったケネディ米大統領はこれを機に米軍の直接介入を決断したとされる。
独裁的な指向のジェム政権は仏教弾圧を行い、僧侶による抗議行動が起き、1963年6月11日フエのテイエンムー寺のテイッククアンドゥック住職はサイゴンのアメリカ大使館前の路上でガソリンをかぶり抗議焼身自殺を計る。焼身自殺は事前にマスコミに告知され、全世界にテレビを通じ放映され、大きな衝撃を与えた。同63年8月18日南ベトナムの仏教徒1万5000人による抗議デモが起き、8月22日南ベトナムに戒厳令が出され、寺院を占拠多くの僧侶が逮捕される。
ケネディ大統領の命によりヘンリーカボットロッジ駐南ベトナム特命全権大使がジェム大統領に会見を申し出るが拒否される。ジェム大統領に対するアメリカのコントロールが利かなくなったことを受け、ケネディ大統領はロバートマクナマラ国防長官と事態解決のための討議を進めるが打開策はみつからず。CIAとアメリカ大使館の後押しで南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、軍事顧問団と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一)によって反ジェムクーデターを計画、その状況はホワイトハウスにも報告された。1963年11月2日南ベトナム政府に対するクーデターが起き、ゴディンジェム大統領と彼の実弟ゴディンニュはチョロン(中華街)のチャタム教会に逃げ込み、クーデター側に降伏、教会前に止められた装甲兵員輸送車の中で頭部を撃たれ殺害される。顧問・秘密警察長官のゴディンニュの妻チャンスーレアンを含む政府首脳陣は国外へ逃亡。後にマクナマラ国防長官はクーデターに対し、ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかったと、ケネディ大統領が事実上黙認したと証言。またクーデターの発生の報告を受けたケネディ大統領は、アメリカは無関係との声明を出すように指示。
参考文献2http://blogs.yahoo.co.jp/michaeleiji/6243667.html
HN MH