スリランカ2

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== 一般事情 == == 一般事情 ==
面積:6万5607㎞²(北海道の約0.8倍) 面積:6万5607㎞²(北海道の約0.8倍)
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国民の多数を占める仏教徒のシンハラ人政府に対し、少数派であるヒンドゥー教徒のタミル人勢力が分離独立を求めた紛争である。イギリス植民地時代はタミル人が優遇されていたが、植民地支配からの独立後、シンハラ人優遇政策がとられたことが主な原因とされている。そもそも、1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めて来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化した。1815年には、キャンディ王朝の滅亡に伴い、島の全域がイギリスの植民地と化した。すると、それまであった両民族の習慣的な居住区域(=境界線)は無視され、統一的に支配されるようになり、さらには、イギリスは少数派のタミル人を行政府官吏に重要し、多数派のシンハラ人を統治させた。これを「分割統治」という。その結果、タミル人とシンハラ人の間には大きな貧富の差が生じた。これが民族紛争の火種となった。その後、スリランカが独立を果たすと、形勢が逆転した。1951年にスリランカ自由党(SLFP)を創設したバンダラナイケ氏が、分割統治によって社会的に虐げられてきたシンハラ人の利益を尊重する政治姿勢を打ち出したことで、風向きが一気に変わったのである。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」打ち立て、1956年の選挙で圧勝すると、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策などを進め、シンハラ人に有利な政治を次々と展開していった。タミル人はこれに強い反感を抱く。同年以降、シンハラ人とタミル人との間で大規模な衝突が勃発するようなり、1983年本格的内戦に発展していった。ますます紛争が激化するなか、1987年にはインドが平和維持軍(IPKF)をスリランカに派遣し、「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)との仲介に乗り出した。しかし、事態はおさまらず、1990年に撤退。その後、中東和平などで仲介外交の実績を持っていたノルウェーが仲介に入ったことで、2002年2月、ウィクラマシンハ首相率いる政府側とLTTEとの間で、一時的に停戦合意が成立。しかし、停戦合意後に6回の和平交渉が行われ、2003年には「スリランカ復興開発に関する東京会議」が開催された。しかし、散発的なテロや政府要人暗殺が発生するなど和平に進展は見られず、2005年のラージャパクサ大統領就任後には再び戦闘が激化した。LTTEは、世界で社会的成功を得たからの後方支援により、活動資金や武器弾薬の調達、世論形成を行っていった。そして、インターネットなども活用し、世界に内戦の現状を伝えていった。一方で、スリランカ政府軍はLTTEの武器補給ルートを絶つなど攻撃の強化、LTTEの支配拠点を次々と奪還していく。そしてついに、2009年5月19日、ラージャパクサ大統領は、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡したことを確認し、内戦の終結を宣言した。26年間に及んだ内戦による死者は7万人以上となった。シンハラ人とタミル人の和解に向けてラージャパクサ大統領は、スリランカとして単一国家を維持しながらも、北・東部を含む各州に一定の自治を認める「権限委譲」を進めていく考えを示している。また、タミル人をはじめとした少数民族の不満解消に向け、少数民族の声がより反映されやすい上院の設置なども議論され始めている。今後、民族対立をきれいに解消し、民族融和に向けて発展していくことが望まれる。 国民の多数を占める仏教徒のシンハラ人政府に対し、少数派であるヒンドゥー教徒のタミル人勢力が分離独立を求めた紛争である。イギリス植民地時代はタミル人が優遇されていたが、植民地支配からの独立後、シンハラ人優遇政策がとられたことが主な原因とされている。そもそも、1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めて来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化した。1815年には、キャンディ王朝の滅亡に伴い、島の全域がイギリスの植民地と化した。すると、それまであった両民族の習慣的な居住区域(=境界線)は無視され、統一的に支配されるようになり、さらには、イギリスは少数派のタミル人を行政府官吏に重要し、多数派のシンハラ人を統治させた。これを「分割統治」という。その結果、タミル人とシンハラ人の間には大きな貧富の差が生じた。これが民族紛争の火種となった。その後、スリランカが独立を果たすと、形勢が逆転した。1951年にスリランカ自由党(SLFP)を創設したバンダラナイケ氏が、分割統治によって社会的に虐げられてきたシンハラ人の利益を尊重する政治姿勢を打ち出したことで、風向きが一気に変わったのである。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」打ち立て、1956年の選挙で圧勝すると、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策などを進め、シンハラ人に有利な政治を次々と展開していった。タミル人はこれに強い反感を抱く。同年以降、シンハラ人とタミル人との間で大規模な衝突が勃発するようなり、1983年本格的内戦に発展していった。ますます紛争が激化するなか、1987年にはインドが平和維持軍(IPKF)をスリランカに派遣し、「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)との仲介に乗り出した。しかし、事態はおさまらず、1990年に撤退。その後、中東和平などで仲介外交の実績を持っていたノルウェーが仲介に入ったことで、2002年2月、ウィクラマシンハ首相率いる政府側とLTTEとの間で、一時的に停戦合意が成立。しかし、停戦合意後に6回の和平交渉が行われ、2003年には「スリランカ復興開発に関する東京会議」が開催された。しかし、散発的なテロや政府要人暗殺が発生するなど和平に進展は見られず、2005年のラージャパクサ大統領就任後には再び戦闘が激化した。LTTEは、世界で社会的成功を得たからの後方支援により、活動資金や武器弾薬の調達、世論形成を行っていった。そして、インターネットなども活用し、世界に内戦の現状を伝えていった。一方で、スリランカ政府軍はLTTEの武器補給ルートを絶つなど攻撃の強化、LTTEの支配拠点を次々と奪還していく。そしてついに、2009年5月19日、ラージャパクサ大統領は、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡したことを確認し、内戦の終結を宣言した。26年間に及んだ内戦による死者は7万人以上となった。シンハラ人とタミル人の和解に向けてラージャパクサ大統領は、スリランカとして単一国家を維持しながらも、北・東部を含む各州に一定の自治を認める「権限委譲」を進めていく考えを示している。また、タミル人をはじめとした少数民族の不満解消に向け、少数民族の声がより反映されやすい上院の設置なども議論され始めている。今後、民族対立をきれいに解消し、民族融和に向けて発展していくことが望まれる。
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参考文献 参考文献

