戊辰戦争
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慶應4年(明治元年・1868年)1月3日~5日。戊辰戦争の開戦となった戦い。1月2日、大阪城にあった将軍徳川慶喜は、旧幕府軍約一万に「討薩の表」を掲げて京への進撃を開始させた。その結果3日にこの旧幕府軍と薩摩・長州軍約四千とが激突した。 | 慶應4年(明治元年・1868年)1月3日~5日。戊辰戦争の開戦となった戦い。1月2日、大阪城にあった将軍徳川慶喜は、旧幕府軍約一万に「討薩の表」を掲げて京への進撃を開始させた。その結果3日にこの旧幕府軍と薩摩・長州軍約四千とが激突した。 | ||
旧幕府軍は兵力こそ多数ながら鉄砲の普及率と士気の両面において薩長軍に劣り、4日、5日と連敗を喫した。また4日には朝廷が薩長軍に錦の御旗を下賜して新政府軍と認知したため、それまで形勢を観望していた諸藩も続々と薩長側に味方した。 | 旧幕府軍は兵力こそ多数ながら鉄砲の普及率と士気の両面において薩長軍に劣り、4日、5日と連敗を喫した。また4日には朝廷が薩長軍に錦の御旗を下賜して新政府軍と認知したため、それまで形勢を観望していた諸藩も続々と薩長側に味方した。 | ||
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2、北越戦争 | 2、北越戦争 | ||
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慶應4年(明治元年・1868年)4月27日~7月31日。越後平野で行なわれた西軍(北陸鎮撫総督軍)と奥羽越列藩同盟軍との戦い。4月27日、西軍は小千谷、鯨波を占領し5月2日、長岡藩上席家老・河井継之助は中立を望み北陸鎮撫総督・岩村清一郎と小千谷・慈眼寺で会談するが決裂。長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。同盟軍は要所新潟港を押えて武器を補給、河井の指揮下に、長岡を中心に攻防戦を展開。ガトリング砲などの最新火器(世界で初めて戦場で機関銃が、使用された。)を駆使し、一度西軍に落とされた長岡城を奪還。西軍は戊辰戦争中最大の苦戦を強いられたが、7月31日、長岡城を再度攻略して越後を制圧し勝利。 | 慶應4年(明治元年・1868年)4月27日~7月31日。越後平野で行なわれた西軍(北陸鎮撫総督軍)と奥羽越列藩同盟軍との戦い。4月27日、西軍は小千谷、鯨波を占領し5月2日、長岡藩上席家老・河井継之助は中立を望み北陸鎮撫総督・岩村清一郎と小千谷・慈眼寺で会談するが決裂。長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。同盟軍は要所新潟港を押えて武器を補給、河井の指揮下に、長岡を中心に攻防戦を展開。ガトリング砲などの最新火器(世界で初めて戦場で機関銃が、使用された。)を駆使し、一度西軍に落とされた長岡城を奪還。西軍は戊辰戦争中最大の苦戦を強いられたが、7月31日、長岡城を再度攻略して越後を制圧し勝利。 | ||
3、江戸城無血開城 | 3、江戸城無血開城 | ||
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慶應4年(明治元年・1868年)4月11日。前将軍・徳川慶喜追討の西軍に、幕府全権陸軍総裁・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛の会談〔薩摩藩江戸屋敷〕の末に徳川家が謝罪条件に江戸城を無血で明け渡すこととなった。1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。徳川慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に臨む覚悟でいた。新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。この日をもって260余年続いた徳川幕府の完全崩壊と同時に武家政治の終焉が訪れた。 | 慶應4年(明治元年・1868年)4月11日。前将軍・徳川慶喜追討の西軍に、幕府全権陸軍総裁・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛の会談〔薩摩藩江戸屋敷〕の末に徳川家が謝罪条件に江戸城を無血で明け渡すこととなった。1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。徳川慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に臨む覚悟でいた。新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。この日をもって260余年続いた徳川幕府の完全崩壊と同時に武家政治の終焉が訪れた。 | ||
4、上野戦争 | 4、上野戦争 | ||
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慶應4年(明治元年・1868年)5月15日。西軍に反抗し、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(幕臣で編成)と、西軍との戦い。新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。当日の天候は雨(この時期は梅雨)で、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。新政府軍側の南方は寛永寺黒門口に薩摩藩が主力としてあてられ、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面は長州藩が主力となって団子坂に結集した。東側は断崖だが、北東方面を彰義隊の退却路としてあえてあけていたようであった。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、黒門の上にある山王台砲兵陣地より応戦。その威力は凄まじく、その前面の小銃陣地とともに新政府軍をなやませ、暫くの間戦況は一進一退の状態が続いた。午後1時前、大村益次郎によりアームストロング砲の射撃命令がだされ、戦況が新政府軍側に好転。黒門口では西郷が最強の薩摩軍主力を指揮し、防備を破り攻め入り、彰義隊は瓦解・壊走し午後五時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。 | 慶應4年(明治元年・1868年)5月15日。西軍に反抗し、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(幕臣で編成)と、西軍との戦い。新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。