社会教育2
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社会教育とは、学校以外の場で、青少年及び成人を対象として行われる組織的な教育活動。社会教育法第二条では、この法律において、「社会教育」とは、学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号)又は就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律 (平成十八年法律第七十七号)に基づき、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう。また、社会教育は各国特有のもので各々が教育という営みをどのように考えるかによって発展の仕方が違ってきた。それは歴史とも密接な関係があり、一種の文化とも言える。日本の社会教育体制は戦争の終わりを境にかなり異なっている。戦前は政府による国民教化であった。しかし、戦後は国民が自ら考え学習しようと思うようになった。学校教育は大人にとって義務であり、子供にとっては権利だからである。現代の学校はしっかりとしたカリキュラムが組まれているし、さらには期間までもが決められている。これは国民に対しとても親切なように見えるかもしれないが、見方を変えれば「強制」と捉えることもできる。もちろん国民は必要最低限の知識は持っていなければならない。しかし、社会教育とはそういったものではない。社会教育で最も大切なこと、それは「いつでも、どこでも、誰とでも、なんでも、自由に、無料で」学習ができることである。国民は誰でも学ぶ権利を持っていて、行政や自治体はその要求に応える必要がある。 | 社会教育とは、学校以外の場で、青少年及び成人を対象として行われる組織的な教育活動。社会教育法第二条では、この法律において、「社会教育」とは、学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号)又は就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律 (平成十八年法律第七十七号)に基づき、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう。また、社会教育は各国特有のもので各々が教育という営みをどのように考えるかによって発展の仕方が違ってきた。それは歴史とも密接な関係があり、一種の文化とも言える。日本の社会教育体制は戦争の終わりを境にかなり異なっている。戦前は政府による国民教化であった。しかし、戦後は国民が自ら考え学習しようと思うようになった。学校教育は大人にとって義務であり、子供にとっては権利だからである。現代の学校はしっかりとしたカリキュラムが組まれているし、さらには期間までもが決められている。これは国民に対しとても親切なように見えるかもしれないが、見方を変えれば「強制」と捉えることもできる。もちろん国民は必要最低限の知識は持っていなければならない。しかし、社会教育とはそういったものではない。社会教育で最も大切なこと、それは「いつでも、どこでも、誰とでも、なんでも、自由に、無料で」学習ができることである。国民は誰でも学ぶ権利を持っていて、行政や自治体はその要求に応える必要がある。 | ||
- | == 社会教育における学習方法 == | + | == 社会教育における学習方法の分類 == |
学習者の人数に注目して二つに分類された。複数の人が集まって行う学習(集合学習)と個人が一人で行う学習(個人学習)に分類される。そのうえ集合学習についてはさらに、講演会や映画会などの「希望者がそのつど自由に参加する集会的性格のもの」(集会学習)と、学級・講座やグループ・サークルなどの「参加者の集合が組織的であって、それ自体が教育的意義をもつ集団的性格のもの」(集団学習)とに分けられる。個人学習についても図書や放送などの「学習メディアを利用して行う学習」と、図書館や博物館などの「施設を利用して行う学習」とに分けられている。しかし、一般には人数に注目されているため、「個人学習」「集会学習」「集団学習」の3つに分類されることが多い。 | 学習者の人数に注目して二つに分類された。複数の人が集まって行う学習(集合学習)と個人が一人で行う学習(個人学習)に分類される。そのうえ集合学習についてはさらに、講演会や映画会などの「希望者がそのつど自由に参加する集会的性格のもの」(集会学習)と、学級・講座やグループ・サークルなどの「参加者の集合が組織的であって、それ自体が教育的意義をもつ集団的性格のもの」(集団学習)とに分けられる。個人学習についても図書や放送などの「学習メディアを利用して行う学習」と、図書館や博物館などの「施設を利用して行う学習」とに分けられている。しかし、一般には人数に注目されているため、「個人学習」「集会学習」「集団学習」の3つに分類されることが多い。 | ||
