ポンペイ
出典: Jinkawiki
2013年8月3日 (土) 16:50の版 Bunkyo-studen2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | ポンペイ(ラテン語: Pompeii、イタリア語: Pompei)は、イタリア中南部カンパニーア地方、ナポリ湾東岸、ベズビオ火山の南の麓にあった古代都市。79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡はユネスコの世界遺産に登録されている。 | + | ポンペイ(ラテン語: Pompeii、イタリア語: Pompei)は、イタリア中南部カンパニーア地方、ナポリ湾東岸、ヴェスヴィオ火山の南の麓にあった古代都市。79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡はユネスコの世界遺産に登録されている。 |
- | + | 発掘は1748年以来、特に1860年以後組織的に行われ、現在も進行中。ヘレニズム化したローマの小都市の姿を今に伝える。 | |
- | 発掘は1748年以来、特に1860年以後組織的に行われ、現在も進行中。ヘレニズム化したローマの小都市の姿を今に伝える。 | + | |
+ | 歴史 | ||
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+ | イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。 | ||
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+ | カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。 | ||
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+ | 62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない79年8月24日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。 | ||
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+ | 翌25日の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。 | ||
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参考文献:山川 世界史小辞典、 | 参考文献:山川 世界史小辞典、 | ||
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ポンペイ(ラテン語: Pompeii、イタリア語: Pompei)は、イタリア中南部カンパニーア地方、ナポリ湾東岸、ヴェスヴィオ火山の南の麓にあった古代都市。79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡はユネスコの世界遺産に登録されている。 発掘は1748年以来、特に1860年以後組織的に行われ、現在も進行中。ヘレニズム化したローマの小都市の姿を今に伝える。
歴史
イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。
カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。
79年のヴェスヴィオ火山噴火
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない79年8月24日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
翌25日の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。
参考文献:山川 世界史小辞典、 ウィキぺディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4)
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