EUの歴史
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現在のEUの主要機関としては、大所高所から政治的な方向性を定める'''欧州理事会(EU首脳会議)'''、意思決定を行う'''閣僚理事会'''、政策の立案・執行機関である'''欧州委員会'''、EU市民の直接選挙で選出され、EUの活動に対し民主的な統制を行う'''欧州議会'''、EUの意思決定過程における諮問機関である'''経済社会評議会'''及び'''地域評議会'''、EUの歳出を監視している'''会計検査院'''、EUの司法機関である'''欧州裁判所'''が挙げられる。 また、議長国制度が取られており、加盟国が半年交代でその任務に当たっている。特に議長国は政治面でEUを対外的に代表する。 | 現在のEUの主要機関としては、大所高所から政治的な方向性を定める'''欧州理事会(EU首脳会議)'''、意思決定を行う'''閣僚理事会'''、政策の立案・執行機関である'''欧州委員会'''、EU市民の直接選挙で選出され、EUの活動に対し民主的な統制を行う'''欧州議会'''、EUの意思決定過程における諮問機関である'''経済社会評議会'''及び'''地域評議会'''、EUの歳出を監視している'''会計検査院'''、EUの司法機関である'''欧州裁判所'''が挙げられる。 また、議長国制度が取られており、加盟国が半年交代でその任務に当たっている。特に議長国は政治面でEUを対外的に代表する。 | ||
+ | *イギリスのEU離脱 | ||
+ | :2016年6月下旬、国民投票によりEUに於いて相当な影響力を維持していたイギリスの離脱派が過半数(52%)を占め、離脱の方向性が示された。今回の離脱決定の背景には、元来イギリスはEUに対して距離感を抱いていたことや、イギリスの政治やメディアが抱える構造問題があったことが浮き彫りとなった。この決定により、イギリス経済への影響が懸念される。Centre for Economics and Business Researchの試算では、EU離脱の場合は最初の2年間は経済に負の影響がでるが、ポンドが10から15パーセント下落し海外からの投資を呼び込み、2030年までにはEUに残留した場合よりもGDPの値は大きくなっているのだという。Open Europeの試算によれば、イギリスがEUを離脱した場合にはその影響はイギリスのGDPにマイナス2.2からプラス1.6パーセント分ほどの影響を与えるのだという。またイギリスだけでなく、世界経済にも非常に大きな影響を与えるとみられている。 | ||
+ | ==引用・参考文献== | ||
+ | *外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_96/eu/eu_intro.html | ||
+ | *駐日欧州連合代表部 http://www.euinjapan.jp/union/what-is-history/ | ||
+ | *言論NPO http://www.genron-npo.net/studio/2016/07/eu.html?gclid=Cj0KEQjw_eu8BRDC-YLHusmTmMEBEiQArW6c-GKsGn-Z6Nq1aU9S6-JHX_L4eZ2__iRZ9pqUqDdTnZ4aAjxW8P8HAQ | ||
+ | *山口邦夫 基礎から分かるイギリス「EU離脱」の真相 http://president.jp/articles/-/18387 | ||
+ | *村上直久編著 大修館書店 「EU情報辞典」 2009年8月 | ||
+ | *武蔵大学人文学部ヨーロッパ比較文化学科編 朝日出版社 「ヨーロッパ学入門(改訂版)」 2007年12月 | ||
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目次 |
EUとは
欧州連合(European Union)の略称。独特な経済的、政治的協力関係を持つ民主主義国家の集まり。加盟国数は当初の6ヵ国から28カ国となり、人口5億人の地域となっている。関税同盟、経済分野での共通政策、市場統合、共通通貨ユーロ導入等の面での統合が実現しており、EU加盟国はみな主権国家であるが、その主権の一部を他の機構に譲るという、世界で他に類を見ない仕組みに基づく共同体を作っている。
