イスラム教15
出典: Jinkawiki
2016年7月27日 (水) 14:05の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) (昨今イスラム教は一部の過激派の活動のため、大変野蛮な宗教だと考えられている) ← 前の差分へ |
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- | イスラム教 | + | == 概要 == |
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+ | イスラム教とは、アッラーを唯一神とする中東を中心とする宗教である。 | ||
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+ | == イスラムの誕生 == | ||
- | 昨今イスラム教は一部の過激派の活動のため、大変野蛮な宗教だと考えられている。 | ||
6世紀後半、アラビアは住む人々にとってきわめて苛酷な土地であった。その土地には、数少ないオアシスで農業や商業をする人や遊牧民の暮らしで氏族があつまり、部族を形成するなどして生活をしていた。貧しい遊牧民は他の部族から物資や動物、女を奪っていた。だから、遊牧民同士で殺し合いが当たり前となった。したし、中央政府が存在しないため、殺し合いを防ごうにもできることはほとんどなかった。そのため、力のある部族の長(シャイフ)の言葉に人々が傾聴していた。また、詩はなにものにも換えがたいものとされていた。優れた詩人にはジンが憑依していると信じられていた。こうして詩人には敵を打ち負かす超能力が備わっていると考えられた。こうした厳しい環境のなかで人々は宗教に慰安を求めた。ムハンマドが生まれる前にアラビアにはキリスト教とユダヤ教が入ってきていたが、人々は土着の宗教を信じていた。そのため、精霊が埋葬されていると伝えられる場所に供物を奉っていた。部族ごとに神々はさまざまであったがすべてのものから信仰を集めた神があった。それが世界の創造主アッラーであった。 | 6世紀後半、アラビアは住む人々にとってきわめて苛酷な土地であった。その土地には、数少ないオアシスで農業や商業をする人や遊牧民の暮らしで氏族があつまり、部族を形成するなどして生活をしていた。貧しい遊牧民は他の部族から物資や動物、女を奪っていた。だから、遊牧民同士で殺し合いが当たり前となった。したし、中央政府が存在しないため、殺し合いを防ごうにもできることはほとんどなかった。そのため、力のある部族の長(シャイフ)の言葉に人々が傾聴していた。また、詩はなにものにも換えがたいものとされていた。優れた詩人にはジンが憑依していると信じられていた。こうして詩人には敵を打ち負かす超能力が備わっていると考えられた。こうした厳しい環境のなかで人々は宗教に慰安を求めた。ムハンマドが生まれる前にアラビアにはキリスト教とユダヤ教が入ってきていたが、人々は土着の宗教を信じていた。そのため、精霊が埋葬されていると伝えられる場所に供物を奉っていた。部族ごとに神々はさまざまであったがすべてのものから信仰を集めた神があった。それが世界の創造主アッラーであった。 | ||
メッカと周辺部(ヒジャーズ)では、三柱の女神が信仰を集めていた。これらの女神はアッラーの娘とされ、偶像が捧げられていた。ムハンマドが生まれた地域は三柱の女神の偶像が安置されていたカーバと呼ばれる神殿があり、宗教的に重要な地位を占めていた。このようにメッカは商業だけでなく、宗教的にも中心地であった。さらに、聖なる場所では動物の屠殺も暴力も禁じられていたため、メッカの商家の長たちは、メッカに出入りする商品の流通をコントロールし、メッカの社会を支配していた。しかも、メッカの商売が巡礼に支障なく行われるために、商家はカーバ神殿の管理にも携わった。結果としてメッカと周辺部のすべての生活を支配することになった。 | メッカと周辺部(ヒジャーズ)では、三柱の女神が信仰を集めていた。これらの女神はアッラーの娘とされ、偶像が捧げられていた。ムハンマドが生まれた地域は三柱の女神の偶像が安置されていたカーバと呼ばれる神殿があり、宗教的に重要な地位を占めていた。このようにメッカは商業だけでなく、宗教的にも中心地であった。さらに、聖なる場所では動物の屠殺も暴力も禁じられていたため、メッカの商家の長たちは、メッカに出入りする商品の流通をコントロールし、メッカの社会を支配していた。しかも、メッカの商売が巡礼に支障なく行われるために、商家はカーバ神殿の管理にも携わった。結果としてメッカと周辺部のすべての生活を支配することになった。 | ||
