トラウトマン和平工作
出典: Jinkawiki
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日中戦争の際に、駐華ドイツ大使オットー・トラウトマンが仲介者として試みた日中戦争早期解決のための調停工作。当初日本側が提示した和平案の内容は比較的寛大なものであったが、蒋介石は一度 これを拒否する。蒋介石は期待していたブリュッセル会議にほとんど進展が見られなかったため、一転して日本の和平案に応じる姿勢を見せた。しかし、南京が陥落目前になるなど戦況が変化したため、 日本側が和平の条件を厳しいものした。結果的に和平交渉は決裂した。
目次 |
和平案がもたらされる直前の中国
盧溝橋事件が発生して2か月以上たった9月13日、中国は国際連盟規約第十条、第十一条、第十七条によって日本の軍事行動を国際連盟に提訴した。中国代表の顧維鈞駐仏大使は、第十七条(非連盟国に 対する措置)による勧告を日本が拒否すれば第十五条、第十六条による制裁措置を発動することを意図していた。しかし、イギリスのイーデン外相、フランスのデルボー外相、アヴノール連盟事務総長は、 日本の宣戦布告・アメリカの中立法発動・中国への武器輸出禁止の可能性について顧維鈞に注意喚起した。連盟理事会は本件を別の諮問委員会に付託し、諮問委員会は日中両国、ドイツ、オーストラリア に参加を促したが日独は拒否した。諮問委員会は、日本空軍の中国都市爆撃を非難する決議を採択し、連盟総会も全会一致で承認した。10月になると、国際連盟総会は「中国に対する日本の軍事行動は紛 争の起因となった事件とは絶対に比較にならぬ大規模なものと認めざるを得ない」とし、日本の軍事行動は自衛ではなく日本が加盟している九ヶ国条約、パリ不戦条約の違反であると認定した。また、連 盟のとるべき処置として、なるべく早く九ヶ国条約署名国の会議を招集することを勧告した。ベルギーの首都ブリュッセルで九ヶ国条約国会議は開催されることとなった。独ソ両国も招かれたが、ドイツ は拒否した。アメリカが会議をリードする立場であるかどうかという点でブリュッセル会議は国際連盟主催の会議と大きく異なる。ブリュッセル会議は11月3日から約三週間開かれたが、英米ともに経済制 裁などの実質的に効果をもつ政策に消極的であったため、これといった成果はあげられなかった。
第一次トラウトマン和平工作
盧溝橋事件から約4か月後の1937年11月2日、日本の広田弘毅外相は駐日ドイツ大使ディルクセンに日本の和平条件を正式に通知した。内容の概略は以下の通りである。
一、外蒙と同じ国際的地位をもつ内蒙自治政府の樹立
二、華北に、満州国境より天津、北京にわたる非武装地帯を設定、中国警察隊が治安維持。ただちに和平が成立するときは華北の全行政権は南京政府に委ねられるが、日本としては長官には親日的人物を希 望する。ただちに和平が成立しないときは新行政機構を設立する必要があるが、この機関は和平後もその機能を継続する。日本は華北にいかなる自治政府を設立することも控える。経済面では鉱物資源採掘交渉は続行される。
三、上海の非武装地帯を拡大し、国際警察により管理する。
四、排日政策の廃止
五、共同防共。ただし中ソ不可侵条約と抵触はしない
六、日本商品に対する関税引き下げ
七、外国人権利の尊重
この内容は8月上旬に国民政府側に日本側が提案した船津和平工作案とほとんど同じで非常に寛大なものであった。船津和平工作案は、広田外相が中国をはじめ世界が日本の「公正無私な態度に敬服する」内容と自賛したものであった。しかし、大山中尉殺害事件の発生で交渉は中止になっている。改めて日本から和平案が通告されたこと受けて、ドイツ政府も日本側の和平条件を妥当なものと判断した。トラウトマン駐華ドイツ大使を通じて、11月5日に蒋介石に伝えられた。しかし、蒋介石は11月3日から開かれていたベルギーのブリュッセルでの九ヶ国条約会議で、より中国に有利な調停を行ってくれること に期待していたため、この和平案を拒否した。しかしその国際会議は、日本非難声明を発しただけで、有効な対日圧力を与えることなく終わった。
