フランス革命5

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(ヴァレンヌ逃亡事件)
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-== 概要 ==+== 背景==
- 18世紀後半のフランスは、ブルボン朝の絶対君主制(アンシャン・レジーム:旧体制)が続いていた。一方でルソーやヴォルテールなどの自由を求める啓蒙思想が、国民の間に広まっていった。1789年7月14日、バスティーユ襲撃事件が勃発。この事件をきっかけにフランス革命は全国に広まっていった。1792年に王権が停止し、翌年にルイ16世は処刑された。8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を決め、アメリカ独立宣言を参考にしてフランス人権宣言を採択した+ 18世紀後半のフランスは、ブルボン朝の絶対君主制('''アンシャン・レジーム''':旧体制)が続いていた。一方でルソーやヴォルテールなどの自由を求める啓蒙思想が、国民の間に広まっていった。<br>1789年5月5日、ルイ16世の招集により'''全国三部会'''が開かれた。三部会から分離し国民議会を立ち上げ、6月20日、テニスコートの誓いが行われた。また、立憲君主制を成立させるするためにフランス最初の「憲法」制定に着手したさなか、人気があった財務長官ジャック・ネッケルが罷免された。これを契機に7月14日、'''バスティーユ襲撃事件'''が勃発。フランス革命は全国に広まっていった。8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を決め、アメリカ独立宣言を参考にし、'''ラ=ファイエット'''らが起草した、'''フランス人権宣言'''を採択した。この宣言には基本的人権・国民主権・私有財産の不可侵が盛り込まれた。1791年6月20日、'''ヴァレンヌ逃亡事件'''をおこし国民の信頼を失う。1792年に王権が停止し、翌年にルイ16世は処刑された。
- フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の精神は、民主主義の土台となった。一方で、目的のためには社会の改造や暴力も正当化した点で、共産主義や全体主義にも大きな影響を与えた。また同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「二重革命」として、「近代資本主義社会」を完成させた動きととらえることが出来る。+<br>フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の精神は、民主主義の土台となった。一方で、目的のためには社会の改造や暴力も正当化した点で、共産主義や全体主義にも大きな影響を与えた。また同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「二重革命」として、「'''近代資本主義社会'''」を完成させた動きととらえることが出来るであろう。<br>
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 +==アンシャン・レジーム ==
 +'''アンシャン・レジーム'''(=旧制度)とは、ヨーロッパの現象でありヨーロッパの政治的、経済的、社会的、文化的変遷の1段階を示すものである。ここではフランス革命前の、絶対王政下のフランスの政治・社会のありかたを取り上げる。ブルボン朝の国王を頂点とし、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)が特権身分とし、官職を独占し、土地も大半を所有し、免税特権を与えられていた。一方、人口の9割以上占める第三身分(農民や都市の民衆)は重税が課せられ、特に農民は領主への重い貢租に苦しめられていた。また、徴税を行った役人がおもに貴族で、彼らの取り分が多く、国家の収入が減っていたのも問題であるがうえに、参政権も認められていなかった。同じ頃、フランスの絶対王政はイギリスとの植民地抗争、ヨーロッパでの領土拡張戦争に明け暮れ、国王の贅沢な生活と共に、国家財政は危機に直面していた。そのため、ルイ16世は三部会を開催して貴族への課税を行おうとしたために、貴族の反発にあい、そこから一気に王制の打倒にまで到達するフランス革命へと展開していく。<br>アンシャン・レジームは、身分制度のなかに矛盾が色濃くあらわれていた。同一身分内でも経済的な格差が広がり、利害対立が深まっていった原因であった。また、社会制度に対する不満も高まっていた。<br>
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 +==バスティーユ襲撃事件==
