フェルメール
出典: Jinkawiki
2016年7月30日 (土) 00:10の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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+ | 17世紀初頭から18世紀中葉まで、全ヨーロッパを風靡したバロック絵画作品を生み出した有名画家の1人。 | ||
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1 生い立ち | 1 生い立ち | ||
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1662年10月18日、聖ルカ組合の副会長に選出される。同組合は、収入を増やすために、徒弟入門の際の入会金を10スタイフェルから2フロリン10スタイフェルに値上げすることを決定する。 | 1662年10月18日、聖ルカ組合の副会長に選出される。同組合は、収入を増やすために、徒弟入門の際の入会金を10スタイフェルから2フロリン10スタイフェルに値上げすることを決定する。 | ||
1675年12月15日、デルフトの旧教会(オウデ・ケルク)の記録に「ヤン・フェルメール、オウデ・ランゲンダイク居住の画家、当教会に埋葬」とあるが、死亡日時については記録はない。余白に、享年43歳で死亡した画家が、まだ未成年の子供たち8名を遺したと記されている。 | 1675年12月15日、デルフトの旧教会(オウデ・ケルク)の記録に「ヤン・フェルメール、オウデ・ランゲンダイク居住の画家、当教会に埋葬」とあるが、死亡日時については記録はない。余白に、享年43歳で死亡した画家が、まだ未成年の子供たち8名を遺したと記されている。 | ||
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+ | 2 家族 | ||
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+ | フェルメールの両親は1615年4月19日にアムステルダムで結婚。父レイニールはデルフト出身、母ダイムフナ(あるいはダイナ)はアムステルダム生まれ。レイニールは結婚当時、「カッファ」と呼ばれる壁掛けや家具をおおう絹織物を織る職工だったが、やがて妻とともにデルフトの中心地のマルクト広場の一角に「メヘレン」という屋号の宿屋(居酒屋も兼ねた)を経営。1631年には画商も兼ね始め、同年10月13日にデルフトの聖ルカ組合(画家・工芸家のギルド)に画商として登録。父が画商ということもあり、フェルメールは幼い頃からさまざまな作品を身近に接する機会が多かったであろう。また、フェルメールには12歳年上の姉がいる。 | ||
+ | 妻カタリーナ・ボルネスはホウダの富裕な良家の娘で、記録によると彼女の一家はカトリック教徒であった。フェルメール家は新教(プロテスタント、複音主義)であり、父は画商であったりと普通の家出身である。それらのことから妻の母マーリア・ティンスは当初この結婚には反対だった。妻の母親は市長を出すような名門家系の出で家柄の違いがあったためと思われる。また、結婚の際、デルフトの新教会で挙式をしておらず、近郊の村でカトリックの式をあげたものと推定される。これは、フェルメールがすでに妻の宗教であるカトリックに改宗していたからとも思われるが、確証はない。当時オランダではカトリック教会は禁制であり、カトリック教徒は公職に就くことができなかった。フェルメールとカタリーナの11人の子供たちはデルフト新教会の受洗名簿に1人も登録されていない、組合の長までつとめた画家が市の公職についていないことなどから、フェルメールはカトリックを信仰していたのではないかと考えられる。 | ||
+ | 1655年12月14日、父レイニールの葬儀の記録。遺産と共に父の借財も相続、また父の商売も引き継いだものと思われるが、確証はない。 | ||
+ | 1670年2月13日、母ダイムフナ、フラミングストラートで死去する。7月13日、「メルレン」を相続する。 | ||
+ | 1671年、姉ヘールトライトの死により、647フロリンを相続する(この金額は有能な職人の2年間の収入に相当)。 | ||
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+ | 3 絵画の特徴 | ||
