アルクマール事件3
出典: Jinkawiki
2008年7月7日 (月) 10:54の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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この事件は、その後の下級裁判所における安楽死事件に対し、強い影響を与えることとなった。要するに、患者本人の意志にもとづいて、真摯に要求された医師による安楽死を、法律上認めてゆくための足がかりとなったのである。 | この事件は、その後の下級裁判所における安楽死事件に対し、強い影響を与えることとなった。要するに、患者本人の意志にもとづいて、真摯に要求された医師による安楽死を、法律上認めてゆくための足がかりとなったのである。 | ||
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+ | 参考文献:宮野彬著「オランダの安楽死政策―カナダとの比較―」成分堂 p215~217 1997年出版 |
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1984年のアルクマール事件において、オランダの最高裁判所は初めて、条件が満たされた場合には、医師による安楽死に不可抗力が適用されることを認めたのである。この事件は一般にアルクマール事件と呼ばれ、オランダの最高裁判所での最初の安楽死裁判であって、テスト・ケースとして注目された、画期的な事件である。
患者は、マリア・バーレンドレフトである。彼女は事件が起こる数年前に、後に起訴されて被告人となるスホーンハイム医師から、悪化していく自分の症状について詳しい説明を受けた。このとき彼女は、「もしも、自分が尊厳を保つことができる状態にまで回復することの期待が持てなくなったときは、安楽死させてほしい」という気持ちを、文書にしてこれに署名している。その後、94歳になったときに腰を骨折した。このときの身体の状態は、他にも難聴で、目が見えなくて、ときどき言語障害も起こり、さらにものをはっきり言うことができなかった。死ぬ前の週に症状が悪化して、昏睡状態に陥った。しかし、数日後に意識が戻ったときに、マリアは「こんな状態を繰り返しながら生きていたくない」とはっきり述べた。そこで、スホーンハイム医師は、自分の助手の医師とマリアの息子に相談したところ、2人とも「患者の希望を聞き入れてあげるべきであろう」と、安楽死の実行に同意した。スホーンハイム医師は、マリアに最後の説明をしたうえで話し合ったが、彼女は「どうしても死にたい」との強い希望を表明した。耐え難い苦痛にさいなまれている上に、94歳の高齢で耳が聞こえにくく、目が見えず、言葉もよくしゃべれない状態のために、苦しみ、「死にたい」と言い続けるマリアにとって、生き続けることはかなりの重荷になるに違いないと判断したスホーンハイム医師は、マリアの希望を受け入れて安楽死を実行し、警察に届け出たのである。
この事件において、アルクマール地方裁判所は「違法な行為は存在しない」と判示して、被告人のスホーンハイム医師の責任を問わなかった。このような判決は、オランダのそれまでの下級裁判所としては初めてのことであった。
検察官は、アムステルダム高等裁判所に控訴した。同高裁は「違法な行為は存在しない」と判示した地方裁判所の判断を覆して、被告人の医師の刑事責任を改めて肯定したが、しかし、刑罰は科さなかった。高裁の有罪の理由は、「被告人の医師が、自分の助手の医師と患者の息子のそれぞれの意見を徴しただけでは、十分で客観的な独自の意見とは認められない」というものであった。また、被告人の弁護士は「緊急避難」を主張したけれども受け入れられなかった。
被告のスホーンハイム医師は、オランダの最高裁判所に上告した。最高裁としては初めての安楽死裁判となるこの事件に対して、1984年の11月にアムステルダム高等裁判所が、「違法行為は存在しない」とした地方裁判所の判決を覆したことについては支持したが、「緊急避難を認めなかったのは誤りである」として、事件をハーグ高等裁判所に差し戻した。同高裁は、最高裁の指摘どおりに判示して、スホーンハイム医師の刑事事件を問わないことにしたのである。
この事件は、その後の下級裁判所における安楽死事件に対し、強い影響を与えることとなった。要するに、患者本人の意志にもとづいて、真摯に要求された医師による安楽死を、法律上認めてゆくための足がかりとなったのである。
参考文献:宮野彬著「オランダの安楽死政策―カナダとの比較―」成分堂 p215~217 1997年出版