- | + | 「集会学習」と「集団学習」の違いについては、学習者同士の間に相互作用がみられるかどうかが重要な意味を持つ。つまり、集会学習においては多くの人が一同に会していても学習者の間に相互作用がみられないのに対し、集団学習では学習者の間に相互作用がみられ、さらに相互作用を通じた学習が期待されるという点に特徴がある。相互作用があることによって、①参加者の間の仲間意識を養うことができる、②学習意欲が継続しやすい、③1つの問題について多角的かつ合理的に考えることができる、④人間関係のなかで社会性や個性を養うことができる、⑤学習が態度や行動の変化に結びつきやすい、といったメリットが生じる。しかしデメリットもある。それは、①体系的な知識を効率的に学習するのには適さない、②参加者の知識や経験によって討議の内容が制限される、③技術の習得など、討議がなじまない学習課題がある、④学習効果が参加者の人数によって左右されてしまう、⑤雰囲気や人間関係がよくないと学習効果が下がる、という点がある。 | |
+ | この分類は、1970年代初頭の学習機会の実態を反映したものであり、学習方法の歴史的変遷のなかで理解されるべきものである。だがしかし、学習者の人数や、学習者同士の相互作用が学習者にとって重要な意味を持つことに変わりはなく、現在でも学習の方法をとらえる際の基本的な視点といえる。 | ||
== 社会教育でよく言われる「学習課題」 == | == 社会教育でよく言われる「学習課題」 == | ||
- | 社会教育では、学習者は自らの目的に合わせて何をどのように学習するのか、内容と方法を自己選択して学習を開始する。このとき、学習すべき課題のことを「学習課題」という。学習課題は「要求課題」と「必要課題」の二つに分類される。学習者が自ら学ぶことを希望する顕在的な課題のことを「要求課題」といい、家庭生活や職業生活に基づく課題や趣味的なものなど、「個人の要望」に基づいたテーマが多いとされている。顕在的なニーズに応える学習支援は、学習者からの表面的な支持を得やすく、参加者を多く集めることが可能である。一方の必要課題は学習者自身が要求しているのではないが、学習されることが学習者自身にとっても社会全体にとっても必要と思われる潜在的な課題のことであり、公共的な意味を持つ社会的課題・地域課題・現代的課題や、各人が人生の各時期に達成すべきとされる発達課題などに分類される。人権・男女共同参画社会・高齢化社会・まちづくりなど、どれも社会の存続にとって必要不可欠であり、社会全体で共通に取り組むべき課題である。 | + | 社会教育では、学習者は自らの目的に合わせて何をどのように学習するのか、内容と方法を自己選択して学習を開始する。このとき、学習すべき課題のことを「学習課題」という。学習課題は「要求課題」と「必要課題」の二つに分類される。 |
- | + | 学習者が自ら学ぶことを希望する顕在的な課題のことを「要求課題」といい、家庭生活や職業生活に基づく課題や趣味的なものなど、「個人の要望」に基づいたテーマが多いとされている。顕在的なニーズに応える学習支援は、学習者からの表面的な支持を得やすく、参加者を多く集めることが可能である。一方の必要課題は学習者自身が要求しているのではないが、学習されることが学習者自身にとっても社会全体にとっても必要と思われる潜在的な課題のことであり、公共的な意味を持つ社会的課題・地域課題・現代的課題や、各人が人生の各時期に達成すべきとされる発達課題などに分類される。人権・男女共同参画社会・高齢化社会・まちづくりなど、どれも社会の存続にとって必要不可欠であり、社会全体で共通に取り組むべき課題である。だが、こうした「社会の要請」に対応する学習内容は、必ずしも個人の興味・関心にそのまま合致するとは限らず、むしろ人気のない学習機会となることが多い。参加者の多寡を学級・講座の評価の1つの目安ととらえれば、参加者の集まりやすい要求課題に応える学習機会の提供が主流となっているのが現状である。 | |