しかし、商業の発展にともない新しい価値観や関心事が生まれた。かつては社会の健全さが第一と考えられていたが、今や功利主義がはびこり、個人の富や力に関心が移った。そのため、価値観が変わり、貧富の差が拡大するにしたがって、持たざる人々の憤懣が増大し始めた。ムハンマドが生きた時代は公共の利益を優先する考えから個人の生活の重視へ変わっていくものであった。世界がどのような意味があるのか、個人の運命はどうなるのかというような難問であった。多くの人々が精神の不安を感じる時代であった。その頃キリスト教やユダヤ教との接触が増えていった。しかし、強力な商人の力でコントロールをしていた。それゆえメッカの人は新しい信仰を求めた。その望みを叶えたのがムハンマドであった。ムハンマドは青春時代かららくだ使いとしてアラビア半島の諸地域を旅し、一神教のキリスト教にも触れる機会があり、また、異なった風習にも慣れ親しんでいった。595年、裕福な女商人のもとで、働いていたら、その女性に結婚を申し込まれ、メッカの成功した商人の一人に加わることができた。そこでの満足感がメッカの社会の伝統的な価値観の衰退や地域住民の多数が抱く不幸感に気づいていった。さらには若いときに貧困から貧しい人々の不満にも気にかかった。ムハンマドは自分がとるべき人生の方向と社会が歩むべき道について疑った。40歳になると、自分を悩ます問題に没頭し、孤独な瞑想に時間を費やすようになっていた。小さな洞窟で幾夜も過ごすことがあった。そのようなある夜、ムハンマドは奇妙な体験をした。天使ガブリエルが人間の姿で前に現れ、捕らえた。しばらくして、ムハンマドがガブリエルから解放され、自分が正気を失ったかと思い、洞窟から逃れた。丘を下りると後ろから声が聞こえた。「ムハンマドあなたは神の使徒です。私はガブリエル。」と。ムハンマドは読経を命じられたことばが神の啓示で、彼が使徒として使えることこそが神の意思だと信じるようになった。ムハンマドはメッカの社会に説教の輪を広げた。ムハンマドは自分の務めの足跡を辿り、神の言葉を人類にもたらすことが自分の天命であると確信した。ムハンマドの教えは、唯一神のアッラーのみが存在し、アッラーに勝るものは存在しない、というものだった。説教を始めたあいだはメッカの支配層(有力な商人)はキリスト教やユダヤ教のものに似ているということで相手にしなかった。しかし、ムハンマドは女神であれ、偶像であれジンであれ、他のどんなものに対する崇拝も唯一絶対の神を犯すことになる、と教えた。これは、メッカの支配層が権力と富を基盤にしてきた制度に根底から挑戦するものであった。さらに、ムハンマドの教えが社会に認められたとき、現下の体制が崩壊するのは明らかだった。そのため、支配層がムハンマドの教えを終わらせる決意を固めた。メッカの支配層がムハンマドに暴力や脅迫、侮辱と手段を選ばなくなると、ムハンマドはメッカを離れるべきだと考えた。タイーフに避難したが、そこでムハンマドは受け入れられず、再びメッカへと帰った。さらに、この時に、妻と叔父が他界し、大切な人を失った。しかし、悲しみだけではなかった。ムハンマドはカーバ神殿の近くで眠っていると、天使ガブリエルに起こされ導かれ、エルサレムへ旅した。そこで、アブラハムやイエス、モーセなどの偉大な預言者に会った。そして、最後には神の前に立った。このことはイスラム教徒にとってムハンマドの精神がいかに深淵であるかを改めて証明するものであった。620年、北の町ヤスリブ(メディア)から来たもの達がいた。彼らはムハンマドの事を聞き知っており、その教えに感銘を受けていた。さらに、彼らには敵対する部族がいた。その部族が武器を片手に地の報復を繰り返してくるため、町が無秩序となっていた。そして、メッカまで平和を回復してくれる人を探し求めてきていた。2年後、彼らはイスラムに改宗したメディナ人をともなって戻ってきた。ムハンマドは新しい支持者を得て、メッカ人の信者をメディナに向かわせた。メディナを住処とするのには10年の時を要した。