福沢諭吉3
出典: Jinkawiki
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・『丁丑公論』:諭吉が著わした西南戦争における西郷隆盛擁護の論説。『時事新報』に掲載。 | ・『丁丑公論』:諭吉が著わした西南戦争における西郷隆盛擁護の論説。『時事新報』に掲載。 | ||
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福沢諭吉年譜http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/(2015年7月30日閲覧) | 福沢諭吉年譜http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/(2015年7月30日閲覧) | ||
全国歴史教育研究協議会編『日本史B用語集 改訂版』、山川出版社、2013年 | 全国歴史教育研究協議会編『日本史B用語集 改訂版』、山川出版社、2013年 | ||
ハンドルネーム:虎きち | ハンドルネーム:虎きち |
最新版
福沢諭吉
人物
1834(天保5)年12月12日(西暦1835年1月10日)大阪玉江橋北詰中津藩蔵屋敷に生まれた。幼少時に叔父中村術平の養子となり、中村姓を名乗っていた。12,3歳ごろから種々の迷信や神仏などについて疑いを持ち始める。14,5歳ごろに白石常人について漢字を学び始めたが、たちまち学力が上達し、なかでも左伝が得意だった。居合いを中村庄兵衛に学ぶ。1854年、兄の三之助に薦められて、蘭学を志し、長崎へ出る。オランダ通詞または蘭方医などについて、オランダ語の初歩を学ぶ。学業の上達が早いため、長崎藩家老の子、奥平壱岐にねたまれ、彼の奸計により長崎を去ることになる。江戸に行くつもりで大阪に来たとき、兄に薦められ、緒方洪庵の適塾に入門する。1858年、藩の命で江戸に出ることになり、緒方塾から岡本周吉を連れて江戸へ。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷のなかの小さな長屋の一軒で蘭学の家塾を開く(慶應義塾大学の起源)。明六社創設に参加しながらも、1879年に東京学士会院(現在の日本学士院)の初代会長に就任、同年に『国会論』を著わし、民権運動に影響を与える。のちに”脱亜入欧”を主張して、日清戦争前ごろから『国会論』に傾く。1901年1月25日に3年前に一度発症した脳溢血症が再発し、2月3日に三田慶応義塾内の自邸にて長逝した。現在その場所には、「福沢諭吉終焉の地」の記念碑が建っている。
主な著書
・『西洋事情』:諭吉の啓蒙書。1866~1869刊。欧米諸国の実情を紹介する。 ・『学問のすゝめ』:諭吉の啓蒙書。1872~1876年に17編まで刊行。大ベストセラーとなる。実学を進め、個人の独立、国家の隆盛は学問によって成り立つと説く。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という出だしは著名だが、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案であるとする有力な説がある。 ・『文明論之概略』:諭吉が著わした文明論。1875年刊。古今東西の文明発達の事例を挙げて、個人の自立独立と国家の独立のためには、西洋文明の摂取が急務であると説く。 ・『時事新報』:かつて存在した日本の日刊新聞。1882年、諭吉の手によって創刊。その後、慶應義塾大学及びその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞の一つ。創刊にあったって、「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。 ・『福翁自伝』:諭吉が晩年に書いた自叙伝。口語体の著作で、『時事新報』に連載後、1899年に刊行。 ・『丁丑公論』:諭吉が著わした西南戦争における西郷隆盛擁護の論説。『時事新報』に掲載。
参考資料
福沢諭吉年譜http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/(2015年7月30日閲覧) 全国歴史教育研究協議会編『日本史B用語集 改訂版』、山川出版社、2013年
ハンドルネーム:虎きち