 +'''バスティーユ牢獄'''は、本来は要塞であり、高さ30mの城壁と幅25mの濠でかこまれていた。このような要塞は全国に30ほどあり、特にパリのバスティーユ要塞はリシュリュー時代から牢獄として使われ、王政に反対する政治犯が収容されていた。国民は裁判もなしでいつここに閉じこめられてもおかしくなかった。バスティーユ牢獄は'''専制政治'''の象徴であったといえる。<br>1789年6月26日、国王は威圧のために2万人の外国人軍隊を召集した。これに対し、パリの選挙人達の代表は議会に赴いて軍隊の撤去を要求した。7月8日、議会はこの要求に対し国王に撤兵を要求した。3万5千の外人傭兵がヴェルサイユ周辺に配置され、なお2万の軍隊が待機しており、国民議会は武力の前に屈服寸前だった。また、これらと並行して、7月6日、下からの改革を目指す国民議会は憲法制定のための憲法委員会を創設した。続く7月9日には国民議会は名称を「'''立憲国民議会(立憲議会)'''」と名乗り、絶対王政から立憲王政へ切り替えを目指した。一連の議会を中心としたパリの民衆の動きに対して、ルイ16世は7月11日、民衆に人気のあり、宮廷内で自由主義的改革を進めていたネッケルを突然罷免し、また、議場をパリからノワイヨンまたはソワッソンに移す用意があると表明しました。これらの都市はパリから東北約90キロ離れたところにあり、東部国境を守る軍団の中心地にありました。つまり、パリ民衆と結託している議会をパリから遠ざけることが狙いであった。 7月12日、青年カミーユ・デムーランがパレ・ロワイヤルで熱弁を奮う。「早すぎる死か。永遠の自由か。さあ、武器を取れ!」この言葉で民衆は武器商に押しかけて武器を奪い武装。7月13日、パリの選挙人達は市長フレッセルや職員と協力して4万8千人の市民軍の結成を決定した。7月14日、'''ルイ16世'''は国民議会の成立に対抗し、第三身分の動きを封じようとして、全国から2万の軍隊をヴェルサイユに集めた。それらの報せがパリ市民に伝わると、国民議会を支持する市民が武装蜂起。この日の朝、民衆はアンヴァリッド(廃兵院)で武器を奪ったが、弾薬と火薬が不足していた。バスティーユ牢獄に弾薬と火薬があるという噂で、群集が押し掛け、代表が受け渡しを交渉するが要塞司令官ロネーが拒否。何度かの交渉の後、午後1時半ごろ守備隊(退役兵とスイス兵)が発砲。5時、守備隊降伏、囚人は開放され、弾薬・火薬が奪われ、司令官は首をはねられた。攻撃側も100人ほどが死亡した。これがきっかけで全国の農民が領主の館を襲撃し始め、旧体制に対する不満が一斉に噴き出して大恐怖が全国に拡がり、フランス革命が始まった。
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 +==ルイ16世に関するエピソード ==
 +7月14日はルイ16世は一日中、狩猟をして疲れて果て、夜はぐっすり寝た。翌朝、寝室で目覚めたルイ16世は、衣裳係のラ=ロシュフコ=アンクール公からヴェルサイユの事件の報告を受けた。ルイ16世は事態の切迫を理解できず、「それは騒乱かね?」と尋ねると、公は「いいえ、陛下、騒乱ではございません。革命でございます。」と答えた。
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 +== ヴァレンヌ逃亡事件 ==
 +国王一家は1789年9月の市民による'''ヴェルサイユ行進'''によって、ヴェルサイユからパリのテュイルリー宮殿に移されていた革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は密かにオーストリア領ネーデルランドへの国外逃亡を策して、逃亡後は、外国軍の武力を借りて絶対王政を回復させようと企ていた。1791年6月、フランス部隊の若いスウェーデン人大佐アクセル=ド=フェルセンが周到に準備し、20日深夜(正確には21日0時10分)国王ルイ16世は従僕に変装し、王妃・王の妹と共にテュイルリー宮殿を脱出、馬車で東に向かった。騎兵隊が途中ヴァレンヌで出迎えて護衛する予定だったが農民に脅されて退却してしまった。一行は途中の宿駅長に見破られ、21日深夜捕らえられ失敗に終わった。 国王でありながら国を離れようとしたルイ16世に対し、6月25日、国民議会は王権の停止を布告。同日6時、国王一家パリに連れ戻され、テュルリー宮殿で半ば幽閉された状態となる。ルイ16世は国王であることには変わりはなかったが、この事件をきっかけに国民の国王に対する信頼を失い、その権威を失墜し、議会と市民の中に王政廃止、かえって、共和派の台頭を招いた。しかし、国王(及び王妃)はこの逃亡事件に懲りずに、その後もオーストリアなど外国と密かに連絡を取り、王制を廃止するのではなく、憲法の下で国王を戴くという立憲君主政さえ受容しない姿勢を取った。その結果が悲劇つまり、国王と王妃の処刑ということになる。
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 +== 参考文献 ==
 +フランス革命 http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a07_frank/revolution.html
 +<br>フランス革命‐世界史の窓 http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-013_1.html
 +<br>アンシャン・レジーム ウィリアム・ドイル/福井憲彦【訳】
 +<br>1789年 フランス革命論 ~不安と不満の社会学~ 野々垣友枝 著
 +<br>新詳- 世界史B 帝国書院
 +<br>世界史用語集 全国歴史教育研究協議会 編