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+ | 調和のとれた明瞭な色彩や簡素かつ静謐でありながらも綿密に計算された均当な空間構成、光の反射やハイライト部分などを点描によって表現するポワンティエ(点綴法)、写実性の高い描写。また作品制作にカメラ・オブスキュラ(暗箱)を用いるなど、当時の光学や透視図法の研究を取り入れたと推測されるほか、非常に高価であったラピスラズリを原料とするウルトラマリンブルーを多用した。大半の絵がデルフトの街に住む中流階級層の室内での生活を描いた風俗画である。また、フェルメールが描いた部屋は2つしかなく、あとはその2つの窓のかたわらにさまざまな場面をセットしたような絵になっている。よって彼は、行動範囲の小ささから、密室画家と言える。 | ||
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+ | 4 作品紹介 | ||
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+ | ①真珠の耳飾りの少女(青いターバンの娘) | ||
+ | 1660~1665年に描かれた(推定)。フェルメールの最も有名な作品のひとつで、北欧のモナリザと称される傑作『真珠の耳飾りの少女』。別名、青いターバンの娘とも呼ばれるこの作品において最も特徴的な、黒色で統一される背景に鮮明に浮かび上がる少女の瞬間的な表情は、見る者に極めて強烈な印象を与える。これはレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロも使用した、登場人物(この作品では少女)の描写以外の絵画的構成要素を極力無くした暗中の背景とによって対象を一層際立たせる表現方法と、鮮明な光彩描写やターバンや衣服に用いられた黄色と青色による鮮やかな色彩のコントラスト、少女の振り向きざまの一瞬を捉えたかのような構図などとの相乗的効果によるところが大きい。現在はハーグにあるマウリツホイス美術館に所蔵されている。 | ||
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+ | ②窓辺で水差しを持つ女 | ||
+ | 幾つもの優れた作品を残している1660年代に手がけられたこの作品は、左側に窓が置かれた部屋の中で日常生活を過ごす女性の1人像というフェルメールの典型的な作品の例のひとつであるが、その完成度は非常に高く、特に綿密な計算によって塗り重ねられているのに透明感を感じさせる色彩表現はフェルメールにしかできない技法になっている。窓際で水差しを手に、おそらく窓を開けているのであろう女性の被る白頭巾の薄く青みがかった白色の表現は、背後の白壁と明らかに異なる存在感を放っており、その透明的でありながら明暗を明確に示す色彩の変化は、観る者に涼しかしさすら感じさせる。また女性が左手に持つ、よく磨かれたであろう光沢感の強い銀の水差しの皿に映り込む、テーブルに掛けられたタペストリー布のまれな反射表現は、どんな観る人の視線を水差しへと向けさせる。しかしたくさんの画家たちが、このような技巧的描写による作品全体の統一感を失ってしまうが、フェルメールはむしろ、その表現力は過去の作品と比べても、より一層増している。それはこの場面を包み込む穏やかな光の表現においても言えることであり、様々に変化する色彩によって描写された構成要素に当たる光は、人物や物体の輪郭を溶かすかのような表現が用いられている。現在はニューヨークにあるメトロポリタン美術館に所蔵されている。 | ||
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+ | ③ヴァージナルの前の2人(音楽の稽古) | ||
+ | 1660年代前半を代表する作品。この作品に描かれるのは、ルネサンス・バロック期の音楽においてよく使用された撥弦鍵盤楽器チェンバロ(英名ハープシコード)の小型版である≪ヴァージナル≫を演奏する若い女と、その隣で立つ男で、フェルメールの大きな特徴である柔らかで明瞭な光の描写と、計算された空間構成と構図によって表現される精密な場面展開が見事な出来栄えである。ほぼ同時期に描かれた『二人の紳士と婦人』などに認められる空間構成上の課題点であった、透視法に則った描写によって発生する床面の歪みの不自然さを解消する為に、画面右側下半分へオリエンタル風の絨毯が掛けられる大きなテーブルが描かれている。またテーブルの上に乗せられる白磁器の水差しやヴァージナルの前の男女の間に置かれる青い椅子は、主に暖色が支配するこの作品の構図中で絶妙なアクセントとなっている。この作品で女が演奏する≪ヴァージナル≫には「音楽は喜びの伴侶、悲しみの薬」と記されており、アンドリース・リュッカーズの制作だと考えられるほか、登場人物である演奏者を真後ろから捉えて描くことによって、観る者へ自然と、本作の中に入り込むような感覚を与えている。また男の解釈については恋人説や音楽教師など様々な説が唱えられているが、確証を得るには至っていない。また、②と同じ窓がみえる。 | ||
