冷戦7
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第二次大戦後、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営側とソビエト連邦を盟主とする社会主義陣営側で支配権の拡大をめぐる対立生じた。この対立は軍事衝突には至らなかったので「冷戦」(Cold war)と名付けられた。 | 第二次大戦後、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営側とソビエト連邦を盟主とする社会主義陣営側で支配権の拡大をめぐる対立生じた。この対立は軍事衝突には至らなかったので「冷戦」(Cold war)と名付けられた。 | ||
- | 冷戦は1945年の米英ソ首脳によるヤルタ会談から1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で終焉宣言がされるまで続いた。 | + | 冷戦は1945年の米英ソ首脳による'''ヤルタ会談'''から1989年の米ソ首脳による'''マルタ会談'''で終焉宣言がされるまで続いた。 |
==冷戦構造の形成== | ==冷戦構造の形成== | ||
- | 1946イギリス首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説をしたのを機にアメリカを中心とした資本主義陣営が反共産主義体制を露わにしていった。その後、両陣営で政治面・経済面・軍事面で対立構造を形成していった。資本主義陣営は、資本主義化を条件に経済援助を行う―トルーマンドクトリン- | + | 1946イギリス首相'''チャーチル'''が'''鉄のカーテン演説'''をしたのを機にアメリカを中心とした資本主義陣営が反共産主義体制を露わにしていった。その後、両陣営で政治面・経済面・軍事面で対立構造を形成していった。資本主義陣営は政治的政策として、1947年アメリカ大統領トルーマンは資本主義化を条件に経済援助を行う'''トルーマンドクトリン'''を行った。経済面では、1947年'アメリカ国務長官'''マーシャル'''が欧州の経済的復興と自立をアメリカが財政的に支援する計画'''マーシャルプラン(欧州復興計画)'''を提唱。援助の受け入れ機関として欧州に'''OEEC(欧州経済協力機構)'''が設立された。(後の'''OECD(経済協力開発機構)''')軍事面では、1949年に集団防衛機構である'''北大西洋条約機構(NATO)'''を結成した。社会主義陣営は、1949に共産党の連携強化と情報交換を目的に'''コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)'''を結成した。経済面では、'''マーシャルプラン(欧州復興計画)'''に対抗するため1949年に'''COMECON(経済相互援助会議)'''を結成し、経済協力関係の強化を図った。軍事面では、西ドイツの'''NATO(北大西洋条約機構)'''加盟などが背景となって、1955年に'''ワルシャワ条約機構(WTO)'''を結成し、'''NATO(北大西洋条約機構)'''に対抗した。また、冷戦期、東西対立を背景に起こった紛争がいくつかある。①'''ベルリン危機''':1948年、戦犯国ドイツの首都ベルリンの管理をめぐって対立し、翌1949年、東・西ドイツに分断した。②'''朝鮮戦争''':1950年から1953年まで続き、1950年6月に北朝鮮軍が南北を分裂していた北緯38度線を越えて猛烈に進撃したことから、軍事衝突が始まり、韓国軍は圧倒され後退を続けた。北朝鮮に社会主義陣営であるソ連・中国が、韓国にアメリカが支援を行ったことから'''東西の代理戦争'''と呼ばれた。1953年の休戦協定により、戦闘は停止したが、民族分断の悲劇は現在も続いている。③'''インドシナ戦争''':1946年から7年間、旧フランス領インドシナの独立をめぐって、ベトナム民主共和国とフランスの間で行われた戦争。1954年、北緯17度線を暫定境界線とする'''ジュネーブ協定'''が成立し、フランスは撤退した。②③の戦争は'''朝鮮休戦協定(1953)'''・'''ジュネーブ休戦協定(1954)'''により終結した。 |
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+ | ==雪解け・多極化== | ||
+ | '''朝鮮休戦協定(1953)'''・'''ジュネーブ休戦協定(1954)'''を境に世界は'''雪解け'''へと向かった。'''スターリン'''死去後、ソ連党書記長となった'''フルシチョフ'''は1956年のソ連共産党第20回大会で'''スターリン'''の圧政を批判して平和共存を主張した。また、1954年には中国の'''周恩来'''とインドの'''ネルー'''の両首脳がチベットをめぐる交渉に臨み、国際関係の前提として'''平和5原則'''を発表した。この原則の主な内容は①領土保全と主権の相互尊重②相互不可侵③相互の内政不干渉④平等互恵⑤平和共存、となっている。この'''平和5原則'''は'''雪解け'''の機運をさらに高めるものとなった。しかし、1962年'''キューバ危機'''が起きた。まず、1959年ソ連に支援を受けていたカストロら革命派はアメリカに支援されていたバティスタ政権を打倒し、ラテンアメリカ最初の社会主義政権を樹立した。その後、革命により社会主義国となったキューバにソ連がミサイル基地を建設していることを確認した。