冷戦7
出典: Jinkawiki
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2016年7月29日 (金) 01:13の版
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概要
第二次大戦後、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営側とソビエト連邦を盟主とする社会主義陣営側で支配権の拡大をめぐる対立生じた。この対立は軍事衝突には至らなかったので「冷戦」(Cold war)と名付けられた。 冷戦は1945年の米英ソ首脳によるヤルタ会談から1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で終焉宣言がされるまで続いた。
冷戦構造の形成
1946イギリス首相チャーチルが鉄のカーテン演説をしたのを機にアメリカを中心とした資本主義陣営が反共産主義体制を露わにしていった。その後、両陣営で政治面・経済面・軍事面で対立構造を形成していった。資本主義陣営は政治的政策として、1947年アメリカ大統領トルーマンは資本主義化を条件に経済援助を行うトルーマンドクトリンを行った。経済面では、1947年'アメリカ国務長官マーシャルが欧州の経済的復興と自立をアメリカが財政的に支援する計画マーシャルプラン(欧州復興計画)を提唱。援助の受け入れ機関として欧州にOEEC(欧州経済協力機構)が設立された。(後のOECD(経済協力開発機構))軍事面では、1949年に集団防衛機構である北大西洋条約機構(NATO)を結成した。社会主義陣営は、1949に共産党の連携強化と情報交換を目的にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を結成した。経済面では、マーシャルプラン(欧州復興計画)に対抗するため1949年にCOMECON(経済相互援助会議)を結成し、経済協力関係の強化を図った。軍事面では、西ドイツのNATO(北大西洋条約機構)加盟などが背景となって、1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、NATO(北大西洋条約機構)に対抗した。
雪解け・緊張緩和(デタント)
1953年スターリン死去後、フルシチョフがソ連の指導者に就任したことにより東西冷戦状況は改善され、雪解けの時代と呼ばれた。フルシチョフはスターリン時代の圧政を批判し資本主義諸国との平和共存を主張した。この関係の好転は、1955年のジュネーブ4巨頭会談(米英仏ソの首脳会談)となって現れた。その後、1959年米ソ首脳による米ソ首脳会談も開かれた。1962年には、キューバ危機が発生し、核戦争勃発の危機に直面したが米ソ首脳の話し合い外交により回避され緊張緩和(デタント)が進展した。
多極化
1950年代から、両陣営内で米ソから離反する動きが著しくなり多極化が進んだ。資本主義陣営では1996年アメリカ主導のNATO(北大西洋条約機構)のあり方に反発して、フランスがNATO(北大西洋条約機構)の軍事同盟から脱退した。社会主義陣営ではスターリン批判以後表面化した中ソ対立が、1969年には国境での武力衝突に至った.東欧でも、ユーゴスラビアのコミンフォルム除名や各国で反ソ連暴動が相次いだ。