2016年7月27日 (水) 16:46の版

目次

一般事情 

面積:6万5607㎞²(北海道の約0.8倍) 人口:約2096万人(2015年) 首都:スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ 民族:シンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、スリランカ・ムーア人(8.0%) 言語:シンハラ語・タミル語(公用語)、英語(連結語) 宗教:仏教徒(70.0%)、ヒンドゥー教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%) 国際日:2月4日(独立記念日) 政体:共和制 出生率:17.4%


スリランカの概観 

スリランカは、1972年スリランカ共和国として正式に独立。その後、1978年に現在のスリランカ民主主義共和国へと国名を改めた。それ以前、1948年にイギリス植民地支配から自治領として独立したが、そのときの国名はセイロンであった。スリランカという国名は、スリー(ジュリー)とランカーから構成されている。スリーは光輝く・聖なる、ランカーは島という意味をなす。しかし、このスリランカはあくまでシンハラ語の国名であり、タミル語ではイランガイという。「ランカー」は、島という意味以外に「ランカー島」という島の固有名称の意味でも使用される。また、「セイロン」という名称は植民地期を通して長く続いており、その起源は外国からの名称である。スリランカは、16世紀初頭から、ポルトガル、オランダ、イギリスの順に支配を受けていた。ポルトガルにはセレンティブが受け継がれセイラーンに変化、その後英語のセイロンになった。英国植民地時代にこの島を紅茶のプランテーションとして以降、今では世界が知るセイロン紅茶が生産されるようになる。スリランカの紅茶産業が盛んになったのは、イギリスでの紅茶需要が大きくなったからである。イギリスのティータイムは世界的にも知られているが、スリランカでも習慣になっている。


地理・気候 

スリランカは北緯7度、東経81度に位置する、面積6万5607㎞²の島国である。地形は安定陸塊に属し、島中央部には2000m級の山岳地帯が広がっている。気候は、島北部がAm(弱い乾季のある熱帯雨林気候)、南部にはAf(熱帯雨林気候)が広がっている。また、モンスーン(季節風)の影響を受けやすくなっており、南西モンスーンが吹く6~9月は雨期となり大量の降水をもたらし、多い時では島の南部で2000mm以上の雨が降ることもある。北東モンスーンが吹く10~2月は、比較的乾燥した過ごしやすい時期となる。