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+ | ほかにも多数の作品がある。 | ||
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+ | 5 時代背景 | ||
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+ | フェルメールたちバロック絵画作品を生み出した画家たちが生きている頃のヨーロッパは、国土拡大のためにたくさんの領土拡大戦争が行われており、それを指揮していた王が絶対王政を繰り広げていた。そのため王の権力や力を象徴するためさまざまなものが作られていた。そのなかの1人として絵画である。国土に拡大すれば富が手に入り、芸術に力を入れることができるためバロック芸術が発達したのだろう。また、この頃はオランダでバルト貿易がおこなわれており、そこでもたくさんの富を手に入れることができたのだろう。 | ||
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+ | 6 現在のフェルメール作品 | ||
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+ | 日本にもたくさんのフェルメール作品のファンがいる。そのためフェルメール作品の美術館が存在する。そこではフェルメールが描いた32点の絵画が展示されているが、もちろん本物ではない。しかし本物同様に複製しておりそしてただ本物にそっくりなだけではなく、この展示のために作曲されたBGMなどを取り入れ、よりフェルメール作品の良さを引き出している。また、フェルメール作品のさまざまなグッズも販売されている。このようにフェルメール作品は長い時を経てもたくさんのひとに愛され、魅了している。 | ||
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+ | 7 参考文献 | ||
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+ | フェルメールその軌跡と作品http://reimeiki.net/ | ||
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+ | 黒江光彦著 「フェルメール」新潮社 | ||
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+ | ヨハネス・フェルメール-主要作品の解説と画像・壁紙-http://www.salvastyle.com/menu_baroque/vermeer.html | ||
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+ | 最新世界史図説 タペストリー 帝国書院 | ||
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+ | フェルメール 光の王国展|美術館・博物館 http://www.museum-cafe.com/special/6394.html | ||
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+ | ハンドル名:Ns |
最新版
17世紀初頭から18世紀中葉まで、全ヨーロッパを風靡したバロック絵画作品を生み出した有名画家の1人。
1 生い立ち
