アレックス・ラミレス
出典: Jinkawiki
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シーズン終了後に球団側との契約交渉が決裂したことで退団が決まり、11月30日に自由契約。同年12月29日、読売巨人軍への入団が決定。 | シーズン終了後に球団側との契約交渉が決裂したことで退団が決まり、11月30日に自由契約。同年12月29日、読売巨人軍への入団が決定。 | ||
- | 巨人移籍への背景 | + | |
自由契約となったラミレスに対し、興味を持ったのが読売巨人軍とオリックス・バファローズだったが、オリックスはアレックス・カブレラを獲得したため、巨人が獲得した(背番号は「5」)。 | 自由契約となったラミレスに対し、興味を持ったのが読売巨人軍とオリックス・バファローズだったが、オリックスはアレックス・カブレラを獲得したため、巨人が獲得した(背番号は「5」)。 | ||
- | 巨人時代 | + | |
2008年は開幕から5番打者として迎えた。主に4番で起用されるようになった。2年連続3度目の打点王を獲得。この年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。DH制の試合では主にDHとして起用されていた。この年にFA(フリーエージェント)資格を取得したため、2009年から外国人枠を外れて日本人扱いとなった。 | 2008年は開幕から5番打者として迎えた。主に4番で起用されるようになった。2年連続3度目の打点王を獲得。この年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。DH制の試合では主にDHとして起用されていた。この年にFA(フリーエージェント)資格を取得したため、2009年から外国人枠を外れて日本人扱いとなった。 |
2015年7月30日 (木) 06:18の版
ベネズエラ出身の元メジャーリーガー、元プロ野球選手。 2000年にヤクルトスワローズに入団した(背番号は「3」)。当時、フロリダで家と車を購入し、そのローンが残っていたので、日本で稼いで、返済したらすぐに戻るつもりだった。
1年目の2001年から活躍し、チームのリーグ優勝・日本一に貢献した。契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプで右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀(元 北海道日本ハムファイターズ)の守備を見て「自分は彼(稲葉)には勝てない」と感じ、左翼手に転向したという逸話がある。 2003年は4番に座り、打点王・本塁打王・最多安打・ベストナイン獲得。 2007年には外国人選手・右打者として史上初のシーズン200本安打を達成。(100打点、200安打、打率.300以上を同時達成。これはプロ野球史上唯一の記録。) シーズン終了後に球団側との契約交渉が決裂したことで退団が決まり、11月30日に自由契約。同年12月29日、読売巨人軍への入団が決定。
自由契約となったラミレスに対し、興味を持ったのが読売巨人軍とオリックス・バファローズだったが、オリックスはアレックス・カブレラを獲得したため、巨人が獲得した(背番号は「5」)。
2008年は開幕から5番打者として迎えた。主に4番で起用されるようになった。2年連続3度目の打点王を獲得。この年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。DH制の試合では主にDHとして起用されていた。この年にFA(フリーエージェント)資格を取得したため、2009年から外国人枠を外れて日本人扱いとなった。
2009年は全試合で4番を任せられた。自身初の首位打者、3度目の最多安打、2年連続の最優秀選手に選ばれた。巨人の右打者の首位打者獲得は1971年の長嶋茂雄以来38年ぶ振りである。
2010年4月、孫のD・J・ラミレスが誕生(夫人の連れ子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの子)。好不調の波が少なかった過去2年と違ってシーズン当初は低打率に苦しんだが、その中でも得点圏においては勝負強い打撃を見せ、本塁打と打点を量産。夏場に入ると一気に調子を上げて打率も向上させ、最終的には本塁打王・打点王の二冠王に輝いた。
2011年、NPB通算1793安打を打ち、通算最多安打記録を更新。この年は契約最終年で、10月31日の同年のクライマックスシリーズ・ファーストステージ終了と同時に正式に退団を表明。
参考文献:「ラミ流」著・アレックス・ラミレス