- EUの目的
- 1992年2月に欧州連合(EU)の創立のため定められたマーストリヒト条約内で、EUの目的について以下のように規定している。
- 域内国境のない地域の創設、及び経済通貨統合の設立を通じて経済的・社会的発展を促進すること
- 共通外交・安全保障政策の実施を通じて国際舞台での主体性を確保すること
- 欧州市民権の導入を通じ、加盟国国民の権利・利益を守ること
- 司法・内務協力を発展させること
- 共同体の蓄積された成果の維持と、これに基づく政策や協力形態を見直すこと
歴史
ヨーロッパ統一思想の萌芽
ヨーロッパの大部分の領域はかつて、ローマ帝国、東ローマ帝国、フランク王国、神聖ローマ帝国、オスマン帝国、フランス第一帝政、ナチス・ドイツといった武力を背景とした帝国のもとに統一されていたが、戦後の壊滅的な状態下で欧州統合の思想が西ヨーロッパで広まっていった。欧州統合の構想を提起した思想家には、ウィリアム・ペン、シャルル=イレネー・カステル・ド・サン=ピエール、ヴィクトル・ユーゴー、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー、ジュゼッペ・マッツィーニ等の多くのヨーロッパ人が挙げられる。中でもクーデンホーフ=カレルギーは1923年に「汎・ヨーロッパ」と題する書物において平和的世界統一の第一段階としてのヨーロッパ統一を呼びかけ、第一次大戦の傷跡の残るヨーロッパに一つの希望を投げかけた。
カレルギーの欧州統合論
- 第一段階 各国で構成する欧州会議の開催。軍縮、関税、通貨などで共通の利益を検討する委員会設置
- 第二段階 欧州仲裁裁判所の設置。加盟国間の相互安全保障条約の締結
- 第三段階 欧州全域で関税同盟と、通貨同盟締結。単一経済圏の創設
- 最終段階 欧州合衆国の誕生
チャーチルの「合衆国」構想
- 第二次世界大戦により欧州の荒廃はさらに進んだ。そうした荒廃の中から、欧州統合の声はさらに強まった。きっかけの一つは、戦時中に英首相となったチャーチルが戦後の1946年9月にスイスのチューリッヒ大学で行った演説だった。英国を勝利に導いた名宰相も大戦終了直前の総選挙で敗北し、野に下っていた。大戦中に欧州理事会設立を提唱したチャーチルは「もし欧州の諸民族が団結できるならば、欧州人は共通の幸福感を抱き、無限の名誉を感じるだろう。我々は米合衆国に似たものを建設し、育てなければならない。この緊急の使命を達成するために、まずドイツとフランスが手を結ぶ必要がある。」と熱弁した。この「欧州合衆国」を掲げた演説は、戦火で打ちひしがれていた欧州各地で反響を呼んだ。1947年2月にはチャーチル自身を会長とする「欧州連合運動」が発足した。大戦中、米国に亡命していたカレルギーも汎欧州運動を復活させた。他にもいくつかの欧州統合団体が生まれ、統合への礎となっていった。
「欧州統合の父」ジャン・モネ
- フランスのジャン・モネは大戦後の欧州統合を精力的な行動で実現した。「欧州統合の父」と呼ばれ、最初の「欧州名誉市民」の称号を得ている。モネは第一次世界大戦中から、「欧州各国が繁栄を勝ち得るには各国ごとでは小さすぎる。各国を単一の経済単位にまとめる欧州連邦を結成しなければならない。」と主張、欧州域内の独仏の関係を和解に導く全欧的な枠組み作りを提唱した。またモネは、欧州の安定だけではなく国際協調も強く意識していた。第二次世界大戦後は、フランスの戦後復興のために仏政府の経済計画部総裁に就任した。しかしモネは自国の復興だけでなく、独仏の宿命的な対決を回避し欧州復興を目指す構想を練り上げた。
ECの発足
ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の設立