1632年10月31日、オランダのデルフトの新教会(ニウェ・ケルク)で洗礼を受け、受洗名簿に記載され、出生届が出される。洗礼の際の立会人の1人に、デルフトの画家レオナルト・ブランスルの親族と考えられるピーテル・ブランメルの名がある。 1653年4月5日、(当時21歳)カタリーナ・ボルメスと結婚。立会人のなかに、画家レオナルト・ブランメル(当時57歳)がいる。4月20日、デルフト近郊の村スヒップライデンでカトリックによる宗教上の式を挙げる(推定)。父の宿谷「メルレン」に新居を構える。12月29日、聖ルカ組合への加入を認められ、入会金6フロリン10スタイフェルのみを納める(全納し終えるのは1656年7月24日)。 1662年10月18日、聖ルカ組合の副会長に選出される。同組合は、収入を増やすために、徒弟入門の際の入会金を10スタイフェルから2フロリン10スタイフェルに値上げすることを決定する。 1675年12月15日、デルフトの旧教会(オウデ・ケルク)の記録に「ヤン・フェルメール、オウデ・ランゲンダイク居住の画家、当教会に埋葬」とあるが、死亡日時については記録はない。余白に、享年43歳で死亡した画家が、まだ未成年の子供たち8名を遺したと記されている。
2 家族
フェルメールの両親は1615年4月19日にアムステルダムで結婚。父レイニールはデルフト出身、母ダイムフナ(あるいはダイナ)はアムステルダム生まれ。レイニールは結婚当時、「カッファ」と呼ばれる壁掛けや家具をおおう絹織物を織る職工だったが、やがて妻とともにデルフトの中心地のマルクト広場の一角に「メヘレン」という屋号の宿屋(居酒屋も兼ねた)を経営。1631年には画商も兼ね始め、同年10月13日にデルフトの聖ルカ組合(画家・工芸家のギルド)に画商として登録。父が画商ということもあり、フェルメールは幼い頃からさまざまな作品を身近に接する機会が多かったであろう。また、フェルメールには12歳年上の姉がいる。 妻カタリーナ・ボルネスはホウダの富裕な良家の娘で、記録によると彼女の一家はカトリック教徒であった。フェルメール家は新教(プロテスタント、複音主義)であり、父は画商であったりと普通の家出身である。それらのことから妻の母マーリア・ティンスは当初この結婚には反対だった。妻の母親は市長を出すような名門家系の出で家柄の違いがあったためと思われる。また、結婚の際、デルフトの新教会で挙式をしておらず、近郊の村でカトリックの式をあげたものと推定される。これは、フェルメールがすでに妻の宗教であるカトリックに改宗していたからとも思われるが、確証はない。当時オランダではカトリック教会は禁制であり、カトリック教徒は公職に就くことができなかった。フェルメールとカタリーナの11人の子供たちはデルフト新教会の受洗名簿に1人も登録されていない、組合の長までつとめた画家が市の公職についていないことなどから、フェルメールはカトリックを信仰していたのではないかと考えられる。 1655年12月14日、父レイニールの葬儀の記録。遺産と共に父の借財も相続、また父の商売も引き継いだものと思われるが、確証はない。 1670年2月13日、母ダイムフナ、フラミングストラートで死去する。7月13日、「メルレン」を相続する。 1671年、姉ヘールトライトの死により、647フロリンを相続する(この金額は有能な職人の2年間の収入に相当)。
3 絵画の特徴
調和のとれた明瞭な色彩や簡素かつ静謐でありながらも綿密に計算された均当な空間構成、光の反射やハイライト部分などを点描によって表現するポワンティエ(点綴法)、写実性の高い描写。また作品制作にカメラ・オブスキュラ(暗箱)を用いるなど、当時の光学や透視図法の研究を取り入れたと推測されるほか、非常に高価であったラピスラズリを原料とするウルトラマリンブルーを多用した。大半の絵がデルフトの街に住む中流階級層の室内での生活を描いた風俗画である。また、フェルメールが描いた部屋は2つしかなく、あとはその2つの窓のかたわらにさまざまな場面をセットしたような絵になっている。よって彼は、行動範囲の小ささから、密室画家と言える。
4 作品紹介
①真珠の耳飾りの少女(青いターバンの娘) 1660~1665年に描かれた(推定)。フェルメールの最も有名な作品のひとつで、北欧のモナリザと称される傑作『真珠の耳飾りの少女』。別名、青いターバンの娘とも呼ばれるこの作品において最も特徴的な、黒色で統一される背景に鮮明に浮かび上がる少女の瞬間的な表情は、見る者に極めて強烈な印象を与える。これはレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロも使用した、登場人物(この作品では少女)の描写以外の絵画的構成要素を極力無くした暗中の背景とによって対象を一層際立たせる表現方法と、鮮明な光彩描写やターバンや衣服に用いられた黄色と青色による鮮やかな色彩のコントラスト、少女の振り向きざまの一瞬を捉えたかのような構図などとの相乗的効果によるところが大きい。現在はハーグにあるマウリツホイス美術館に所蔵されている。
