冷戦7

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==雪解け・多極化== ==雪解け・多極化==
-'''朝鮮休戦協定(1953)'''・'''ジュネーブ休戦協定(1954)'''を境に世界は'''雪解け'''へと向かった。'''スターリン'''死去後、ソ連党書記長となった'''フルシチョフ'''は1956年のソ連共産党第20回大会で'''スターリン'''の圧政を批判して平和共存を主張した。また、1954年には中国の'''周恩来'''とインドの'''ネルー'''の両首脳がチベットをめぐる交渉に臨み、国際関係の前提として'''平和5原則'''を発表した。この原則の主な内容は①領土保全と主権の相互尊重②相互不可侵③相互の内政不干渉④平等互恵⑤平和共存、となっている。この'''平和5原則'''は'''雪解け'''の機運をさらに高めるものとなった。しかし、1962年'''キューバ危機'''が起きた。まず、1959年ソ連に支援を受けていたカストロら革命派はアメリカに支援されていたバティスタ政権を打倒し、ラテンアメリカ最初の社会主義政権を樹立した。その後、革命により社会主義国となったキューバにソ連がミサイル基地を建設していることを確認した。当時のアメリカ大統領'''ケネディ'''は、海上封鎖を実行してミサイル搬入を阻止し、キューバからのミサイル攻撃に対しては、ソ連に報復するという強行手段に訴えて、ソ連の譲歩を引き出そうした。これが'''キューバ危機'''である。世界はアメリカ・ソ連の直接衝突による核戦争の恐怖にさらされた。結局、当時のソ連首相'''フルシチョフ'''がミサイル撤去の見返りに、'''ケネディ'''からキューバ不侵攻の約束をとりつけたため、世界戦争の危機は回避された。翌年、アメリカ・ソ連間に'''ホットライン(直通電話)'''が設置され、デタント(緊張緩和)が進んだ。また、この時期から多極化への動きも表れるようになり、多極化への動きもアメリカ・ソ連間の戦争の防止機能を果たした。まず、資本主義陣営では1966年フランスが独自の核開発を進め'''NATO軍事機構'''から脱退した。(2009年に全面復帰)日本やEC諸国も経済発展にともない、資本主義陣営内で独自性を高めるようになった。社会主義陣営では、ハンガリーで民衆による反政府運動'''ハンガリー事件'''が起き、1968年チェコスロバキアでは民主化を求める動き'''プラハの春(チェコ事件)'''が起きソ連を中心とする勢力に弾圧された。また、1950年代後半から'''中ソ対立(中ソ論争)'''が激しさを増し、1969年には武力衝突にまでいたった。このような多極化に対応するため、アメリカは世界の新秩序を模索した。'''ニクソン大統領の中国訪問'''、'''第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)'''の妥結、ベトナム和平協定の締結、アメリカ・中国の国交正常化など、デタントは確実に前進した。また、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジアやアフリカの諸国を中心に、資本主義陣営の軍事同盟にも社会主義陣営の軍事同盟にも参加せず、平和と安全を維持しようとする'''第三世界'''が台頭した。そして、1955年に'''アジア・アフリカ会議'''がインドネシアのバンドンで開催され、'''平和5原則'''を拡充した'''平和10原則'''が採択された。1960年には'''植民地付与宣言'''が採択され、アフリカの多くの国が国連に加盟した。この年は、'''アフリカの年'''と呼ばれた。+'''朝鮮休戦協定(1953)'''・'''ジュネーブ休戦協定(1954)'''を境に世界は'''雪解け'''へと向かった。'''スターリン'''死去後、ソ連党書記長となった'''フルシチョフ'''は1956年のソ連共産党第20回大会で'''スターリン'''の圧政を批判して平和共存を主張した。また、1954年には中国の'''周恩来'''とインドの'''ネルー'''の両首脳がチベットをめぐる交渉に臨み、国際関係の前提として'''平和5原則'''を発表した。この原則の主な内容は①領土保全と主権の相互尊重②相互不可侵③相互の内政不干渉④平等互恵⑤平和共存、となっている。この'''平和5原則'''は'''雪解け'''の機運をさらに高めるものとなった。しかし、1962年'''キューバ危機'''が起きた。まず、1959年ソ連に支援を受けていたカストロら革命派はアメリカに支援されていたバティスタ政権を打倒し、ラテンアメリカ最初の社会主義政権を樹立した。その後、革命により社会主義国となったキューバにソ連がミサイル基地を建設していることを確認した。当時のアメリカ大統領'''ケネディ'''は、海上封鎖を実行してミサイル搬入を阻止し、キューバからのミサイル攻撃に対しては、ソ連に報復するという強行手段に訴えて、ソ連の譲歩を引き出そうした。これが'''キューバ危機'''である。世界はアメリカ・ソ連の直接衝突による核戦争の恐怖にさらされた。結局、当時のソ連首相'''フルシチョフ'''がミサイル撤去の見返りに、'''ケネディ'''からキューバ不侵攻の約束をとりつけたため、世界戦争の危機は回避された。翌年、アメリカ・ソ連間に'''ホットライン(直通電話)'''が設置され、デタント(緊張緩和)が進んだ。また、この時期から多極化への動きも表れるようになり、多極化への動きもアメリカ・ソ連間の戦争の防止機能を果たした。まず、資本主義陣営では1966年フランスが独自の核開発を進め'''NATO軍事機構'''から脱退した。(2009年に全面復帰)日本やEC諸国も経済発展にともない、資本主義陣営内で独自性を高めるようになった。社会主義陣営では、ハンガリーで民衆による反政府運動'''ハンガリー事件'''が起き、1968年チェコスロバキアでは民主化を求める動き'''プラハの春(チェコ事件)'''が起きソ連を中心とする勢力に弾圧された。また、1950年代後半から'''中ソ対立(中ソ論争)'''が激しさを増し、1969年には武力衝突にまでいたった。このような多極化に対応するため、アメリカは世界の新秩序を模索した。'''ニクソン大統領の中国訪問'''、'''第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)'''の妥結、ベトナム和平協定の締結、アメリカ・中国の国交正常化など、デタントは確実に前進した。また、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジアやアフリカの諸国を中心に、資本主義陣営の軍事同盟にも社会主義陣営の軍事同盟にも参加せず、平和と安全を維持しようとする'''第三世界'''が台頭した。そして、1955年に'''アジア・アフリカ会議'''がインドネシアのバンドンで開催され、'''平和5原則'''を拡充した'''平和10原則'''が採択された。1960年には'''植民地付与宣言'''が採択され、アフリカの多くの国が国連に加盟した。この年は、'''アフリカの年'''と呼ばれた。また、翌年1961年、'''第一回非同盟諸国首脳会議'''がユーゴスラビアで開かれ、資本主義陣営、社会主義陣営どちらの軍事同盟にも参加しない非同盟の立場を明確にした。なお、これら発展途上国の要求で、1964年以降、深刻化する南北問題の解決のために'''国連貿易開発会議(UNCTAD)'''が開かれている。また、途上国における'''資源ナショナリズム'''の高まりが、第4次中東戦争における石油戦略の発動や、国際連合での新国際経済秩序樹立の宣言などにも示された。
==多極化== ==多極化==