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目次

背景

 18世紀後半のフランスは、ブルボン朝の絶対君主制(アンシャン・レジーム:旧体制)が続いていた。一方でルソーやヴォルテールなどの自由を求める啓蒙思想が、国民の間に広まっていった。
1789年5月5日、ルイ16世の招集により全国三部会が開かれた。三部会から分離し国民議会を立ち上げ、6月20日、テニスコートの誓いが行われた。また、立憲君主制を成立させるするためにフランス最初の「憲法」制定に着手したさなか、人気があった財務長官ジャック・ネッケルが罷免された。これを契機に7月14日、バスティーユ襲撃事件が勃発。フランス革命は全国に広まっていった。8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を決め、アメリカ独立宣言を参考にし、ラ=ファイエットらが起草した、フランス人権宣言を採択した。この宣言には基本的人権・国民主権・私有財産の不可侵が盛り込まれた。1791年6月20日、ヴァレンヌ逃亡事件をおこし国民の信頼を失う。1792年に王権が停止し、翌年にルイ16世は処刑された。
フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の精神は、民主主義の土台となった。一方で、目的のためには社会の改造や暴力も正当化した点で、共産主義や全体主義にも大きな影響を与えた。また同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「二重革命」として、「近代資本主義社会」を完成させた動きととらえることが出来るであろう。

アンシャン・レジーム

アンシャン・レジーム(=旧制度)とは、ヨーロッパの現象でありヨーロッパの政治的、経済的、社会的、文化的変遷の1段階を示すものである。ここではフランス革命前の、絶対王政下のフランスの政治・社会のありかたを取り上げる。ブルボン朝の国王を頂点とし、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)が特権身分とし、官職を独占し、土地も大半を所有し、免税特権を与えられていた。一方、人口の9割以上占める第三身分(農民や都市の民衆)は重税が課せられ、特に農民は領主への重い貢租に苦しめられていた。また、徴税を行った役人がおもに貴族で、彼らの取り分が多く、国家の収入が減っていたのも問題であるがうえに、参政権も認められていなかった。同じ頃、フランスの絶対王政はイギリスとの植民地抗争、ヨーロッパでの領土拡張戦争に明け暮れ、国王の贅沢な生活と共に、国家財政は危機に直面していた。そのため、ルイ16世は三部会を開催して貴族への課税を行おうとしたために、貴族の反発にあい、そこから一気に王制の打倒にまで到達するフランス革命へと展開していく。
アンシャン・レジームは、身分制度のなかに矛盾が色濃くあらわれていた。同一身分内でも経済的な格差が広がり、利害対立が深まっていった原因であった。また、社会制度に対する不満も高まっていた。