農業

スリランカ農業は、茶・天然ゴム・ココナツの三大プランテーション作物と、米を主産品としている。それぞれの生産地は地域ごとに明瞭に分かれている。米は島のほぼ全域で生産されている。茶はコーヒーに代わって、19世紀末頃から栽培されるようになり、品種によって、生産地・用途が分けられている。海抜1300m以上で栽培される優良品種で主に輸出用の「ハイ=グロウン」、海抜650~1300mで作られる中級品種で主にティーバック向けの「ミディアム=グロウン」、海抜650m以下で作られる国内消費用の低級品「ロー=グロウン」、の計3つ分けられている。茶農業がここまで発展したのも、旧宗主国のイギリスの影響である。イギリスは、自国での紅茶の需要にこたえるために茶の栽培に適した気候を持つ植民地スリランカで、プランテーション農業を行った。したがって、現在でも茶の栽培が盛んであり、国の財源確保に欠かせない産業の一つになっている。ココナツは、北部のドライゾーンと南西部のウェットゾーンの間で栽培されている。天然ゴムは熱帯雨林気候が広がる南西部のウェットゾーンで栽培されている。世界11位の生産量を誇る。


工業 

内戦の終結後、急速な発展を続けている。1970年代後半からの経済自由化政策で、繊維工業が発展。そして現在は、主要貿易品目の輸出部門において、繊維・衣類等の工業製品が全体の約7割を占めるほどにまで成長した。しかし、経済発展にしたがって工業製品の輸入が拡大し、貿易課赤字が拡大している。そこでスリランカ政府は、最大の輸出品目である繊維工業に加え、輸入代替産業、輸出産業となりうる製造業を重視し、外資企業の参入による赤字脱却とさらなる工業・経済の発展を掲げている。


言語と民族 

スリランカは世界でも有数の多民族国家として知られている。その歴史的、宗教的要因により様々な民族、宗教、言語が存在する複合社会が形成されている。言語は、公用語がシンハラ語とタミル語、連結語として英語が使用されている。この3言語は教育機関、行政機関上で用いることのできる言語として認められている。ではいったい、どこでどの人がどの言語を使っているのだろうか。インド南東部ではタミル語が盛んに使われている。したがって、インド南東部に海を挟んで相対しているスリランカ北部では、その影響を受けタミル語が使用されている。そのタミル語を使用するのは基本的には、タミル人である。次にシンハラ語を見てみる。シンハラ語は島の中央付近から南部全域にかけて使用されている。しかし、ここで1つ疑問がわいてくる。それぞれの言語の語族を見てみる。タミル語はドラヴィダ語族、シンハラ語はインド=ヨーロッパ語族となっている。タミル語はインド南部がドラヴィダ語族の言語を使用していたことや、スリランカに相対する位置でタミル語が使用されていたため、その影響を受けるのは理解できる。ではシンハラ語はいったいどういう経緯で使用されるようになったのか。主な経緯として、移民の影響が挙げられる。シンハラ人は紀元前483年にインド北部からスリランカ南部に移民として上陸した。これは、インド=ヨーロッパ語族であるインド北部のシンハラ人がスリランカ南部にシンハラ語を持ち込んだということを意味する。以上のような経緯で、現在、北部ではタミル語、中央部~南部ではシンハラ語が使用されるようになった。


宗教 

スリランカは世界的にも有名な、「仏教国」である。特に、釈尊仏陀の時代に近い上座分別説部の伝統を護っているころから、仏教関係者の尊敬を集めている。しかし、スリランカは仏教国としてだけでなく、「多宗教国」大変有名である。仏教は主にシンハラ人に信仰されており、国内の7割と多数を占めている。国内で2番目に信仰の多いヒンドゥー教は、主にタミル人が信仰しており、インドの影響を大きく受けている。また、その他にもイスラム教徒やカトリック教徒もいる。これほど多くの宗教が存在すると衝突も少なくない。特に、仏教徒であるシンハラ人とヒンドゥー教徒であるタミル人との対立が目立つ。これは、宗教と言語、民族と様々な問題が絡みあった複雑な問題である。