②窓辺で水差しを持つ女 幾つもの優れた作品を残している1660年代に手がけられたこの作品は、左側に窓が置かれた部屋の中で日常生活を過ごす女性の1人像というフェルメールの典型的な作品の例のひとつであるが、その完成度は非常に高く、特に綿密な計算によって塗り重ねられているのに透明感を感じさせる色彩表現はフェルメールにしかできない技法になっている。窓際で水差しを手に、おそらく窓を開けているのであろう女性の被る白頭巾の薄く青みがかった白色の表現は、背後の白壁と明らかに異なる存在感を放っており、その透明的でありながら明暗を明確に示す色彩の変化は、観る者に涼しかしさすら感じさせる。また女性が左手に持つ、よく磨かれたであろう光沢感の強い銀の水差しの皿に映り込む、テーブルに掛けられたタペストリー布のまれな反射表現は、どんな観る人の視線を水差しへと向けさせる。しかしたくさんの画家たちが、このような技巧的描写による作品全体の統一感を失ってしまうが、フェルメールはむしろ、その表現力は過去の作品と比べても、より一層増している。それはこの場面を包み込む穏やかな光の表現においても言えることであり、様々に変化する色彩によって描写された構成要素に当たる光は、人物や物体の輪郭を溶かすかのような表現が用いられている。現在はニューヨークにあるメトロポリタン美術館に所蔵されている。
③ヴァージナルの前の2人(音楽の稽古) 1660年代前半を代表する作品。この作品に描かれるのは、ルネサンス・バロック期の音楽においてよく使用された撥弦鍵盤楽器チェンバロ(英名ハープシコード)の小型版である≪ヴァージナル≫を演奏する若い女と、その隣で立つ男で、フェルメールの大きな特徴である柔らかで明瞭な光の描写と、計算された空間構成と構図によって表現される精密な場面展開が見事な出来栄えである。ほぼ同時期に描かれた『二人の紳士と婦人』などに認められる空間構成上の課題点であった、透視法に則った描写によって発生する床面の歪みの不自然さを解消する為に、画面右側下半分へオリエンタル風の絨毯が掛けられる大きなテーブルが描かれている。またテーブルの上に乗せられる白磁器の水差しやヴァージナルの前の男女の間に置かれる青い椅子は、主に暖色が支配するこの作品の構図中で絶妙なアクセントとなっている。この作品で女が演奏する≪ヴァージナル≫には「音楽は喜びの伴侶、悲しみの薬」と記されており、アンドリース・リュッカーズの制作だと考えられるほか、登場人物である演奏者を真後ろから捉えて描くことによって、観る者へ自然と、本作の中に入り込むような感覚を与えている。また男の解釈については恋人説や音楽教師など様々な説が唱えられているが、確証を得るには至っていない。また、②と同じ窓がみえる。
ほかにも多数の作品がある。
5 時代背景
フェルメールたちバロック絵画作品を生み出した画家たちが生きている頃のヨーロッパは、国土拡大のためにたくさんの領土拡大戦争が行われており、それを指揮していた王が絶対王政を繰り広げていた。そのため王の権力や力を象徴するためさまざまなものが作られていた。そのなかの1人として絵画である。国土に拡大すれば富が手に入り、芸術に力を入れることができるためバロック芸術が発達したのだろう。また、この頃はオランダでバルト貿易がおこなわれており、そこでもたくさんの富を手に入れることができたのだろう。
6 現在のフェルメール作品
日本にもたくさんのフェルメール作品のファンがいる。そのためフェルメール作品の美術館が存在する。そこではフェルメールが描いた32点の絵画が展示されているが、もちろん本物ではない。しかし本物同様に複製しておりそしてただ本物にそっくりなだけではなく、この展示のために作曲されたBGMなどを取り入れ、よりフェルメール作品の良さを引き出している。また、フェルメール作品のさまざまなグッズも販売されている。このようにフェルメール作品は長い時を経てもたくさんのひとに愛され、魅了している。
7 参考文献
フェルメールその軌跡と作品http://reimeiki.net/
黒江光彦著 「フェルメール」新潮社
ヨハネス・フェルメール-主要作品の解説と画像・壁紙-http://www.salvastyle.com/menu_baroque/vermeer.html
最新世界史図説 タペストリー 帝国書院
フェルメール 光の王国展|美術館・博物館 http://www.museum-cafe.com/special/6394.html
ハンドル名:Ns