ピューリタン革命
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ピューリタン革命とは、1640年代にイギリスで起こった革命である。
目次 |
チャールズ1世の即位
チャールズ1世(位1625~49)は、父であり王でもあったジェームズ1世以上に専制政治を強要した。
1628年にイギリスの議会は、チャールズに対して「権利の請願」を提出し、「議会の承認なき課税の禁止」などの近代市民社会の基本原則を確認させた。
王はこれに対して、翌年議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治を行った。
この間に王は、国教会と国家の結びつきをさらに強めた。
しかし、1639年、長老派のスコットランドに国教を強制したことにより、王は戦費調達のために議会の招集を余儀なくされた。
短期議会と長期議会
戦費調達のために開かれた議会は、課税を拒否し、王を非難したため、王はこの議会を3週間で解散させる。(短期議会)
同年に王は新たな議会を開くが、1640年に「大抗議書」発表し、ますます対立は決定的になる。(1653年まで続く長期議会)
1642年に5名の議員の逮捕に失敗した王は、北部のヨークに逃れ、イギリスは内戦に突入した。
内乱とクロムウェルの登場
始めは王党派(王側の陣営)が有利であった。
だが、議会派(議会側の陣営)の中心が独立派(穏健な共和制を求めた)のオリヴァ=クロムウェル(1599~1658)となると、鉄騎兵などの軍を編成し、1644年のマーストン=ムーアの戦いで形成を逆転する。
そして、翌年のネーズビーの戦いで、議会は王党派を破る。
議会派内での対立と共和制の樹立
その後、勝利した議会派の中では、独立派と長老派(立憲政治を求めた)と水平派(男子普通選挙などを求めた)との間に次々と対立が生じる。
クロムウェル率いる独立派は、まず水平派と手を結び、長老派を追放する。
ついで1649年には、水平派を抑え、独立派が独裁権を獲得する。
また同年に、国王は処刑され、クロムウェルらが共和制を打ち立てる。
革命後のクロムウェルのイギリス
権力を持ったクロムウェルは、アイルランドを征服したほか、1651年には航海法を施行し、オランダの中継貿易を妨げる。
航海法が原因で起こった英蘭戦争に勝利すると、1653年に護国卿となり、軍事独裁を行い、結果的にクロムウェルの独裁政治は王政復古に繋がった。
出典:改定版 詳説世界史研究(山川出版)、図説世界史 なるほど辞典(実業之日本社)
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