旧ユーゴスラビア問題

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「ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇―」 著 千田善  講談社 「ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇―」 著 千田善  講談社
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旧ユーゴスラビア問題



目次

ユーゴスラビアという国

「一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの国境」

文字:ラテン文字(西部)とキリル文字(東部)

宗教:カトリック(西部)とギリシア正教(東部)、イスラーム教(中部・東南部)

言語:スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語

民族:セルビア人、クロアチア人、ムスリム人(イスラーム教徒)、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、その他


なぜユーゴスラビアは分裂したのか

 カリスマ的指導者チトーの死(1980年)後統制がとれなくなっていたユーゴに、東欧での体制転換の波が1989年ころから訪れる。こうした中で1991年6月にはスロベニアとクロアチアが連邦からの独立を宣言した。前者の理由は、国民所得が6共和国のなかでも格段に高かったことに由来する不公平感、後者の場合、トゥジマン大統領の民族主義的政策による。しかし、セルビアを中心とする連邦軍にはこれ(特にクロアチアでのセルビア人抑圧)を許さず内戦に突入した。EC(特にドイツ)が両国の独立に好意的だったこともあり、1992年には独立が実現した。そしてこの年の3月、ボスニア・ヘルツェゴビナの住民投票の結果(ただしセルビア人はボイコット)の結果、同共和国が独立を宣言した。


なぜセルビアが悪玉になったのか

ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人、セルビア人、クロアチア人は極めて近い存在であった。第二次世界大戦期の「クロアチア共和国」のような歴史的経験はあったものの、三者の共存期間のほうが対立した期間よりずっと長かったことがわかる。しかし、政治的立場の相違から衝突が生じて戦闘が展開されると、言語を同じくする類似性が強いため、相互の違いがことさら政治的に強調されるようになる。さらに近隣諸国からの武器の密輸と「義勇軍」の参戦、有事に備えて組織されていた全人民防衛体制がこれに輪をかけた。しかし相互の憎悪感情を生み出した最大の要素は民族主義に基礎を置く各勢力指導者の政治戦略とマスメディアのプロパガンダである。欧米系メディアはセルビアによる「強制収容所」の設置や集団レイプ等を大々的に報道したが、こうした残虐行為は三者とも行っていた。そして、旧共産党指導部の生き残りで容易に妥協しないミロシェビッチ大統領のイメージとともに、「セルビア悪玉論」が国際社会で形成された。


参考文献

「ユーゴスラビア現代史」 著 柴宜弘  岩波新書

「ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇―」 著 千田善  講談社


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