ベトナム戦争10
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- | '''概要''' | + | ==概要== |
- | ベトナム戦争は宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説ある。南北ベトナムの統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線がベトナム共和国(南ベトナム)政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的である。 | + | |
- | この戦争はアメリカを盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」であった。ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、南ベトナムをアメリカ合衆国の傀儡国家と規定し、ベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。 | + | |
- | 第一次インドシナ戦争終結後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(アメリカ合衆国民からの敵視表現ではベトコン)が南ベトナムで反政府活動を続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣した。ジョン・F・ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させた。リンドン・ジョンソン大統領は大規模なアメリカ軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入した。 | + | |
- | アメリカの他にSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である大韓民国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムに派兵した。ソビエト連邦や中華人民共和国は北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。さらにソビエト連邦は西側諸国で行われた反戦運動に様々な形での支援を行っていた。北朝鮮は飛行大隊を派遣しハノイの防空を支援した。 | + | |
- | ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム+南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。 | + | |
- | '''日本との関わり''' | + | ベトナム戦争は1946年から1954年におこった第一次インドシナ戦争で南北に二分化されたベトナムの統一のために「南ベトナム解放民族戦線とこれを支持する北ベトナム政府」と「南ベトナム政府とこれを支持するアメリカ」によって引き起こされた20年にわたる戦争である。結果、南ベトナムの崩壊、ベトナムの南北統一がなされた。また、この戦争は、ベトナム、アメリカの双方がメディアを利用したために、その悲惨さが明るみになった戦争でもある。加えて、この戦争で、アメリカ軍が使用した枯葉剤はベトナムの森林を枯れさせただけでなく、ベトナムの人々の体に害を与え、その後遺症に苦しむ人や、これが原因で生まれてくる障害を持った子供が生まれてしまうなど、現在にもベトナム戦争は深い傷跡を残してる。この戦争における死亡者は約146万2千人、行方不明者は約209万4千人である。 |
- | 19世紀以来のフランスによる植民地支配を崩壊させたのは日本であった。日中戦争当時、英米は援蒋ルートを通じて蒋介石国民党軍拠点の重慶に支援物資を輸送していた。援蒋ルートのうち、フランス領インドシナのハイフォン港から昆明、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった。フランスでヴィシー政権が成立すると、1940年7月27日、日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。9月22日にはフランス軍と日本軍第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを制圧する。9月26日、日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援蒋ルートは遮断された。国境監視団は澄田睞四郎少将(澄田機関)が行った。ベトナム人は日本軍を「救国の神兵」として歓迎し、現地駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする。しかし、東京の大本営は独立支援を許可しなかった。二ヶ月後にフランス軍が再度ランソンに進軍。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる。逃れた義兵は中国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される。 | + | |
- | '''年表''' | + | ==アメリカにとってのベトナム戦争== |
- | 1960年:南ベトナム解放民族戦線が結成され南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始(12月) | + | |
- | 1961年:ジョン・F・ケネディが大統領に就任(1月)。 | + | |
- | 1962年:「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置(2月)、南ベトナムとラオスが国交断絶(11月) | + | |
- | 1963年:アプバクの戦い(1月)、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領暗殺(11月)、ジョン・F・ケネディ暗殺(11月)、リンドン・B・ジョンソンが大統領に就任(11月) | + | |
- | 1964年:南ベトナムでグエン・カーン将軍によるクーデター(1月)、トンキン湾事件(8月2日) | + | |
- | 1965年:アメリカ軍による北爆開始(2月7日)、アメリカ海兵隊がダナンに上陸(3月)、韓国軍派遣(10月) | + | |
- | 1966年:タイビン村虐殺事件(2月)、北ベトナムに対するB-52による初空襲(4月)、ビンホア虐殺(en)(12月)、初のクリスマス休戦(12月) | + | |
- | 1967年:南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃(7月)、グエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任(9月) | + | |
- | 1968年:テト攻勢開始(1月)、フォンニィ・フォンニャットの虐殺(2月)、ソンミ村虐殺事件(3月)、パリ和平交渉開始(5月) | + | |
- | 1969年:北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表(6月)、ホー・チ・ミン死去(9月) | + | |
- | 1970年:リチャード・ニクソン大統領就任(1月)、南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻(4月)、カンボジア内戦勃発 | + | |
- | 1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始、南ベトナム大統領選挙(10月) | + | |
- | 1972年:北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開・停止(12月) | + | |
- | 1973年:パリ協定締結(1月)、アメリカ軍がベトナムから撤兵完了(3月) | + | |
- | 1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲(2月)、ジェラルド・R・フォード大統領就任(8月) | + | |
- | 1975年:北ベトナム軍全面攻撃開始(3月)、サイゴン陥落、南ベトナム崩壊(4月30日)、サイゴンがホーチミン市へ改名(5月) | + | |
+ | アメリカにとってのベトナム戦争は、アメリカ初の敗戦ということだけではなく、「冷戦」における共産主義と資本主義の対立に置いて、共産主義に立ち向かうための重要な戦争であった。この敗戦によって、世界を代表するアメリカとしての威厳が脅かされ、共産主義は拡大の一途を見せたと言える。また、メディアを通して、国民もアメリカ軍の残虐な行為を目の当たりにしたことによって、自国民に対してもその威厳を脅かされたと同時に、戦争の悲惨さを国民に知らしめた。 | ||
- | 参考[http://jiten.biglobe.ne.jp/j/b8/a4/2b/fbe22e0c856d28222a861649bb5281a6.htm#.E5.B9.B4.E8.A1.A8] | + | |
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+ | ==参考== | ||
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+ | http://www.u-keiai.ac.jp/issn/documents/america.pdf#search='%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89+%E6%96%87%E7%8C%AE' | ||
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+ | http://www.hns.gr.jp/sacred_place/material/reference/03.pdf#search='%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89+%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E6%95%B0' |
最新版
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概要
ベトナム戦争は1946年から1954年におこった第一次インドシナ戦争で南北に二分化されたベトナムの統一のために「南ベトナム解放民族戦線とこれを支持する北ベトナム政府」と「南ベトナム政府とこれを支持するアメリカ」によって引き起こされた20年にわたる戦争である。結果、南ベトナムの崩壊、ベトナムの南北統一がなされた。また、この戦争は、ベトナム、アメリカの双方がメディアを利用したために、その悲惨さが明るみになった戦争でもある。加えて、この戦争で、アメリカ軍が使用した枯葉剤はベトナムの森林を枯れさせただけでなく、ベトナムの人々の体に害を与え、その後遺症に苦しむ人や、これが原因で生まれてくる障害を持った子供が生まれてしまうなど、現在にもベトナム戦争は深い傷跡を残してる。この戦争における死亡者は約146万2千人、行方不明者は約209万4千人である。
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アメリカにとってのベトナム戦争
アメリカにとってのベトナム戦争は、アメリカ初の敗戦ということだけではなく、「冷戦」における共産主義と資本主義の対立に置いて、共産主義に立ち向かうための重要な戦争であった。この敗戦によって、世界を代表するアメリカとしての威厳が脅かされ、共産主義は拡大の一途を見せたと言える。また、メディアを通して、国民もアメリカ軍の残虐な行為を目の当たりにしたことによって、自国民に対してもその威厳を脅かされたと同時に、戦争の悲惨さを国民に知らしめた。
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