- ジャン・モネの構想に、欧州統合派のフランスのロベール・シューマン外相(後に首相)が賛同し、現実化への一歩が踏み出された。そしてシューマンは石炭鉄鋼共同管理案を提唱し、「シューマン・プラン」を発表。独仏間の対立に終止符を打つために両国の石炭・鉄鋼産業を超国家機関の管理のもとに置き、これに他の欧州諸国も参加するというECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の設立を提案した。シューマンの声明に基づき、1951年にフランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、西ドイツはECSCを設立するパリ条約に著名。こうしてEUの統合組織の第一号となるECSCとして実現した。後に1985年の欧州理事会においてEU首脳たちは、5月9日を「欧州の日」として祝うことを決め、翌年から欧州全体の祝いの日となっている。シューマン・プランは、西ドイツが占領下から解放され、主権を回復するための前提でもあった。
- ECSCは最高機関、諮問機関、閣僚理事会、共同総会および裁判所から構成された。ジャン・モネは設立されたECSCの最高機関の初代委員長に就いた。独自の裁判所を備えたのは、最高機関が石炭、鉄鋼の生産や価格などの決定権を持つのに対し同機関の決定によって利益を侵害された企業や個人が裁判で争うことができるようにしたためである。セクター別の統合路線は、石炭と鉄鋼分野では共同生産や市場化の統合効果が出たが、ECSCの加盟国間でも、両分野以外の金融、税制、通貨、雇用などの市場条件は別々のままだった。したがって統合効果は限られていた。さらにECSCの柱の一つであった石炭産業は、石油の台頭を受けて斜陽化した。
EEC(欧州経済共同体)とEURATOM(欧州原子力共同体)
- ECSCの成功を受け、エネルギー分野での経済協力を中心に欧州の共同関係が進展を見せる。1957年3月、独仏など6ヵ国がEEC(欧州経済共同体)とEURATOM(欧州原子力共同体)の設立を規定する、ローマ条約に調印した。EECとEURATOMはECSCとは異なり、政策執行機関が「最高機関」ではなく「委員会」とされた。ECCはヴァルター・ハルシュタインが、EURATOMはルイ・アルマン、エティエンヌ・イルシュがそれぞれ委員長を務めた。ローマ条約は一時批准失敗の懸念に包まれたが無事可決された。
- これに対し、英国は共同体機構を前提としたEECの仕組みを嫌って、EECに加わらなかった。代わりにスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スイス、オーストリア、ポルトガル同盟を結び、EFTA(欧州自由貿易連合)を発足させた。ECCが外交などにおいても共通政策を模索しようとしていたのに対し、EFTAの協力関係は域内の経済、貿易の自由化に限定されていた。その後アイスランド、フィンランドが加盟した。しかし、1961年には重要な役割を担っていた英国がEECへの加盟申請を表明するなどして、結果的には多くの国がそれに続いた。
- 米国との関係
- 1947年6月、米ハーバード大学の卒業式でジョージ・マーシャル米国務長官は、欧州への戦後援助の必要性を強調した。これがマーシャル・プランと呼ばれる欧州復興計画である。同計画に基づき、1948年4月にOEEC(欧州経済協力機構)が西欧16ヵ国(後に18ヵ国)の参加で設立された。これを受け米国は、1948年から1951年にかけて、総額約131億ドルを、無償ないしは低金利で欧州諸国に援助した。米国は欧州への経済支援と並んで、軍事面では1949年9月にNATOを結成し、調印した。このように、戦後の欧州統合の土台を築く上で、米国の経済、軍事の両面にわたる支援が大きな力になったことは間違いない。その上で、欧州統合への歩みは長い年月をかけ、欧州人自身の手で積み上げられていくのである。
3つの共同体の統合
- パリ条約、ローマ条約で出そろったEEC、ECSC、EURATOMの3機関は当初、それぞれ個別の総会や閣僚理事会、司法機関を持ち、本部はECSCがルクセンブルク、EECとEURATOMはブリュッセルと別々だった。そのため相互調整の必要性が高まってきた。そこで、1965年、3機関をEC(欧州共同体)として統合、再編成する併合条約がブリュッセルで著名され、1967年7月にECが発足した。当初の加盟国はベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの6ヵ国であったが、その後新たに、デンマーク、アイルランド、イギリス、ギリシア、スペイン、ポルトガルが加盟し、1986年までに12ヵ国に拡大した。3共同体の政策執行機関となった欧州委員会の初代委員長には、ジャン・レイが就任した。1969年オランダのハーグで開かれた欧州理事会では、新段階に向かうECの目標として「完成」「強化」「拡大」「政治協力」の4つを掲げた。しかし1970年代、ニクソン・ショック、第一次、第二次の石油危機なでど欧州経済は打撃を受け、「ECの停滞の時代」を迎える。
