アウステルリッツの戦い

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アウステルリッツの戦い

アウステルリッツの三帝会戦とも呼ばれる。1805年12月2日にナポレオン1世のフランス軍がフランツ1世とアレクサンドル1世のオーストリア・ロシア連合軍に大勝した戦い。 直前のトラファルガーの海戦でフランス艦隊は敗れたが、この戦いによって第三回対仏大同盟は崩壊し、翌年にはプロイセンもイエナの戦いでナポレオンに敗れ大陸におけるナポレオンの支配が確立した。オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世が指揮を取ったことが三帝会戦と呼ばれるゆえんである。この戦いでオーストリア、ロシアの連合軍を破ったナポレオンは1806年自らの保護下に西南ドイツ諸国を合わせライン同盟を結成した(このとき、オーストリア皇帝は神聖ローマ帝国皇帝の地位を放棄し帝国は消滅した)。


アウステルリッツ

オーストリア領(現チェコ領)ブルノ近郊の町


イエナの戦い

ナポレオンがロシアを決定的に打ちやぶった1806年の戦い。


ライン同盟

フランスの主導化にドイツ連邦が結成した同盟。 (1)1658年ドイツ連邦とフランスがウェストファリア条約の遵守と反オーストリア勢力の強化をめざして締結したが、68年に解体した。 (2)1806-13年ナポレオンの保護下にバイエルンなど中小ドイツ諸邦が参加した同盟。別名ライン連邦。


ウェストファリア条約

三十年戦争(1618-48)に締結された条約。1645年からのドイツのウェストファリア地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて講和会議が開かれ、各国の利害が衝突して長引いた末、1648年10月24日に調印された。


<参考>

・コトバンク

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