武田信玄2
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- | 武田信玄(たけだ しんげん)1521~1573清和天皇を祖とする清和源氏の流れをくむ名族の出身で、源頼義(みなもとのよりよし)の子、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)[八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)]の子孫にあたる。武田氏は、常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)に拠点を構えた、新羅三郎義光の子、源義清(みなもとのよしきよ)が、息子清光(きよみつ)とともに、甲斐国市川荘に移されたのがはじまりであり、この子孫は、甲斐源氏と総称された。なお、源義清・清光父子は、すでに常陸国在国時代には、在地を名字とし、武田氏を名乗っていたことが指摘されている。名は晴信(はるのぶ)で出家して信玄と号す。父信虎(のぶとら)の専断のゆえに家臣団が離反しようとしたため、父を追放して家督を継いだ。 | + | 武田信玄(たけだ しんげん)1521~1573 清和天皇を祖とする清和源氏の流れをくむ名族の出身で、源頼義(みなもとのよりよし)の子、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)[八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)]の子孫にあたる。武田氏は、常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)に拠点を構えた、新羅三郎義光の子、源義清(みなもとのよしきよ)が、息子清光(きよみつ)とともに、甲斐国市川荘に移されたのがはじまりであり、この子孫は、甲斐源氏と総称された。なお、源義清・清光父子は、すでに常陸国在国時代には、在地を名字とし、武田氏を名乗っていたことが指摘されている。名は晴信(はるのぶ)で出家して信玄と号す。父信虎(のぶとら)の専断のゆえに家臣団が離反しようとしたため、父を追放して家督を継いだ。 |
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+ | 信濃の支配をめぐって越後の上杉謙信と川中島で争い、駿河、遠江に兵を進めて織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破ったが、上京の志を果たさず死去した。「甲州法度之次第」や信玄堤などすぐれた分国支配を行った。 |
2015年7月28日 (火) 21:00の版
武田信玄2
武田信玄
武田信玄(たけだ しんげん)1521~1573 清和天皇を祖とする清和源氏の流れをくむ名族の出身で、源頼義(みなもとのよりよし)の子、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)[八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)]の子孫にあたる。武田氏は、常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)に拠点を構えた、新羅三郎義光の子、源義清(みなもとのよしきよ)が、息子清光(きよみつ)とともに、甲斐国市川荘に移されたのがはじまりであり、この子孫は、甲斐源氏と総称された。なお、源義清・清光父子は、すでに常陸国在国時代には、在地を名字とし、武田氏を名乗っていたことが指摘されている。名は晴信(はるのぶ)で出家して信玄と号す。父信虎(のぶとら)の専断のゆえに家臣団が離反しようとしたため、父を追放して家督を継いだ。 経歴
信濃の支配をめぐって越後の上杉謙信と川中島で争い、駿河、遠江に兵を進めて織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破ったが、上京の志を果たさず死去した。「甲州法度之次第」や信玄堤などすぐれた分国支配を行った。