バスティーユ襲撃事件

バスティーユ牢獄は、本来は要塞であり、高さ30mの城壁と幅25mの濠でかこまれていた。このような要塞は全国に30ほどあり、特にパリのバスティーユ要塞はリシュリュー時代から牢獄として使われ、王政に反対する政治犯が収容されていた。国民は裁判もなしでいつここに閉じこめられてもおかしくなかった。バスティーユ牢獄は専制政治の象徴であったといえる。
1789年6月26日、国王は威圧のために2万人の外国人軍隊を召集した。これに対し、パリの選挙人達の代表は議会に赴いて軍隊の撤去を要求した。7月8日、議会はこの要求に対し国王に撤兵を要求した。3万5千の外人傭兵がヴェルサイユ周辺に配置され、なお2万の軍隊が待機しており、国民議会は武力の前に屈服寸前だった。また、これらと並行して、7月6日、下からの改革を目指す国民議会は憲法制定のための憲法委員会を創設した。続く7月9日には国民議会は名称を「立憲国民議会(立憲議会)」と名乗り、絶対王政から立憲王政へ切り替えを目指した。一連の議会を中心としたパリの民衆の動きに対して、ルイ16世は7月11日、民衆に人気のあり、宮廷内で自由主義的改革を進めていたネッケルを突然罷免し、また、議場をパリからノワイヨンまたはソワッソンに移す用意があると表明しました。これらの都市はパリから東北約90キロ離れたところにあり、東部国境を守る軍団の中心地にありました。つまり、パリ民衆と結託している議会をパリから遠ざけることが狙いであった。 7月12日、青年カミーユ・デムーランがパレ・ロワイヤルで熱弁を奮う。「早すぎる死か。永遠の自由か。さあ、武器を取れ!」この言葉で民衆は武器商に押しかけて武器を奪い武装。7月13日、パリの選挙人達は市長フレッセルや職員と協力して4万8千人の市民軍の結成を決定した。7月14日、ルイ16世は国民議会の成立に対抗し、第三身分の動きを封じようとして、全国から2万の軍隊をヴェルサイユに集めた。それらの報せがパリ市民に伝わると、国民議会を支持する市民が武装蜂起。この日の朝、民衆はアンヴァリッド(廃兵院)で武器を奪ったが、弾薬と火薬が不足していた。バスティーユ牢獄に弾薬と火薬があるという噂で、群集が押し掛け、代表が受け渡しを交渉するが要塞司令官ロネーが拒否。何度かの交渉の後、午後1時半ごろ守備隊(退役兵とスイス兵)が発砲。5時、守備隊降伏、囚人は開放され、弾薬・火薬が奪われ、司令官は首をはねられた。攻撃側も100人ほどが死亡した。これがきっかけで全国の農民が領主の館を襲撃し始め、旧体制に対する不満が一斉に噴き出して大恐怖が全国に拡がり、フランス革命が始まった。

ルイ16世に関するエピソード

7月14日はルイ16世は一日中、狩猟をして疲れて果て、夜はぐっすり寝た。翌朝、寝室で目覚めたルイ16世は、衣裳係のラ=ロシュフコ=アンクール公からヴェルサイユの事件の報告を受けた。ルイ16世は事態の切迫を理解できず、「それは騒乱かね?」と尋ねると、公は「いいえ、陛下、騒乱ではございません。革命でございます。」と答えた。

ヴァレンヌ逃亡事件

国王一家は1789年9月の市民によるヴェルサイユ行進によって、ヴェルサイユからパリのテュイルリー宮殿に移されていた革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は密かにオーストリア領ネーデルランドへの国外逃亡を策して、逃亡後は、外国軍の武力を借りて絶対王政を回復させようと企ていた。1791年6月、フランス部隊の若いスウェーデン人大佐アクセル=ド=フェルセンが周到に準備し、20日深夜(正確には21日0時10分)国王ルイ16世は従僕に変装し、王妃・王の妹と共にテュイルリー宮殿を脱出、馬車で東に向かった。騎兵隊が途中ヴァレンヌで出迎えて護衛する予定だったが農民に脅されて退却してしまった。一行は途中の宿駅長に見破られ、21日深夜捕らえられ失敗に終わった。 国王でありながら国を離れようとしたルイ16世に対し、6月25日、国民議会は王権の停止を布告。同日6時、国王一家パリに連れ戻され、テュルリー宮殿で半ば幽閉された状態となる。ルイ16世は国王であることには変わりはなかったが、この事件をきっかけに国民の国王に対する信頼を失い、その権威を失墜し、議会と市民の中に王政廃止、かえって、共和派の台頭を招いた。しかし、国王(及び王妃)はこの逃亡事件に懲りずに、その後もオーストリアなど外国と密かに連絡を取り、王制を廃止するのではなく、憲法の下で国王を戴くという立憲君主政さえ受容しない姿勢を取った。その結果が悲劇つまり、国王と王妃の処刑ということになる。

参考文献

フランス革命 http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a07_frank/revolution.html
フランス革命‐世界史の窓 http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-013_1.html
アンシャン・レジーム ウィリアム・ドイル/福井憲彦【訳】
1789年 フランス革命論 ~不安と不満の社会学~ 野々垣友枝 著
新詳- 世界史B 帝国書院
世界史用語集 全国歴史教育研究協議会 編


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