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目次

概要

第二次大戦後、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営側とソビエト連邦を盟主とする社会主義陣営側で支配権の拡大をめぐる対立生じた。この対立は軍事衝突には至らなかったので「冷戦」(Cold war)と名付けられた。 冷戦は1945年の米英ソ首脳によるヤルタ会談から1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で終焉宣言がされるまで続いた。

冷戦構造の形成

1946イギリス首相チャーチル鉄のカーテン演説をしたのを機にアメリカを中心とした資本主義陣営が反共産主義体制を露わにしていった。その後、両陣営で政治面・経済面・軍事面で対立構造を形成していった。資本主義陣営は政治的政策として、1947年アメリカ大統領トルーマンは資本主義化を条件に経済援助を行うトルーマンドクトリンを行った。経済面では、1947年'アメリカ国務長官マーシャルが欧州の経済的復興と自立をアメリカが財政的に支援する計画マーシャルプラン(欧州復興計画)を提唱。援助の受け入れ機関として欧州にOEEC(欧州経済協力機構)が設立された。(後のOECD(経済協力開発機構))軍事面では、1949年に集団防衛機構である北大西洋条約機構(NATO)を結成した。社会主義陣営は、1949に共産党の連携強化と情報交換を目的にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を結成した。経済面では、マーシャルプラン(欧州復興計画)に対抗するため1949年にCOMECON(経済相互援助会議)を結成し、経済協力関係の強化を図った。軍事面では、西ドイツのNATO(北大西洋条約機構)加盟などが背景となって、1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、NATO(北大西洋条約機構)に対抗した。また、冷戦期、東西対立を背景に起こった紛争がいくつかある。①ベルリン危機:1948年、戦犯国ドイツの首都ベルリンの管理をめぐって対立し、翌1949年、東・西ドイツに分断した。②朝鮮戦争1950年から1953年まで続き、1950年6月に北朝鮮軍が南北を分裂していた北緯38度線を越えて猛烈に進撃したことから、軍事衝突が始まり、韓国軍は圧倒され後退を続けた。北朝鮮に社会主義陣営であるソ連・中国が、韓国にアメリカが支援を行ったことから東西の代理戦争と呼ばれた。1953年の休戦協定により、戦闘は停止したが、民族分断の悲劇は現在も続いている。③インドシナ戦争1946年から7年間、旧フランス領インドシナの独立をめぐって、ベトナム民主共和国とフランスの間で行われた戦争。1954年、北緯17度線を暫定境界線とするジュネーブ協定が成立し、フランスは撤退した。②③の戦争は朝鮮休戦協定(1953)ジュネーブ休戦協定(1954)により終結した。