- | + | しかし、学習機会を提供する側が留意するべきなのは、顕在化している「個人の要望」に応じた学習機会の提供さえしていれば、それだけで十分なのかという点と、「社会の要請」に基づくとはいえ、学習者が要求していない学習課題の設定が、学者の自主性・自発性の尊重と両立可能なのかという2つの点である。学習者は、自身の学習ニーズを本当に的確に認識できているのだろうか。学習ニーズを問われた学習者があげる学習ニーズとは、既知の内容に限定される。そこから、潜在的な課題の学習が始まる可能性は低い。だが、学習者の属性、個人的資質、ライフスタイルなどの学習者の状況をつかみ、「そうした状況で要請される社会の側の学習要求を踏まえつつ、学習者個々の学習同期を吟味することで学習課題ないし学習内容を創案し提示する」ことは、十分可能なのではないだろうか。学習者にとって未知のテーマを提示して学習に誘う工夫が、今以上になされ然るべきであろう。 | |
- | == 社会教育にかかわる施設 == | + | |
- | 有名どころでいうと図書館・博物館・美術館・文学館・科学館・動物園・水族館・植物園・公民館・公文書館などがある。また、これらの制度的な教育施設の他にも、学習塾や予備校、スポーツクラブやボーイスカウト、ガールスカウト、映画館、職場でのセミナー、行政や民間団体の行う市民講座、その他習い事なども広義の社会教育に含めることができる。特に学習塾や予備校については、文部科学省も「もうひとつ別の学校」として位置づけるようになってきている。 | + | |
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+ | == 生涯学習と社会教育 == | ||
+ | よく理解されないのが、生涯学習と社会教育の違いである。関係者の中には、同じようなものだというような討論をする人もいるが、両者はまったく異なる。 | ||
+ | 一方は学習、一方は教育。生涯学習とは、辞書的に言えば、生涯の様々な時期に行われる学習であり、自主的・自発的に行われるものというような性格づけがなされるものである。学習が分析的な概念として位置づけられるのに対し、生涯学習という言葉は、それに一定の価値が付与された概念であるといえる。生涯学習という言葉が広がったのは、1980年代中葉に設置された臨時教育審議会の答申後のことである。学歴社会の是正のために生涯教育という考え方を取り入れようとし、教育という語のもつ押しつけがましさをのぞき、学習者の自主性・自発性を強調するための言葉として「生涯学習」を用いた提言、すなわち生涯学習体系への移行、生涯学習社会の構築というような提言がなされたのである。その際、文部省社会教育局が生涯学習局に改変されるなどの、かなり乱暴な概念の濫用ということもあり、生涯学習と社会教育があたかも同じであるかのような前提での政策的な動きがみられた。生涯学習の支援の一環として社会教育がある、というような理解をしておけば、混乱は防げたのであろう。 | ||
+ | 日本経済のバブル期といわれる好況の時期に、生涯学習という言葉がもてはやされ、生きがいづくりや趣味・教養的な内容の学習、生涯という言葉から連想される増加しつつある高齢者の学習、というような意味で生涯学習という言葉のイメージが広がっていくということにもなったのである。生涯学習・生涯学習支援の内容の一部のみが、偏ったかたちで社会的に広がったと考えられるのである。それに便乗したとも思える社会教育関係者もいたし、深い原理的な省察とは無縁の皮相だけ気をひく発想や面白おかしい表現ができ、一般の人々や職員を「元気づける」ことができるが、時流に乗るだけで研究者の資質を持たない人が大学教員などとして、自治体や政府の施策遂行に影響力をもつような状況も出てきて、ますます社会教育は軽佻浮薄なものという見方が増幅されることもあった。 | ||
+ | さらに、もちろんそれでも社会教育は生涯学習支援を中心的に担うものとしての位置を形式的には与えられてはいたが、学校教育を中心的に担うものとしての位置を形式的には与えられてはいたが、学校教育を中心とした生涯学習政策が形式的には与えられたはいたが、学校教育を中心とした生涯学習政策が展開されていたとみるべきなのであろう。結局、社会教育はバブル経済の破綻以降、生涯学習に対する逆風をまともに受けるようなことになっているのである。社会教育が脚光を浴びたわけではなく、生涯学習が脚光を浴び、逆風を受けるときは社会教育も一緒に、というようなことなのである。社会教育のもっとも重要な部分は、まっとうな評価を受けないまま葬り去られようとしているかの動きもある。 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
社会教育の基礎ー転形期の社会教育を考えるー | 社会教育の基礎ー転形期の社会教育を考えるー | ||