ムハンマドがメッカを去る準備を整えた夜、メッカ人の一団がムハンマドを暗殺するという知らせがムハンマドにきた。ムハンマドは洞窟に身を隠した。そのとき、蜘蛛が巣を張ったため、メッカ人の一団は破れやすい蜘蛛の巣が入り口を覆っているのに気づき、洞窟のなかはだれもいないと判断し、ムハンマドは助かった。そして、メディナに到着し、イスラム教徒とメディナの支持者に歓呼で迎えられた。この出来事はムハンマドにとって安全な地を獲得したことだけでなく、イスラム共同体の確率も意味していた。イスラム教徒はこの旅をヒジュラと呼び、この出来事をもって、イスラム歴の始まりと見なすようになった。ムハンマドはメディナに移住したあと、様々な政治活動をした。メッカ人とメディナ人をえこひいきせず、1頭のラクダに決定を下させたり、不安に怯えるメディナの人々の指導を行ったりなどだ。メッカからメディナに移住してきた人に住居をと仕事を与え、メディナでイスラムを敵対するものに対しての反撃やメッカの商人たちが刃向かってくることを解決しなければならなかった。さらには、イスラム教徒のメッカ人とメディナ人の絆を強めるために様々な取り決めを定めた。しかし、メディナのユダヤ教徒はそれに不安を募らせた。最後には暴力沙汰にまで至った。そして、ユダヤ教徒のうち2部族はメディナから追放され、残る一部の男性はイスラム教徒の手によって処刑された。メディナは農業の町であった。しかし、メッカから来た信者たちは野良仕事の経験がなかった。そこで、ムハンマドは彼らが慣れ親しんだ仕事である略奪の仕事をつかせ、アラビア半島にいく隊商に男の信者を武装させてむかわせた。この略奪はどれもうまくいき、イスラム共同体は必要を満たしていた。メッカの商人は生活の術を隊商に頼っていたため、ムハンマドに激怒した。そして、624年、大キャラバンがメッカら北に向かっている報告から、きっとイスラム教徒が略奪に来るものと思い精強な軍隊を護衛に派遣した。しかし、イスラム軍が一対三の劣勢だったが、勇猛果敢に戦い、メッカ軍。潰走させた。そして、この勝利を神の導きたし、自分達は神に選ばれたと考えた。こうしてイスラム教は誕生した。 | しかし、商業の発展にともない新しい価値観や関心事が生まれた。かつては社会の健全さが第一と考えられていたが、今や功利主義がはびこり、個人の富や力に関心が移った。そのため、価値観が変わり、貧富の差が拡大するにしたがって、持たざる人々の憤懣が増大し始めた。ムハンマドが生きた時代は公共の利益を優先する考えから個人の生活の重視へ変わっていくものであった。世界がどのような意味があるのか、個人の運命はどうなるのかというような難問であった。多くの人々が精神の不安を感じる時代であった。その頃キリスト教やユダヤ教との接触が増えていった。しかし、強力な商人の力でコントロールをしていた。それゆえメッカの人は新しい信仰を求めた。その望みを叶えたのがムハンマドであった。ムハンマドは青春時代かららくだ使いとしてアラビア半島の諸地域を旅し、一神教のキリスト教にも触れる機会があり、また、異なった風習にも慣れ親しんでいった。595年、裕福な女商人のもとで、働いていたら、その女性に結婚を申し込まれ、メッカの成功した商人の一人に加わることができた。そこでの満足感がメッカの社会の伝統的な価値観の衰退や地域住民の多数が抱く不幸感に気づいていった。さらには若いときに貧困から貧しい人々の不満にも気にかかった。ムハンマドは自分がとるべき人生の方向と社会が歩むべき道について疑った。40歳になると、自分を悩ます問題に没頭し、孤独な瞑想に時間を費やすようになっていた。小さな洞窟で幾夜も過ごすことがあった。そのようなある夜、ムハンマドは奇妙な体験をした。天使ガブリエルが人間の姿で前に現れ、捕らえた。しばらくして、ムハンマドがガブリエルから解放され、自分が正気を失ったかと思い、洞窟から逃れた。丘を下りると後ろから声が聞こえた。「ムハンマドあなたは神の使徒です。私はガブリエル。」と。ムハンマドは読経を命じられたことばが神の啓示で、彼が使徒として使えることこそが神の意思だと信じるようになった。ムハンマドはメッカの社会に説教の輪を広げた。ムハンマドは自分の務めの足跡を辿り、神の言葉を人類にもたらすことが自分の天命であると確信した。ムハンマドの教えは、唯一神のアッラーのみが存在し、アッラーに勝るものは存在しない、というものだった。説教を始めたあいだはメッカの支配層(有力な商人)はキリスト教やユダヤ教のものに似ているということで相手にしなかった。しかし、ムハンマドは女神であれ、偶像であれジンであれ、他のどんなものに対する崇拝も唯一絶対の神を犯すことになる、と教えた。これは、メッカの支配層が権力と富を基盤にしてきた制度に根底から挑戦するものであった。さらに、ムハンマドの教えが社会に認められたとき、現下の体制が崩壊するのは明らかだった。そのため、支配層がムハンマドの教えを終わらせる決意を固めた。メッカの支配層がムハンマドに暴力や脅迫、侮辱と手段を選ばなくなると、ムハンマドはメッカを離れるべきだと考えた。タイーフに避難したが、そこでムハンマドは受け入れられず、再びメッカへと帰った。さらに、この時に、妻と叔父が他界し、大切な人を失った。しかし、悲しみだけではなかった。ムハンマドはカーバ神殿の近くで眠っていると、天使ガブリエルに起こされ導かれ、エルサレムへ旅した。そこで、アブラハムやイエス、モーセなどの偉大な預言者に会った。そして、最後には神の前に立った。このことはイスラム教徒にとってムハンマドの精神がいかに深淵であるかを改めて証明するものであった。620年、北の町ヤスリブ(メディア)から来たもの達がいた。彼らはムハンマドの事を聞き知っており、その教えに感銘を受けていた。さらに、彼らには敵対する部族がいた。その部族が武器を片手に地の報復を繰り返してくるため、町が無秩序となっていた。そして、メッカまで平和を回復してくれる人を探し求めてきていた。2年後、彼らはイスラムに改宗したメディナ人をともなって戻ってきた。ムハンマドは新しい支持者を得て、メッカ人の信者をメディナに向かわせた。メディナを住処とするのには10年の時を要した。ムハンマドがメッカを去る準備を整えた夜、メッカ人の一団がムハンマドを暗殺するという知らせがムハンマドにきた。ムハンマドは洞窟に身を隠した。そのとき、蜘蛛が巣を張ったため、メッカ人の一団は破れやすい蜘蛛の巣が入り口を覆っているのに気づき、洞窟のなかはだれもいないと判断し、ムハンマドは助かった。そして、メディナに到着し、イスラム教徒とメディナの支持者に歓呼で迎えられた。この出来事はムハンマドにとって安全な地を獲得したことだけでなく、イスラム共同体の確率も意味していた。イスラム教徒はこの旅をヒジュラと呼び、この出来事をもって、イスラム歴の始まりと見なすようになった。ムハンマドはメディナに移住したあと、様々な政治活動をした。メッカ人とメディナ人をえこひいきせず、1頭のラクダに決定を下させたり、不安に怯えるメディナの人々の指導を行ったりなどだ。メッカからメディナに移住してきた人に住居をと仕事を与え、メディナでイスラムを敵対するものに対しての反撃やメッカの商人たちが刃向かってくることを解決しなければならなかった。さらには、イスラム教徒のメッカ人とメディナ人の絆を強めるために様々な取り決めを定めた。しかし、メディナのユダヤ教徒はそれに不安を募らせた。最後には暴力沙汰にまで至った。そして、ユダヤ教徒のうち2部族はメディナから追放され、残る一部の男性はイスラム教徒の手によって処刑された。メディナは農業の町であった。しかし、メッカから来た信者たちは野良仕事の経験がなかった。そこで、ムハンマドは彼らが慣れ親しんだ仕事である略奪の仕事をつかせ、アラビア半島にいく隊商に男の信者を武装させてむかわせた。この略奪はどれもうまくいき、イスラム共同体は必要を満たしていた。メッカの商人は生活の術を隊商に頼っていたため、ムハンマドに激怒した。そして、624年、大キャラバンがメッカら北に向かっている報告から、きっとイスラム教徒が略奪に来るものと思い精強な軍隊を護衛に派遣した。しかし、イスラム軍が一対三の劣勢だったが、勇猛果敢に戦い、メッカ軍。潰走させた。そして、この勝利を神の導きたし、自分達は神に選ばれたと考えた。こうしてイスラム教は誕生した。 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+ | == 文化 == | ||
+ | ・イスラム教には六信五行という義務がある。 | ||
+ | 六信とはムスリムが信じなければならない、「アッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定」の六つであり、 | ||
+ | 「アッラー」とは、アッラー以外神がいないと信じること。「天使」とはアッラーの命令の下で働きを行うこと。「啓典」とはコーランが最後の教典であると信じること。「預言者」とはアッラーからのすべての預言者を認めること。「来世」とはアッラーの天命を信じること。「予定」とは死後を信じること。 | ||
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+ | 五行とは「信仰告白・礼拝(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハッジ)」の五つである。 | ||
+ | 「信仰告白」とは「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。」と唱えること。「礼拝」とは一日五回、メッカの方向に礼拝する。「喜捨」とは、貧者に対する施しをすること。「断食」とはイスラーム暦に夜明けから日没まで断食をすること。「巡礼」とは一生に一度はメッカに巡礼すること。 | ||
+ | 六信五行は礼拝のときに必ず行わなければいけない。 | ||
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+ | ・豚肉は、昔は汚れた肉と考えられていた。 | ||
+ | 実際、中東では豚肉が腐敗しやすいといわれている。 | ||
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+ | ・妻は四人まで作れる。しかし、平等に扱えないものは一人ももつ資格がないともいわれている。 | ||
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+ | == 過激派 == | ||
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+ | メディアなどで取り上げられるISIS(イラク・シリア・イスラム国)はアルカイダを上位組織とする武装勢力である。 | ||
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+ | これまでに、アメリカ同時多発テロやパリ同時多発テロ、日本人を二人人質にするなどの行為を行ってきた。 | ||
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+ | 学校やキャンプなどに子供たちを集め、軍事訓練なども行っている。 | ||
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+ | 参考文献 イスラム教.ゴードン著 ; 奥西峻介訳 | ||
+ | 宗教の勉強 村本尚立 (インターネット) | ||
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+ | keisyu-kokusaisyakai |
最新版
目次 |
概要
イスラム教とは、アッラーを唯一神とする中東を中心とする宗教である。
イスラムの誕生
6世紀後半、アラビアは住む人々にとってきわめて苛酷な土地であった。その土地には、数少ないオアシスで農業や商業をする人や遊牧民の暮らしで氏族があつまり、部族を形成するなどして生活をしていた。貧しい遊牧民は他の部族から物資や動物、女を奪っていた。だから、遊牧民同士で殺し合いが当たり前となった。したし、中央政府が存在しないため、殺し合いを防ごうにもできることはほとんどなかった。そのため、力のある部族の長(シャイフ)の言葉に人々が傾聴していた。また、詩はなにものにも換えがたいものとされていた。優れた詩人にはジンが憑依していると信じられていた。こうして詩人には敵を打ち負かす超能力が備わっていると考えられた。こうした厳しい環境のなかで人々は宗教に慰安を求めた。ムハンマドが生まれる前にアラビアにはキリスト教とユダヤ教が入ってきていたが、人々は土着の宗教を信じていた。そのため、精霊が埋葬されていると伝えられる場所に供物を奉っていた。部族ごとに神々はさまざまであったがすべてのものから信仰を集めた神があった。それが世界の創造主アッラーであった。 メッカと周辺部(ヒジャーズ)では、三柱の女神が信仰を集めていた。これらの女神はアッラーの娘とされ、偶像が捧げられていた。ムハンマドが生まれた地域は三柱の女神の偶像が安置されていたカーバと呼ばれる神殿があり、宗教的に重要な地位を占めていた。このようにメッカは商業だけでなく、宗教的にも中心地であった。さらに、聖なる場所では動物の屠殺も暴力も禁じられていたため、メッカの商家の長たちは、メッカに出入りする商品の流通をコントロールし、メッカの社会を支配していた。しかも、メッカの商売が巡礼に支障なく行われるために、商家はカーバ神殿の管理にも携わった。結果としてメッカと周辺部のすべての生活を支配することになった。 しかし、商業の発展にともない新しい価値観や関心事が生まれた。かつては社会の健全さが第一と考えられていたが、今や功利主義がはびこり、個人の富や力に関心が移った。そのため、価値観が変わり、貧富の差が拡大するにしたがって、持たざる人々の憤懣が増大し始めた。ムハンマドが生きた時代は公共の利益を優先する考えから個人の生活の重視へ変わっていくものであった。世界がどのような意味があるのか、個人の運命はどうなるのかというような難問であった。多くの人々が精神の不安を感じる時代であった。その頃キリスト教やユダヤ教との接触が増えていった。しかし、強力な商人の力でコントロールをしていた。それゆえメッカの人は新しい信仰を求めた。その望みを叶えたのがムハンマドであった。ムハンマドは青春時代かららくだ使いとしてアラビア半島の諸地域を旅し、一神教のキリスト教にも触れる機会があり、また、異なった風習にも慣れ親しんでいった。595年、裕福な女商人のもとで、働いていたら、その女性に結婚を申し込まれ、メッカの成功した商人の一人に加わることができた。そこでの満足感がメッカの社会の伝統的な価値観の衰退や地域住民の多数が抱く不幸感に気づいていった。さらには若いときに貧困から貧しい人々の不満にも気にかかった。ムハンマドは自分がとるべき人生の方向と社会が歩むべき道について疑った。40歳になると、自分を悩ます問題に没頭し、孤独な瞑想に時間を費やすようになっていた。小さな洞窟で幾夜も過ごすことがあった。そのようなある夜、ムハンマドは奇妙な体験をした。天使ガブリエルが人間の姿で前に現れ、捕らえた。しばらくして、ムハンマドがガブリエルから解放され、自分が正気を失ったかと思い、洞窟から逃れた。丘を下りると後ろから声が聞こえた。「ムハンマドあなたは神の使徒です。私はガブリエル。」と。ムハンマドは読経を命じられたことばが神の啓示で、彼が使徒として使えることこそが神の意思だと信じるようになった。ムハンマドはメッカの社会に説教の輪を広げた。ムハンマドは自分の務めの足跡を辿り、神の言葉を人類にもたらすことが自分の天命であると確信した。ムハンマドの教えは、唯一神のアッラーのみが存在し、アッラーに勝るものは存在しない、というものだった。説教を始めたあいだはメッカの支配層(有力な商人)はキリスト教やユダヤ教のものに似ているということで相手にしなかった。しかし、ムハンマドは女神であれ、偶像であれジンであれ、他のどんなものに対する崇拝も唯一絶対の神を犯すことになる、と教えた。これは、メッカの支配層が権力と富を基盤にしてきた制度に根底から挑戦するものであった。さらに、ムハンマドの教えが社会に認められたとき、現下の体制が崩壊するのは明らかだった。そのため、支配層がムハンマドの教えを終わらせる決意を固めた。メッカの支配層がムハンマドに暴力や脅迫、侮辱と手段を選ばなくなると、ムハンマドはメッカを離れるべきだと考えた。タイーフに避難したが、そこでムハンマドは受け入れられず、再びメッカへと帰った。さらに、この時に、妻と叔父が他界し、大切な人を失った。しかし、悲しみだけではなかった。ムハンマドはカーバ神殿の近くで眠っていると、天使ガブリエルに起こされ導かれ、エルサレムへ旅した。そこで、アブラハムやイエス、モーセなどの偉大な預言者に会った。そして、最後には神の前に立った。このことはイスラム教徒にとってムハンマドの精神がいかに深淵であるかを改めて証明するものであった。620年、北の町ヤスリブ(メディア)から来たもの達がいた。彼らはムハンマドの事を聞き知っており、その教えに感銘を受けていた。さらに、彼らには敵対する部族がいた。その部族が武器を片手に地の報復を繰り返してくるため、町が無秩序となっていた。そして、メッカまで平和を回復してくれる人を探し求めてきていた。2年後、彼らはイスラムに改宗したメディナ人をともなって戻ってきた。ムハンマドは新しい支持者を得て、メッカ人の信者をメディナに向かわせた。メディナを住処とするのには10年の時を要した。ムハンマドがメッカを去る準備を整えた夜、メッカ人の一団がムハンマドを暗殺するという知らせがムハンマドにきた。ムハンマドは洞窟に身を隠した。そのとき、蜘蛛が巣を張ったため、メッカ人の一団は破れやすい蜘蛛の巣が入り口を覆っているのに気づき、洞窟のなかはだれもいないと判断し、ムハンマドは助かった。そして、メディナに到着し、イスラム教徒とメディナの支持者に歓呼で迎えられた。この出来事はムハンマドにとって安全な地を獲得したことだけでなく、イスラム共同体の確率も意味していた。イスラム教徒はこの旅をヒジュラと呼び、この出来事をもって、イスラム歴の始まりと見なすようになった。ムハンマドはメディナに移住したあと、様々な政治活動をした。メッカ人とメディナ人をえこひいきせず、1頭のラクダに決定を下させたり、不安に怯えるメディナの人々の指導を行ったりなどだ。メッカからメディナに移住してきた人に住居をと仕事を与え、メディナでイスラムを敵対するものに対しての反撃やメッカの商人たちが刃向かってくることを解決しなければならなかった。さらには、イスラム教徒のメッカ人とメディナ人の絆を強めるために様々な取り決めを定めた。しかし、メディナのユダヤ教徒はそれに不安を募らせた。最後には暴力沙汰にまで至った。そして、ユダヤ教徒のうち2部族はメディナから追放され、残る一部の男性はイスラム教徒の手によって処刑された。メディナは農業の町であった。しかし、メッカから来た信者たちは野良仕事の経験がなかった。そこで、ムハンマドは彼らが慣れ親しんだ仕事である略奪の仕事をつかせ、アラビア半島にいく隊商に男の信者を武装させてむかわせた。この略奪はどれもうまくいき、イスラム共同体は必要を満たしていた。メッカの商人は生活の術を隊商に頼っていたため、ムハンマドに激怒した。そして、624年、大キャラバンがメッカら北に向かっている報告から、きっとイスラム教徒が略奪に来るものと思い精強な軍隊を護衛に派遣した。しかし、イスラム軍が一対三の劣勢だったが、勇猛果敢に戦い、メッカ軍。潰走させた。そして、この勝利を神の導きたし、自分達は神に選ばれたと考えた。こうしてイスラム教は誕生した。
文化
・イスラム教には六信五行という義務がある。 六信とはムスリムが信じなければならない、「アッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定」の六つであり、 「アッラー」とは、アッラー以外神がいないと信じること。「天使」とはアッラーの命令の下で働きを行うこと。「啓典」とはコーランが最後の教典であると信じること。「預言者」とはアッラーからのすべての預言者を認めること。「来世」とはアッラーの天命を信じること。「予定」とは死後を信じること。
五行とは「信仰告白・礼拝(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハッジ)」の五つである。 「信仰告白」とは「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。」と唱えること。「礼拝」とは一日五回、メッカの方向に礼拝する。「喜捨」とは、貧者に対する施しをすること。「断食」とはイスラーム暦に夜明けから日没まで断食をすること。「巡礼」とは一生に一度はメッカに巡礼すること。 六信五行は礼拝のときに必ず行わなければいけない。
・豚肉は、昔は汚れた肉と考えられていた。 実際、中東では豚肉が腐敗しやすいといわれている。
・妻は四人まで作れる。しかし、平等に扱えないものは一人ももつ資格がないともいわれている。
過激派
メディアなどで取り上げられるISIS(イラク・シリア・イスラム国)はアルカイダを上位組織とする武装勢力である。
これまでに、アメリカ同時多発テロやパリ同時多発テロ、日本人を二人人質にするなどの行為を行ってきた。
学校やキャンプなどに子供たちを集め、軍事訓練なども行っている。
参考文献 イスラム教.ゴードン著 ; 奥西峻介訳
宗教の勉強 村本尚立 (インターネット)
keisyu-kokusaisyakai