雪解け・多極化

朝鮮休戦協定(1953)ジュネーブ休戦協定(1954)を境に世界は雪解けへと向かった。スターリン死去後、ソ連党書記長となったフルシチョフは1956年のソ連共産党第20回大会でスターリンの圧政を批判して平和共存を主張した。また、1954年には中国の周恩来とインドのネルーの両首脳がチベットをめぐる交渉に臨み、国際関係の前提として平和5原則を発表した。この原則の主な内容は①領土保全と主権の相互尊重②相互不可侵③相互の内政不干渉④平等互恵⑤平和共存、となっている。この平和5原則雪解けの機運をさらに高めるものとなった。しかし、1962年キューバ危機が起きた。まず、1959年ソ連に支援を受けていたカストロら革命派はアメリカに支援されていたバティスタ政権を打倒し、ラテンアメリカ最初の社会主義政権を樹立した。その後、革命により社会主義国となったキューバにソ連がミサイル基地を建設していることを確認した。当時のアメリカ大統領ケネディは、海上封鎖を実行してミサイル搬入を阻止し、キューバからのミサイル攻撃に対しては、ソ連に報復するという強行手段に訴えて、ソ連の譲歩を引き出そうした。これがキューバ危機である。世界はアメリカ・ソ連の直接衝突による核戦争の恐怖にさらされた。結局、当時のソ連首相フルシチョフがミサイル撤去の見返りに、ケネディからキューバ不侵攻の約束をとりつけたため、世界戦争の危機は回避された。翌年、アメリカ・ソ連間にホットライン(直通電話)が設置され、デタント(緊張緩和)が進んだ。また、この時期から多極化への動きも表れるようになり、多極化への動きもアメリカ・ソ連間の戦争の防止機能を果たした。まず、資本主義陣営では1966年フランスが独自の核開発を進めNATO軍事機構から脱退した。(2009年に全面復帰)日本やEC諸国も経済発展にともない、資本主義陣営内で独自性を高めるようになった。社会主義陣営では、ハンガリーで民衆による反政府運動ハンガリー事件が起き、1968年チェコスロバキアでは民主化を求める動きプラハの春(チェコ事件)が起きソ連を中心とする勢力に弾圧された。また、1950年代後半から中ソ対立(中ソ論争)が激しさを増し、1969年には武力衝突にまでいたった。このような多極化に対応するため、アメリカは世界の新秩序を模索した。ニクソン大統領の中国訪問第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)の妥結、ベトナム和平協定の締結、アメリカ・中国の国交正常化など、デタントは確実に前進した。また、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジアやアフリカの諸国を中心に、資本主義陣営の軍事同盟にも社会主義陣営の軍事同盟にも参加せず、平和と安全を維持しようとする第三世界が台頭した。そして、1955年にアジア・アフリカ会議がインドネシアのバンドンで開催され、平和5原則を拡充した平和10原則が採択された。1960年には植民地付与宣言が採択され、アフリカの多くの国が国連に加盟した。この年は、アフリカの年と呼ばれた。また、翌年1961年、第一回非同盟諸国首脳会議がユーゴスラビアで開かれ、資本主義陣営、社会主義陣営どちらの軍事同盟にも参加しない非同盟の立場を明確にした。なお、これら発展途上国の要求で、1964年以降、深刻化する南北問題の解決のために国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれている。また、途上国における資源ナショナリズムの高まりが、第4次中東戦争における石油戦略の発動や、国際連合での新国際経済秩序樹立の宣言などにも示された。

多極化

1950年代から、両陣営内で米ソから離反する動きが著しくなり多極化が進んだ。資本主義陣営では1996年アメリカ主導のNATO(北大西洋条約機構)のあり方に反発して、フランスNATO(北大西洋条約機構)の軍事同盟から脱退した。社会主義陣営ではスターリン批判以後表面化した中ソ対立が、1969年には国境での武力衝突に至った.東欧でも、ユーゴスラビアコミンフォルム除名や各国で反ソ連暴動が相次いだ。

冷戦の終結

1985年、ソ連に東西イデオロギー対立の枠にとらわれない新思考外交と、ヨーロッパは1つの家だとする欧州共通の家構造を掲げたゴルバチョフ政権が誕生し、米ソ間で包括軍縮交渉が開始された。そして、1989年の米ソ首脳会談(マルタ会談)で、ついに冷戦終焉宣言(マルタ宣言)が出され冷戦の終結が確認された。1990年には前年末のベルリンの壁崩壊に続き、東西ドイツの統一も実現した。

参考文献

浜島書店 「最新図説 政経」2015年2月4日印刷


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