著者/編集: 鈴木真理 出版社: 学文社 | 著者/編集: 鈴木真理 出版社: 学文社 |
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目次 |
社会教育とは
社会教育とは、学校以外の場で、青少年及び成人を対象として行われる組織的な教育活動。社会教育法第二条では、この法律において、「社会教育」とは、学校教育法 (昭和二十二年法律第二十六号)又は就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律 (平成十八年法律第七十七号)に基づき、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう。また、社会教育は各国特有のもので各々が教育という営みをどのように考えるかによって発展の仕方が違ってきた。それは歴史とも密接な関係があり、一種の文化とも言える。日本の社会教育体制は戦争の終わりを境にかなり異なっている。戦前は政府による国民教化であった。しかし、戦後は国民が自ら考え学習しようと思うようになった。学校教育は大人にとって義務であり、子供にとっては権利だからである。現代の学校はしっかりとしたカリキュラムが組まれているし、さらには期間までもが決められている。これは国民に対しとても親切なように見えるかもしれないが、見方を変えれば「強制」と捉えることもできる。もちろん国民は必要最低限の知識は持っていなければならない。しかし、社会教育とはそういったものではない。社会教育で最も大切なこと、それは「いつでも、どこでも、誰とでも、なんでも、自由に、無料で」学習ができることである。国民は誰でも学ぶ権利を持っていて、行政や自治体はその要求に応える必要がある。
社会教育における学習方法の分類
学習者の人数に注目して二つに分類された。複数の人が集まって行う学習(集合学習)と個人が一人で行う学習(個人学習)に分類される。そのうえ集合学習についてはさらに、講演会や映画会などの「希望者がそのつど自由に参加する集会的性格のもの」(集会学習)と、学級・講座やグループ・サークルなどの「参加者の集合が組織的であって、それ自体が教育的意義をもつ集団的性格のもの」(集団学習)とに分けられる。個人学習についても図書や放送などの「学習メディアを利用して行う学習」と、図書館や博物館などの「施設を利用して行う学習」とに分けられている。しかし、一般には人数に注目されているため、「個人学習」「集会学習」「集団学習」の3つに分類されることが多い。 「集会学習」と「集団学習」の違いについては、学習者同士の間に相互作用がみられるかどうかが重要な意味を持つ。つまり、集会学習においては多くの人が一同に会していても学習者の間に相互作用がみられないのに対し、集団学習では学習者の間に相互作用がみられ、さらに相互作用を通じた学習が期待されるという点に特徴がある。相互作用があることによって、①参加者の間の仲間意識を養うことができる、②学習意欲が継続しやすい、③1つの問題について多角的かつ合理的に考えることができる、④人間関係のなかで社会性や個性を養うことができる、⑤学習が態度や行動の変化に結びつきやすい、といったメリットが生じる。しかしデメリットもある。それは、①体系的な知識を効率的に学習するのには適さない、②参加者の知識や経験によって討議の内容が制限される、③技術の習得など、討議がなじまない学習課題がある、④学習効果が参加者の人数によって左右されてしまう、⑤雰囲気や人間関係がよくないと学習効果が下がる、という点がある。 この分類は、1970年代初頭の学習機会の実態を反映したものであり、学習方法の歴史的変遷のなかで理解されるべきものである。だがしかし、学習者の人数や、学習者同士の相互作用が学習者にとって重要な意味を持つことに変わりはなく、現在でも学習の方法をとらえる際の基本的な視点といえる。
社会教育でよく言われる「学習課題」