当日の天候は雨(この時期は梅雨)で、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。新政府軍側の南方は寛永寺黒門口に薩摩藩が主力としてあてられ、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面は長州藩が主力となって団子坂に結集した。東側は断崖だが、北東方面を彰義隊の退却路としてあえてあけていたようであった。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、黒門の上にある山王台砲兵陣地より応戦。その威力は凄まじく、その前面の小銃陣地とともに新政府軍をなやませ、暫くの間戦況は一進一退の状態が続いた。午後1時前、大村益次郎によりアームストロング砲の射撃命令がだされ、戦況が新政府軍側に好転。黒門口では西郷が最強の薩摩軍主力を指揮し、防備を破り攻め入り、彰義隊は瓦解・壊走し午後五時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。 | ||
戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。 | 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。 | ||
5、会津戦争 | 5、会津戦争 | ||
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慶應4年(明治元年・1868年)8月23日~9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻めた戦い。 | 慶應4年(明治元年・1868年)8月23日~9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻めた戦い。 |
2008年6月30日 (月) 01:09の版
概要 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した国内最大規模の内戦で鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、函館戦争などの総称をいう。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。
戊辰戦争の推移 戊辰戦争は、 ・新政府下での薩長と幕府の主導権争いに起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階 ・会津藩・庄内藩の処分問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階 ・旧幕府勢力の最後の抵抗となった「箱館戦争」の段階 の3段階に大きく区分される。
1、鳥羽・伏見の戦い
慶應4年(明治元年・1868年)1月3日~5日。戊辰戦争の開戦となった戦い。1月2日、大阪城にあった将軍徳川慶喜は、旧幕府軍約一万に「討薩の表」を掲げて京への進撃を開始させた。その結果3日にこの旧幕府軍と薩摩・長州軍約四千とが激突した。 旧幕府軍は兵力こそ多数ながら鉄砲の普及率と士気の両面において薩長軍に劣り、4日、5日と連敗を喫した。また4日には朝廷が薩長軍に錦の御旗を下賜して新政府軍と認知したため、それまで形勢を観望していた諸藩も続々と薩長側に味方した。 これ知った慶喜は6日夜に海路江戸へ逃亡したため、旧幕府軍は自壊してしまう。
2、北越戦争
慶應4年(明治元年・1868年)4月27日~7月31日。越後平野で行なわれた西軍(北陸鎮撫総督軍)と奥羽越列藩同盟軍との戦い。4月27日、西軍は小千谷、鯨波を占領し5月2日、長岡藩上席家老・河井継之助は中立を望み北陸鎮撫総督・岩村清一郎と小千谷・慈眼寺で会談するが決裂。長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。同盟軍は要所新潟港を押えて武器を補給、河井の指揮下に、長岡を中心に攻防戦を展開。ガトリング砲などの最新火器(世界で初めて戦場で機関銃が、使用された。)を駆使し、一度西軍に落とされた長岡城を奪還。西軍は戊辰戦争中最大の苦戦を強いられたが、7月31日、長岡城を再度攻略して越後を制圧し勝利。
3、江戸城無血開城
慶應4年(明治元年・1868年)4月11日。前将軍・徳川慶喜追討の西軍に、幕府全権陸軍総裁・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛の会談〔薩摩藩江戸屋敷〕の末に徳川家が謝罪条件に江戸城を無血で明け渡すこととなった。1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。徳川慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に臨む覚悟でいた。新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。この日をもって260余年続いた徳川幕府の完全崩壊と同時に武家政治の終焉が訪れた。
4、上野戦争
慶應4年(明治元年・1868年)5月15日。西軍に反抗し、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(幕臣で編成)と、西軍との戦い。新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。当日の天候は雨(この時期は梅雨)で、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。新政府軍側の南方は寛永寺黒門口に薩摩藩が主力としてあてられ、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面は長州藩が主力となって団子坂に結集した。東側は断崖だが、北東方面を彰義隊の退却路としてあえてあけていたようであった。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、黒門の上にある山王台砲兵陣地より応戦。その威力は凄まじく、その前面の小銃陣地とともに新政府軍をなやませ、暫くの間戦況は一進一退の状態が続いた。午後1時前、大村益次郎によりアームストロング砲の射撃命令がだされ、戦況が新政府軍側に好転。黒門口では西郷が最強の薩摩軍主力を指揮し、防備を破り攻め入り、彰義隊は瓦解・壊走し午後五時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
5、会津戦争
慶應4年(明治元年・1868年)8月23日~9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻めた戦い。