マーガレット・サッチャー

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・映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙~」 監督:フィリダ・ロイド ・映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙~」 監督:フィリダ・ロイド
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目次

Margaret Hilda Thatcher(マーガレット・サッチャー)

簡単なプロフィール

 1925年10月13日、イギリス、リンカンシャー州グランサムにて誕生。1979年5月4日~1990年11月28日の約11年間、第71代英国首相を務める。英国初の女性の首相である。女性という一見不利に思える立場を上手く利用し、数々の改革を行っていった。英国経済立て直しを目指し、「新自由主義」と言われる経済政策に取り組んだ。「小さな政府」や「民営化」などをポイントとした政策は、「サッチャリズム」と呼ばれた。また、1982年のフォークランド戦争では、強硬な手段で英国を勝利に導いたことから「鉄の女」というニックネームがつけられた。2013年4月8日、87歳のとき脳卒中のため死亡した。葬儀には、アメリカ、ドイツ、日本の首相出席したり、各国の首相から追悼の意が寄せられた。


誕生と家庭(1925~1943年)

 1925年10月13日、ロバーツ家の次女として誕生。4歳年上の姉を持つ。父と母は食料雑貨店を経営しており、裕福とは言えないが、家族の仲が良く楽しい生活を送った。また、両親ともにメソジスト主義(キリスト教のプロテスタント派のうちの一つ。規則正しい生活や質素倹約を大切にする宗教。)であるため、実際的でまじめで倹約家であり、宗教的な家庭でもあった。父の教えは、「ほかの誰かがやるからという理由だけで何かをやってはだめだ。」というものであり、この言葉は彼女自身の人生で大変役立つ教えであったと言われている。父は毎週本を借りてきては、彼女に読ませ、彼女もまたそれを楽しんだ。彼女の関心はこのころからすでに、政治と国際情勢に向けられ、自分は根っからの“保守党主義者”だと気付いたのである。


大学、就職、結婚(1943~1953年)

 1943年、オックスフォード大学サマビルカレッジに入学。化学が専門分野。大学生活を楽しみながらも、勉学にも没頭し、さらには大学での政治活動にも情熱的な関心を持って取り組んだ。また1945年から父は市長を務めており、市政についても父から学んだ。無事に4年で卒業を迎え、1947年からはBXプラスチックという会社の研究開発部門に就職。プラスチックという分野に魅了されながらも、政治活動への興味関心は収まらず、政治活動を始めた。若い女性ということで不利な点も多かったが、それを武器にし、友人の協力もあり、1949年2月、保守党の候補者に正式に公認された。その後、政治活動を積極的に行う体制を整えるため、仕事を辞めて引っ越し、新たにロンドンで食品研究科学者として働いた。また、候補者公認を祝う晩餐会で、ペンキや化学製品の生産をしている、デニス・サッチャーと出会う。そして、1951年、結婚。1953年には双子の子どもが誕生。4人家族となり、円満な家庭を築いた。


下院議員、教育科学省時代(1950~1975年)

 1950年に選挙が行われるも、落選する。1953年に、選挙斧の反省も含め、経験や知識を増やしたいという理由で、弁護士資格取得を目指す勉強を始め、わずか六か月で取得する。しばらくの間、政治についてさらに詳しく学び、ようやく1959年保守党の下院議員に公認される。議員になって最初の二、三か月は、議会の勢いに圧倒され落ち着くことができなかったが、徐々に議会でのふるまい方などにも慣れ始め、自らの意見をはっきりと告げるなどして自信をつけて行った。このころ二人の子どもは、寄宿学校に通い始めた。議員になって初めての演説、処女演説では、「大都市における労働党支配下の市議会では、ジャーナリストの取材や一般市民の傍聴をする権利がない」という問題について取り扱った。演説は大成功で、翌日多くの新聞に取り上げられ一躍有名人となった。1962年、国民保険省に配属された。ベヴァリッチ報告の原本を読み直すなどして、社会保障、社会保険についての知識を増やし、年金や保険問題について取り組んだ。 国民保険省での努力もあって、1970年教育科学省に任命された。自分の意志と判断で次々に物事を決定していく彼女に対し、長年のスタイルである、協議を重んじて議論を長々とする方法は合わず、打ち解けるまでには時間がかかった。教育省としての最初の演説では、総合型学校(エリートになる、国立大学に行くなどを目指す学校、工業化社会に対応する職業人の養成を行う学校、実生活上の技能や知識を身につける一般大衆用の学校、三つすべての機能をひとつの学校で果たそうとする仕組みの学校)とグラマースクール(国立大学を目指すための学校)を混合させてはどうかという問題を取り扱った。この演説も成功し、何校か混合する政策がとられた。このころ教育省は、教育関連予算を削減することに迫られていた。そこで彼女は、「給食費を値上げして、八歳以上の児童に対するミルクの無料支給を廃止する」という政策に乗り出した。最初はメディアも国民も、学校給食とミルクは犠牲になるが、老朽化した校舎を建て替える計画を守る戦いは勝利を得た、と、この政策を好評価していた。しかし、しばらくして労働党の人物が、ミルクの支給廃止は議会に提出すべきでない悪意に満ちた提案であり、サッチャーはミルクスナッチャー(ミルク泥棒)である、と、批判した。すると、世間はこの政策に対して批判をし始め、厳しい立場となった。このことからサッチャーは、教育にとって何より望ましいと誰もが判断するような計画を推進するには、多少の犠牲があっても構わないという自分の考えは、甘すぎるのだということを学んだ。また、これら一連の流れは「ミルク騒動」と呼ばれている。さらに1970年代後半には、保守党の環境政策を担当する役割を担い、政策研究センターという新しい事業設立の一員として、これまでの政策を原則からすべて見直す必要性があると述べた。このとき、キース・ジョセフという男が中心になって政策を進めて行ったが、この男との出会いは後の彼女が保守党党首、首相になるのに欠かすことのできない大きな存在の人物との出会いであった。各分野最高レベルの専門家や知識人と議論を重ね、多くの知識や政策案を考えていった。そして1974年、保守党の党首選挙が行われた。この選挙では、ともに研究を行ったキースが立候補する予定であったが、事情により立候補を断念した。そこで、自分たちの考えや取り組んできたことを誰かが伝えなくてはいけないとキースと話し合った結果、彼女は立候補することを決意した。結果は見事当選し、1975年、五十歳で野党党首となった。


野党党首時代(1975~1979年)

 野党党首であった約四年間は、これまで通りの国内情勢に対する取り組みに加え、国外との交流も多く行うことになった。まず、ヨーロッパについては、欧州経済共同体(ECC)加盟めぐる国民投票が行われた。西ヨーロッパとの経済的なつながりを持つことは利点があるとされ交流をはかった。次に、中東では第四次中東戦争が起き、石油の生産削減が問題となった。そしてアジア、極東の国々とも交流を図った。こうして多くの新しい発見や、知識、国際関係について理解を深めた。やがて、与党である労働党は政策に失敗し、ついに総選挙が始まることになった。選挙はなかなかの接戦であったが、彼女自身の華麗な演説や、キースの協力のもあり、見事英国の歴史史上初となる、女性首相の座に上りつめた。


首相時代(1979~1990年)

 彼女の首相時代は約十一年間にも及んだ。彼女は、政府が行うべきことは、健全な通貨、安い税金、緩やかな規制と柔軟な市場メカニズム(これは労働市場も含む)を保証する仕組みをつくることであり、そうすれば経済は繁栄し、雇用も増加するという信念をもって政治活動を行っていった。また、彼女は自身の政策のスローガンを、「ビクトリア時代に帰れ」とし、肥大した福祉国家を解体ないし縮小させ、競争社会を復活させるのが目的であった。彼女は、このスローガンに対して、多くの敵が存在することを知っていながらも、首相という立場が持つ大きな権限を行使して政策を行っていった。

第一次内閣(1979~1983年)

 彼女は、私企業部門の立て直しと、ソ連強硬路線を主張とし、まず初めに軍人と警察の待遇改善を行い、軍備を充実すると共に、資本家のためには減税もしなければならなかった。それには、その他の部分(教育、国民保健、住民、環境衛生)への政府支出を切り詰めるとともに、国有企業への援助金や運営負担金を大幅に縮小しなければならない。この取り組みに当然のこととして国民は政府への不満を募らせ、国有企業(鉄鋼、自動車、鉄道等)では次々とストライキが起こった。労働党から政権を受け継いだ当時、インフレーション率は10%まで下がり、失業率は150万弱となかなか良い状態であった。しかしこの政策のせいで、インフレーション率は20%を超えるまで上昇し、失業率は250万を超えてしまった。このイギリスの経済を立て直すのには、まず第一にインフレーションを抑えるべきだと考えた。インフレーションを抑えることによって利益を得るのは、もちろん自営業者、金利生活者や社会保険の恩恵を受けている人たちであり、労働者及び学校を卒業して新たに労働市場に入ってこようとする人たちにっとっては、失業の増大につながる大きな被害者を受けることになる政策であった。この政策を行った結果、インフレーション率は10%以下に引き下げることに成功したが、失業者については一瞬にして300万人を超えてしまった。また、軍事政策においては、核武装を強化する考えを提案し、議論が行われていった。もちろん通常の武器は必要であるが、これからは核兵器の存在が重要であると説いた。彼女の生き方、そして政治は、いったん決心したら、どんな事態が生じてもひるむことなく決心を貫徹するというものであったため、犠牲者の数はとても多く、彼女の人気は急激に落ちって言った。しかしここで、彼女にとっての救いの出来事である、フォークランド戦争が起こる。この戦争は、1982年、フォークランドの所有権をめぐってイギリスとアルゼンチンで行われた戦いである。そもそもフォークランドの所有権は歴史的に微妙なものであった。初めて上陸したのはオランダ人だが、フランス人、イギリス人も上陸した。しかし、スペインがフランスの領土を買い取る形で現れ、イギリスは追い出されてしまった。やがて、スペインから独立したアルゼンチンが領土の所有を宣言した。それに対しイギリスは抗議を申し出て領土を奪還した。その後は、イギリスとアルゼンチンで領土の所有権の主張がぶつかりあっていた。そして1982年我慢できなくなったアルゼンチンは、フォークランドを無理やり占領し、それにイギリスが対抗したことによって戦争が始まった。彼女の対応はとても早く、反対の声を押し切り、すぐさま大艦隊を派遣することを決定した。彼女の素早い判断により、強硬な対応を行ったイギリスは見事戦争に勝利し、正式に領土を獲得するという結果になった。この絶妙なタイミングで起こった戦争のおかげで、彼女はかつての人気を取り戻すことができ、政治はもはや彼女の独走状態となっていた。その様な状態で行われた選挙では、もちろん保守党の勝利であり、彼女は二期目の首相を務めることになった。

第二次内閣(1983~1987年)

 まず初めに、彼女は教育の改革に取り掛かった。その内容は、利潤原理を教育体制の中に導入する、という大学向けの政策であった。具体的にいうと、産業側からコンピュータに強い人材の要求があれば、大学にコンピュータ学科やアカウンティング学科が増設されたり、エレクトロニクス産業の利益があがっていれば、エレクトロニクス学科を拡大したり、対日貿易が重要な問題となれば、日本文化の研究学科を新設するなどである。もちろんこのとき、増やされる学科学問があれば、縮小されてしまう学科学問も出てくる。大学教師は昔から、学問の自由の名のもとに、終身雇用制を享受してきた。しかし、この政策を遂行するにあたっては、大学教師から終身任職権を剥奪するという、当時の常識では考えられない暴挙を行うことになった。この様にして、彼女は利潤原理を教育界に貫徹させ、教育界の効率化をはかった。また、同時に炭鉱ストライキも起こった。この争議は、雇用者側が労働組合に将来計画を提示したことから始まった。この将来計画の内容は、採算に合わない炭鉱は閉鎖する、ということが書かれていた。閉鎖された炭鉱の炭坑夫たちの失業を意味するこの計画は、もちろん労働組合は拒否した。石炭が底をついてしまったという理由で閉鎖するのは当然だが、まだ石炭が存在するのに採算が合わないとの理由で閉鎖するのは、採算の合うような環境を整えてくれていない雇用者側の問題であると主張した。また、ひとたび炭鉱が閉鎖されてしまうと、炭鉱町は死んだようになってしまう。従って、新たな職を得るためには、ほかの町に出て行かなければならない。しかし、いまだに失業者は320万人もおり、新しい職につくことは難しいと考えられる。こうしたやり取りの結果、各地で炭鉱ストライキが起こったのである。しかし、彼女は決して政策をやめようとはしなかった。なぜなら、彼女にとってこの炭鉱争議は単に石炭業界だけの問題ではなかったからである。利潤原理を全産業の全労働者に徹底させることが究極の目標であるため、炭鉱争議での譲歩や妥協は決して許されなかった。このような強硬政策をとっていた彼女は、1975年の保守党の党大会で危機を迎える。彼女の利潤主義に徹底し労働者に残酷な政策に、ある保守党の労働組合員が、この内閣は、何一つ雇用政策を行っておらず、このままでは大変な事態が発生するかもしれない、という趣旨の意見を述べた。すると、場内はしばらく粛然としたのち、大きな拍手に包まれた。彼女の周りは一気に敵だらけとなった。彼女は翌日意見を述べなければならず、内閣は大激論へとなるであろうと考え、まさに窮地に立たされたのである。しかし彼女はこの窮地を自らの強運によって乗り越えた。翌日の原稿の準備をホテルでしていたところ、突如寝室が大爆発を起こしたのである。これは、IRA(アイルランド南北統合運動の過激派)が彼女を殺害しようとしたものである。しかし彼女は、原稿の作成のため寝室にはおらず、無傷で助かった。と同時に、政治的窮地からも脱出した。翌日の党首演説では、悲劇の主人公として同情を集め、見事に演説を終えたのである。こうして、またもや彼女は人気を取り戻すことに成功したのである。  その後も彼女は様々な政策を行った。イギリスには最低賃金を各企業に守らせるための賃金評議会があるが、彼女は未成年労働者をその管轄外にさせた。これは、年少者から賃金を搾取していると批判された。また、その他の分野では、学校教師や看護婦などに、ごく僅かの率の賃金上昇しか認めなかったが、その直後には高級公務員や将軍や裁判所判事の大幅昇給を発表した。他には、水道、電気、ガス、電気、鉄道、航空などの国有企業の民営化を行った。そうして再び迎えた選挙も見事勝利を勝ち取り、三期目の首相を務めることとなる。

第三次内閣(1987~1990年)

 彼女の次なる目標は保健と教育部門の改革である。彼女の目指す小さな政府を作り上げるには、保健、教育費を大幅に削減しなければならない。しかし、これらは年々費用が増加している。この様な状況を作り出した原因の一つは科学技術の発達である。より優れた医療機器を開発するため、そして購入するため、流れるようにお金が使われていった。また、教育においても、コンピュータの使用や機械化が進み、お金が使われた。こうして足りなくなってくるお金をどの様に調節するのかというと、看護師や教師の数を極限まで減らし、給料を最小限に抑えることで対応した。こうなるとやはり看護師や世間からの評価は落ち、人気は下がっていった。さらに、1988年には教育法の改正を行った。新法により、英語、数学、科学は義務教育の必修科目となり、その他に七科目の基本科目が認められた。さらには、宗教教育に基礎科目並みの地位が与えられた。この新法のねらいは、裕福な家庭の子供を悪い労働党から救済することにあると言われた。また、新教育法のもう一つの大きなポイントは、大学への資金供給の問題である。政府は直接大学に補助金を与える代わりに、専門機関をつくりそれを通じて間接的に、補助金を各大学に配分していた。しかし、彼女の時代となってからは、この自主的配分は妨げられた。にもかかわらず、この制度は改革され、大学は与えられる僅かなお金で成果を出すことを余儀なくされた。とにかく彼女の目的は経費削減を達成するために、保健や教育費用を削減することであり、国民の生活は苦しいものとなり不満は高まっていった。そうして迎えた1990年の選挙では、一回目の投票では過半数を獲得したものの、投票数の関係から、二回目の投票が行われることとなり、あきらめた彼女は、英国首相及び保守党党首を辞任する意向を表明した。こうして、彼女の約10年にわたる英国首相時代は幕を閉じたのであった。


首相退任後と晩年(1990~2013年)

 首相引退後も、貴族院として政治に参加していたが、1992年に政治の表舞台から姿を消した。2008年、彼女の娘によってサッチャーが認知症を発症していることが明かされた。娘によると、症状は2000年頃からあったと言われている。夫の死を忘れてしまい、幻覚症状を発症したり、英国首相時代の記憶もあいまいとなっていった。2012年、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院し、手術を受けた。その後、2013年、脳卒中により亡くなったとされている。


参考文献

・サッチャー私の半生(上・下)/ マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳 / 日本経済新聞社 ・サッチャー時代のイギリス / 森嶋通夫著 / 岩波出版 ・映画「マーガレット・サッチャー~鉄の女の涙~」 監督:フィリダ・ロイド

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