スリランカ民族紛争

国民の多数を占める仏教徒のシンハラ人政府に対し、少数派であるヒンドゥー教徒のタミル人勢力が分離独立を求めた紛争である。イギリス植民地時代はタミル人が優遇されていたが、植民地支配からの独立後、シンハラ人優遇政策がとられたことが主な原因とされている。そもそも、1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めて来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化した。1815年には、キャンディ王朝の滅亡に伴い、島の全域がイギリスの植民地と化した。すると、それまであった両民族の習慣的な居住区域(=境界線)は無視され、統一的に支配されるようになり、さらには、イギリスは少数派のタミル人を行政府官吏に重要し、多数派のシンハラ人を統治させた。これを「分割統治」という。その結果、タミル人とシンハラ人の間には大きな貧富の差が生じた。これが民族紛争の火種となった。その後、スリランカが独立を果たすと、形勢が逆転した。1951年にスリランカ自由党(SLFP)を創設したバンダラナイケ氏が、分割統治によって社会的に虐げられてきたシンハラ人の利益を尊重する政治姿勢を打ち出したことで、風向きが一気に変わったのである。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」打ち立て、1956年の選挙で圧勝すると、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策などを進め、シンハラ人に有利な政治を次々と展開していった。タミル人はこれに強い反感を抱く。同年以降、シンハラ人とタミル人との間で大規模な衝突が勃発するようなり、1983年本格的内戦に発展していった。ますます紛争が激化するなか、1987年にはインドが平和維持軍(IPKF)をスリランカに派遣し、「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)との仲介に乗り出した。しかし、事態はおさまらず、1990年に撤退。その後、中東和平などで仲介外交の実績を持っていたノルウェーが仲介に入ったことで、2002年2月、ウィクラマシンハ首相率いる政府側とLTTEとの間で、一時的に停戦合意が成立。しかし、停戦合意後に6回の和平交渉が行われ、2003年には「スリランカ復興開発に関する東京会議」が開催された。しかし、散発的なテロや政府要人暗殺が発生するなど和平に進展は見られず、2005年のラージャパクサ大統領就任後には再び戦闘が激化した。LTTEは、世界で社会的成功を得たからの後方支援により、活動資金や武器弾薬の調達、世論形成を行っていった。そして、インターネットなども活用し、世界に内戦の現状を伝えていった。一方で、スリランカ政府軍はLTTEの武器補給ルートを絶つなど攻撃の強化、LTTEの支配拠点を次々と奪還していく。そしてついに、2009年5月19日、ラージャパクサ大統領は、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡したことを確認し、内戦の終結を宣言した。26年間に及んだ内戦による死者は7万人以上となった。シンハラ人とタミル人の和解に向けてラージャパクサ大統領は、スリランカとして単一国家を維持しながらも、北・東部を含む各州に一定の自治を認める「権限委譲」を進めていく考えを示している。また、タミル人をはじめとした少数民族の不満解消に向け、少数民族の声がより反映されやすい上院の設置なども議論され始めている。今後、民族対立をきれいに解消し、民族融和に向けて発展していくことが望まれる。


参考文献 ・GLOBAL NOTE http://www.globalnote.jp/pos・t-1085.html  ・外務省 スリランカ民主主義共和国 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/data.html  ・外務省 わかる!国際情勢http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol40/  ・多言語国家スリランカの言語使用状況 http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/BA31027730/2012no.239_21_72.pdf ・世界史の窓http://www.y-history.net/appendix/wh0201-087_0.html#wh1703-094  ・杉本良男・高桑史子・鈴木晋介(2013)『スリランカを知るための58章』 明石書店 ・川島耕司(2006)『スリランカと民族』 明石書店 ・星沢哲也(2014)『新編 地理資料2014』 東京法令出版 ・地理用語研究会(2014)『地理用語集 A・B共用』 山川出版社 ・二宮書店編集部(2015)『データブックオブ・ザワールド2015』 二宮書店


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