第二次トラウトマン和平工作
12月2日、蒋介石は漢口からきたトラウトマンを引見した。ブリュッセル会議が期待した成果なく終わった蒋介石は、11月5日の時点では拒否した日本の和平条件受諾の意向をトラウトマンに伝えた。蒋 介石の意向は12月7日にディルクセン駐日ドイツ大使から広田弘毅外相に伝えられた。広田外相は、11月はじめに提示した日本側からの条件はこの一か月の日本の軍事的勝利によって変更され得ることを 示唆した。12月13日に日本軍が南京を占領、その後北支に親日的な中華民国臨時政府が成立した。またそもそもこの広田案は、当時の外務省局長でも新聞報道によって初めて事実を知るほどのトップ・シ ークレットであった。このような日本に有利な戦局の変化を経て、広田外相が新しい和平条件をディルクセン大使に提示したのは12月22日である。内容の概略は以下の通りである。
一、容共抗日満政策の放棄と防共政策に協力
二、所要地域の非武装地帯化と当該地域における特殊機構の設定
三、日満支三国間の密接な経済協定の締結
四、所要の賠償
以上が正式な新和平の四条件であるが、そのほかに中国側に伝えることが要請されたわけではない詳細条件がある。内容の概略は以下の通りである。
一、満州国の正式承認
二、排日、排満政策の放棄
三、北支、内蒙に非武装地帯設置
四、北支に日満支三国の共存共栄のための適当な機構を設置し広範な権限を付与
五、内蒙古に防共自治政府の設立(国際的地位は外蒙と同じ)
六、防共政策を確立し日満と協力
七、中支占拠地域に非武装地帯を設定、大上海市区域は治安維持、経済発展に日支協力
八、日満支三国は資源の開発、関税、航空などにつき協定締結
九、所要の賠償支払い
付記
一、北支、内蒙、中支の一定地域に保障のため日本軍駐屯
二、前諸項に関する協定成立後休戦協定開始
トラウトマンは26日、この新しい和平条件を中国側に伝えた。そしてさらに首都南京陥落の効果を意識したためか、一定の日限内に講和使節を日本の指定する地点に派遣することを求め、本年中に回答す べしと期限を設けた。また、詳細条件の十一カ条も1938年1月1日トラウトマンから非公式に中国に伝えられた。新和平条件は前日の21日の閣議を承認されたものであるが、続いて24日の閣議で決定され た「支那事変対処要綱」とあわせみると、この第二次和平案は第一次和平案に比べて明らかに広範囲の中国支配を意図している。この構想は1938年1月11日の御前会議で「支那事変処理根本方針」として 決定された。年が明けても支那側は回答を遅らせ続けたため、1月12日、堀内次官はドイツ側に回答期限を15日と通告した。その結果、支那側は王寵恵外交部長を通じてトラウトマンに、より詳細な内容 が知りたいとの回答を寄せた。この支那側の回答がディルクセンにより日本側にもたらされたのは14日午後である。交渉の打ち切りをめぐって大本営、政府連絡会議で15日朝から夜まで断続的に激しい議 論が展開された。即時打ち切りに最後まで反対したのは多田参謀次長一人となり、16日には広田はドイツ大使に交渉打ち切りを通告。有名な第一次近衛声明、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝 国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」を発表した。
参考文献
大杉一雄 1996『日中十五年戦争史 なぜ戦争は長期化したか』 中公新書
臼井勝美 2000『新版 日中戦争 和平か戦線拡大か』 中公新書
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_torautoman-1.html
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_torautoman-2.html
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