沖縄戦争

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2013年8月7日 (水) 21:30の版
Bunkyo-studen2008 (ノート | 投稿記録)

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 沖縄戦争とは、1945年の太平洋戦争末期に沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする、連合国軍と日本国軍との間で行われた戦いである。戦争が始まって以来進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなった。このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とすることにした。これに対しアメリカは、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦という)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行なった。この沖縄での戦闘は、6月23日未明に司令官と参謀長が自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされているが、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き戦闘が行なわれていた。この約3~5ヶ月の間の戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、一般住民約10万人を含め約20数万人といわれている。  沖縄戦争とは、1945年の太平洋戦争末期に沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする、連合国軍と日本国軍との間で行われた戦いである。戦争が始まって以来進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなった。このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とすることにした。これに対しアメリカは、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦という)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行なった。この沖縄での戦闘は、6月23日未明に司令官と参謀長が自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされているが、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き戦闘が行なわれていた。この約3~5ヶ月の間の戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、一般住民約10万人を含め約20数万人といわれている。
<経緯> <経緯>
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1941年 日本海軍、真珠湾への奇襲攻撃・太平洋戦争始まる       1941年 日本海軍、真珠湾への奇襲攻撃・太平洋戦争始まる      
1942年 ミッドウェー海戦で日本海軍敗北 1942年 ミッドウェー海戦で日本海軍敗北
 +1943年 「学徒戦時動員体制確立要綱」決定
 +1944年 南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開閣議決定する→沖縄大空襲→第1次防衛召集(17歳から45歳までの健全な男子を防衛隊として召集)主に飛行場建設に従事
 +1945年 第2次防衛召集(17歳から45歳までのほとんどの男子を召集)→国民勤労動員令公布 沖縄県の15歳から45歳までの男女を「根こそぎ」動員する→硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する→米軍が沖縄諸島に空襲を開始する→南西諸島防衛のため沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方にお いて撃沈される→米軍が伊江島に上陸する→米軍が首里を占領する→日本軍の海軍部隊が壊滅する→沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わる→米軍が沖縄作戦の終了を宣言する→連合軍が対日ポツダム宣言を発表する→広島に原爆が投下される→ソ連が日ソ中立条約を破棄する→
 +長崎に原爆が投下される→ポツダム宣言の無条件受諾を決定する→沖縄・宮古・八重山・奄美の行政権が日本から分離される
 +1952年 サンフランシスコ講和条約発効により沖縄が米国施政権下に入る
 +1972年 沖縄の復帰
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 +<集団自決>
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 + 沖縄戦争といえば、大勢の罪のない人々が集団自決を余儀なくされたことが有名である。集団自決とは、米軍との地上戦が行われた慶良間諸島や沖縄本島各地で起きた住民の集団死。住民が持久戦の足手まといになると考えた日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を広め、米軍上陸に備えて住民に手投げ弾が配布された。沖縄全域で少なくとも1千人近くが「集団自決」に追い込まれた。

最新版

<概要>    沖縄戦争とは、1945年の太平洋戦争末期に沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする、連合国軍と日本国軍との間で行われた戦いである。戦争が始まって以来進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなった。このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とすることにした。これに対しアメリカは、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦という)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行なった。この沖縄での戦闘は、6月23日未明に司令官と参謀長が自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされているが、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き戦闘が行なわれていた。この約3~5ヶ月の間の戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、一般住民約10万人を含め約20数万人といわれている。

<経緯>

1941年 日本海軍、真珠湾への奇襲攻撃・太平洋戦争始まる       1942年 ミッドウェー海戦で日本海軍敗北 1943年 「学徒戦時動員体制確立要綱」決定 1944年 南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開閣議決定する→沖縄大空襲→第1次防衛召集(17歳から45歳までの健全な男子を防衛隊として召集)主に飛行場建設に従事 1945年 第2次防衛召集(17歳から45歳までのほとんどの男子を召集)→国民勤労動員令公布 沖縄県の15歳から45歳までの男女を「根こそぎ」動員する→硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する→米軍が沖縄諸島に空襲を開始する→南西諸島防衛のため沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方にお いて撃沈される→米軍が伊江島に上陸する→米軍が首里を占領する→日本軍の海軍部隊が壊滅する→沖縄における日本軍の組織的抵抗がほぼ終わる→米軍が沖縄作戦の終了を宣言する→連合軍が対日ポツダム宣言を発表する→広島に原爆が投下される→ソ連が日ソ中立条約を破棄する→ 長崎に原爆が投下される→ポツダム宣言の無条件受諾を決定する→沖縄・宮古・八重山・奄美の行政権が日本から分離される 1952年 サンフランシスコ講和条約発効により沖縄が米国施政権下に入る 1972年 沖縄の復帰

<集団自決>     沖縄戦争といえば、大勢の罪のない人々が集団自決を余儀なくされたことが有名である。集団自決とは、米軍との地上戦が行われた慶良間諸島や沖縄本島各地で起きた住民の集団死。住民が持久戦の足手まといになると考えた日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を広め、米軍上陸に備えて住民に手投げ弾が配布された。沖縄全域で少なくとも1千人近くが「集団自決」に追い込まれた。


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