- ECの4つの目標
- 「完成」 ローマ条約が定めた共同市場をさらに確実なものにし、完成を目指す。
- 「強化」 共同市場のの次の目標として、経済通貨同盟(EMU)創設を掲げる。
- 「拡大」 加盟国の増大。1973年には英国、デンマーク、アイルランドの3ヵ国が加盟した。その後、ギリシャ、スペイン、ポルトガルも加盟し、12ヵ国にまで拡大した。
- 「政治協力」 政治に関わることにおいても各国間で協力をしていこうという考え。
ECからEUへ
「ECの停滞の時代」を経て、統合の遅れに対する危機感から、1985年ドロール委員長のイニシアティヴにより1992年までに域内市場統合の完成を目指す「域内統合市場白書」が採択された。その間、1990年にミッテラン仏大統領とコール独首相が、EMU(経済通貨統合)を形成してそのまま政治統合まで実現するとの共同提案を行った。それが1991年12月のEU創設のための「マーストリヒト合意」につながった。翌1992年2月にはマーストリヒト条約が著名され、EU(欧州連合)が発足した。条約は3つの枠組みからなる。1つは欧州共同体(EC)条約であり、単一通貨ユーロ導入の経済通貨同盟(EMU)はこの中にある。2つ目は、政治同盟(EPU)を形作る共通外交安全保障政策(CFSP)だ。3つ目の柱が、司法内務協力(CJHA)だ。
アムステルダム条約
- マーストリヒト条約はEUの基本条約を全面改訂したが、同条約の調整、調印、発行の過程で、欧州の政治事情が大きく変動したことへの対応は十分ではなかった。1989年のベルリンの壁崩壊を契機に東西冷戦が終結、中東欧諸国のEU加盟問題が浮上したためである。中東欧諸国へのEU拡大は、汎欧州の理想を描いたカレルギー以来の欧州統合の目標でもある。西欧諸国を中心として経済、政治両面での深化、統合を進めながら、中東欧への拡大を実現するため、マーストリヒト条約を引き継ぐ形で、1997年6月にオランダで合意されたのがアムステルダム条約である。
- 同条約では、まず人権や基本的自由が位置づけられた。人権概念の発祥の地である西欧では、これらは当たり前の概念だが、共産主義体制が長く続いた中東欧諸国の加盟を前提に、改めて基本条約にそれらを盛り込み、EUを「自由、安全、司法の一領域」として発展させる、と明記した。
- EUへの新規加盟はこれまで、1973年の英国、デンマークの加盟以来、個別交渉の形で行われてきた。冷戦体制崩壊以後の1995年のスウェーデン、オーストリア、フィンランドの西欧中立3国の加盟も同様だ。ところが中東欧諸国は、加盟候補国が12ヵ国と従来にないほど数が多いほか、政治・社会体制、経済水準の違いも従来にない課題となった。そこでEUはアムステルダム条約で体制整備と連動する形で、「大拡大」への準備を進めた。1993年にはコペンハーゲン首脳会議で、EU加盟基準を整備した。また、加盟申請国が基準に「合格」できるように、アジェンダがベルリンでの特別首脳会議で合意された。
ニース条約
- アムステルダム条約では、EU拡大を意識した整備を進めた。だが、EUそのものの政策決定システムなどの基本の仕組みをどう調整するのかという課題は決着しなかった。加盟国が増えることで、EUの国際的な影響力は高まる。その一方で、政策決定に関わる国の数が増えると、迅速な合意形成が難しくなる。そこで2000年12月にフランスのニースで開いた首脳会議で、新たに締結されたのがニース条約である。
- ニース条約でまとまった主な改革として、まずEUの政策立案・運営を担当する欧州委員会の委員数の変更が行われた。大国の2人枠を外し、1加盟国1委員制とした。これにより発足以来の「大国に不利に、小国に有利に」という配分原則を貫いた。EUの政策決定を迅速にするために導入されている特別多数決制についても、対象領域の拡大を図った。また、アムステルダム条約同様、ニース条約でも深化と拡大のバランスへの配慮条項を盛り込んだ。「先行統合」の規定である。EU全体の市場統合と改革のテンポが鈍らないようにすることを目的とした。具合的には、条項のなかに「先行統合」の編を設け、前条約で打ち出した「柔軟性の原則」もその中に位置づけた。