社会教育では、学習者は自らの目的に合わせて何をどのように学習するのか、内容と方法を自己選択して学習を開始する。このとき、学習すべき課題のことを「学習課題」という。学習課題は「要求課題」と「必要課題」の二つに分類される。 学習者が自ら学ぶことを希望する顕在的な課題のことを「要求課題」といい、家庭生活や職業生活に基づく課題や趣味的なものなど、「個人の要望」に基づいたテーマが多いとされている。顕在的なニーズに応える学習支援は、学習者からの表面的な支持を得やすく、参加者を多く集めることが可能である。一方の必要課題は学習者自身が要求しているのではないが、学習されることが学習者自身にとっても社会全体にとっても必要と思われる潜在的な課題のことであり、公共的な意味を持つ社会的課題・地域課題・現代的課題や、各人が人生の各時期に達成すべきとされる発達課題などに分類される。人権・男女共同参画社会・高齢化社会・まちづくりなど、どれも社会の存続にとって必要不可欠であり、社会全体で共通に取り組むべき課題である。だが、こうした「社会の要請」に対応する学習内容は、必ずしも個人の興味・関心にそのまま合致するとは限らず、むしろ人気のない学習機会となることが多い。参加者の多寡を学級・講座の評価の1つの目安ととらえれば、参加者の集まりやすい要求課題に応える学習機会の提供が主流となっているのが現状である。 しかし、学習機会を提供する側が留意するべきなのは、顕在化している「個人の要望」に応じた学習機会の提供さえしていれば、それだけで十分なのかという点と、「社会の要請」に基づくとはいえ、学習者が要求していない学習課題の設定が、学者の自主性・自発性の尊重と両立可能なのかという2つの点である。学習者は、自身の学習ニーズを本当に的確に認識できているのだろうか。学習ニーズを問われた学習者があげる学習ニーズとは、既知の内容に限定される。そこから、潜在的な課題の学習が始まる可能性は低い。だが、学習者の属性、個人的資質、ライフスタイルなどの学習者の状況をつかみ、「そうした状況で要請される社会の側の学習要求を踏まえつつ、学習者個々の学習同期を吟味することで学習課題ないし学習内容を創案し提示する」ことは、十分可能なのではないだろうか。学習者にとって未知のテーマを提示して学習に誘う工夫が、今以上になされ然るべきであろう。
生涯学習と社会教育
よく理解されないのが、生涯学習と社会教育の違いである。関係者の中には、同じようなものだというような討論をする人もいるが、両者はまったく異なる。 一方は学習、一方は教育。生涯学習とは、辞書的に言えば、生涯の様々な時期に行われる学習であり、自主的・自発的に行われるものというような性格づけがなされるものである。学習が分析的な概念として位置づけられるのに対し、生涯学習という言葉は、それに一定の価値が付与された概念であるといえる。生涯学習という言葉が広がったのは、1980年代中葉に設置された臨時教育審議会の答申後のことである。学歴社会の是正のために生涯教育という考え方を取り入れようとし、教育という語のもつ押しつけがましさをのぞき、学習者の自主性・自発性を強調するための言葉として「生涯学習」を用いた提言、すなわち生涯学習体系への移行、生涯学習社会の構築というような提言がなされたのである。その際、文部省社会教育局が生涯学習局に改変されるなどの、かなり乱暴な概念の濫用ということもあり、生涯学習と社会教育があたかも同じであるかのような前提での政策的な動きがみられた。生涯学習の支援の一環として社会教育がある、というような理解をしておけば、混乱は防げたのであろう。 日本経済のバブル期といわれる好況の時期に、生涯学習という言葉がもてはやされ、生きがいづくりや趣味・教養的な内容の学習、生涯という言葉から連想される増加しつつある高齢者の学習、というような意味で生涯学習という言葉のイメージが広がっていくということにもなったのである。生涯学習・生涯学習支援の内容の一部のみが、偏ったかたちで社会的に広がったと考えられるのである。それに便乗したとも思える社会教育関係者もいたし、深い原理的な省察とは無縁の皮相だけ気をひく発想や面白おかしい表現ができ、一般の人々や職員を「元気づける」ことができるが、時流に乗るだけで研究者の資質を持たない人が大学教員などとして、自治体や政府の施策遂行に影響力をもつような状況も出てきて、ますます社会教育は軽佻浮薄なものという見方が増幅されることもあった。 さらに、もちろんそれでも社会教育は生涯学習支援を中心的に担うものとしての位置を形式的には与えられてはいたが、学校教育を中心的に担うものとしての位置を形式的には与えられてはいたが、学校教育を中心とした生涯学習政策が形式的には与えられたはいたが、学校教育を中心とした生涯学習政策が展開されていたとみるべきなのであろう。結局、社会教育はバブル経済の破綻以降、生涯学習に対する逆風をまともに受けるようなことになっているのである。社会教育が脚光を浴びたわけではなく、生涯学習が脚光を浴び、逆風を受けるときは社会教育も一緒に、というようなことなのである。社会教育のもっとも重要な部分は、まっとうな評価を受けないまま葬り去られようとしているかの動きもある。
参考文献
社会教育の基礎ー転形期の社会教育を考えるー 著者/編集: 鈴木真理 出版社: 学文社