- EUの新たな拡大は2004年に実現した10ヵ国の中東欧・地中海諸国の加盟、さらに2007年には遅れていたブルガリアとルーマニアも加盟して、ニース条約が前提とした27ヵ国体制となった。
リスボン条約
- ニース条約調印の翌2001年12月、ベルギーで開いたラーケン欧州理事会(首脳会議)は「EUの将来についてのラーケン宣言」を採択、既存の各条約を整理するとともに、EUの基本権を定める欧州憲法条約制定を検討する諮問委員会を設置した。2004年にはローマで新たな条約が調印された。しかし、当時低迷していた国内景気への不満により、フランス、オランダで否決票が上回り条約は頓挫される。EU首脳たちは「熟慮期間」を置いて条約案を練り直し、2007年3月、新たな基本条約を制定、批准することをうたった。条約案も簡素化し、名前も「改革条約」に改め、2007年6月の欧州理事で合意した。条約は同年12月、ポルトガルのリスボンでの首脳会議で調印されたため、リスボン条約と呼ばれる。
- 「憲法」の名は外したが、ニース条約から焦点となっていたEUの政策決定の仕組みの修正、常任の議長・外相の設置、基本権憲章の位置づけ、EUの排他的権限、EUと加盟国の共有権限などの領域の明確化など、骨組みの部分は残った。憲法条約よりも実務的な内容になったともいえる。
現在
現在のEUの主要機関としては、大所高所から政治的な方向性を定める欧州理事会(EU首脳会議)、意思決定を行う閣僚理事会、政策の立案・執行機関である欧州委員会、EU市民の直接選挙で選出され、EUの活動に対し民主的な統制を行う欧州議会、EUの意思決定過程における諮問機関である経済社会評議会及び地域評議会、EUの歳出を監視している会計検査院、EUの司法機関である欧州裁判所が挙げられる。 また、議長国制度が取られており、加盟国が半年交代でその任務に当たっている。特に議長国は政治面でEUを対外的に代表する。
- イギリスのEU離脱
- 2016年6月下旬、国民投票によりEUに於いて相当な影響力を維持していたイギリスの離脱派が過半数(52%)を占め、離脱の方向性が示された。今回の離脱決定の背景には、元来イギリスはEUに対して距離感を抱いていたことや、イギリスの政治やメディアが抱える構造問題があったことが浮き彫りとなった。この決定により、イギリス経済への影響が懸念される。Centre for Economics and Business Researchの試算では、EU離脱の場合は最初の2年間は経済に負の影響がでるが、ポンドが10から15パーセント下落し海外からの投資を呼び込み、2030年までにはEUに残留した場合よりもGDPの値は大きくなっているのだという。Open Europeの試算によれば、イギリスがEUを離脱した場合にはその影響はイギリスのGDPにマイナス2.2からプラス1.6パーセント分ほどの影響を与えるのだという。またイギリスだけでなく、世界経済にも非常に大きな影響を与えるとみられている。
引用・参考文献
- 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_96/eu/eu_intro.html
- 駐日欧州連合代表部 http://www.euinjapan.jp/union/what-is-history/
- 言論NPO http://www.genron-npo.net/studio/2016/07/eu.html?gclid=Cj0KEQjw_eu8BRDC-YLHusmTmMEBEiQArW6c-GKsGn-Z6Nq1aU9S6-JHX_L4eZ2__iRZ9pqUqDdTnZ4aAjxW8P8HAQ
- 山口邦夫 基礎から分かるイギリス「EU離脱」の真相 http://president.jp/articles/-/18387
- 村上直久編著 大修館書店 「EU情報辞典」 2009年8月
- 武蔵大学人文学部ヨーロッパ比較文化学科編 朝日出版社 「ヨーロッパ学入門(改訂版)」 2007年12月
(投稿者 ぱる)