当時のアメリカ大統領'''ケネディ'''は、海上封鎖を実行してミサイル搬入を阻止し、キューバからのミサイル攻撃に対しては、ソ連に報復するという強行手段に訴えて、ソ連の譲歩を引き出そうした。これが'''キューバ危機'''である。世界はアメリカ・ソ連の直接衝突による核戦争の恐怖にさらされた。結局、当時のソ連首相'''フルシチョフ'''がミサイル撤去の見返りに、'''ケネディ'''からキューバ不侵攻の約束をとりつけたため、世界戦争の危機は回避された。翌年、アメリカ・ソ連間に'''ホットライン(直通電話)'''が設置され、デタント(緊張緩和)が進んだ。また、この時期から多極化への動きも表れるようになり、多極化への動きもアメリカ・ソ連間の戦争の防止機能を果たした。まず、資本主義陣営では1966年フランスが独自の核開発を進め'''NATO軍事機構'''から脱退した。(2009年に全面復帰)日本やEC諸国も経済発展にともない、資本主義陣営内で独自性を高めるようになった。社会主義陣営では、ハンガリーで民衆による反政府運動'''ハンガリー事件'''が起き、1968年チェコスロバキアでは民主化を求める動き'''プラハの春(チェコ事件)'''が起きソ連を中心とする勢力に弾圧された。また、1950年代後半から'''中ソ対立(中ソ論争)'''が激しさを増し、1969年には武力衝突にまでいたった。このような多極化に対応するため、アメリカは世界の新秩序を模索した。'''ニクソン大統領の中国訪問'''、'''第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)'''の妥結、ベトナム和平協定の締結、アメリカ・中国の国交正常化など、デタントは確実に前進した。また、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジアやアフリカの諸国を中心に、資本主義陣営の軍事同盟にも社会主義陣営の軍事同盟にも参加せず、平和と安全を維持しようとする'''第三世界'''が台頭した。そして、1955年に'''アジア・アフリカ会議'''がインドネシアのバンドンで開催され、'''平和5原則'''を拡充した'''平和10原則'''が採択された。1960年には'''植民地付与宣言'''が採択され、アフリカの多くの国が国連に加盟した。この年は、'''アフリカの年'''と呼ばれた。また、翌年1961年、'''第一回非同盟諸国首脳会議'''がユーゴスラビアで開かれ、資本主義陣営、社会主義陣営どちらの軍事同盟にも参加しない非同盟の立場を明確にした。なお、これら発展途上国の要求で、1964年以降、深刻化する南北問題の解決のために'''国連貿易開発会議(UNCTAD)'''が開かれている。また、途上国における'''資源ナショナリズム'''の高まりが、第4次中東戦争における石油戦略の発動や、国際連合での新国際経済秩序樹立の宣言などにも示された。 | ||
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+ | ==冷戦の終結== | ||
+ | 1985年にソ連共産党書記長(のち最高会議議長)に就任した'''ゴルバチョフ'''は、停滞した社会主義経済を立て直すため、'''ペレストロイカ'''を推進した。これによって、外資の導入と経済の効率化・活性化を目指したが、極端な物不足と激しいインフレを引き起こした。経済の立て直しには失敗したがこれと並行して行われた'''グラスノスチ(情報公開)'''、東西イデオロギー枠にとらわれない'''新思考外交(軍縮・他国への介入の停止)'''によって、政治・外交面で著しく改革が進んだ。この影響をは1987年にアメリカ・ソ連'''INF(中距離核戦力)全廃条約'''が調印、1990年に'''CSCE(欧州安全保障会議)'''で'''CFE(欧州通常戦略)条約'''と'''パリ憲章(パリ不戦宣言)'''が採択、1991年に社会主義陣営の軍事同盟であった、'''ワルシャワ条約機構(WTO)'''を解体し、'''NATO(北太平洋条約機構)'''との対立が終了、戦略核(長距離大型核兵器)削減を目指す'''START(戦略兵器削減条約)'''が成立するなどの形となって表れた。そして、1989年米ソ首脳会談では'''ブッシュ(父)大統領'''と'''ゴルバチョフ最高会議議長'''が、東欧の改革支持やドイツの統一問題などをめぐり合意、ついに'''冷戦終焉宣言(マルタ宣言)'''が出され、翌年の1990年には前年末の'''ベルリンの壁'''崩壊に続き、分断していた東西ドイツの統一が実現した。また、1991年の8月政変はソ連共産党解体と社会主義の放棄をもたらし、同年末にはソ連自体が解体した。連邦を構成していたロシアなど15共和国は、市場経済体制への移行をはかったが、今なお多くの課題をかかええいる。 | ||
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+ | ==参考文献== | ||
+ | 浜島書店 「最新図説 政経」2015年2月4日印刷 |
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目次 |
概要
第二次大戦後、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営側とソビエト連邦を盟主とする社会主義陣営側で支配権の拡大をめぐる対立生じた。この対立は軍事衝突には至らなかったので「冷戦」(Cold war)と名付けられた。 冷戦は1945年の米英ソ首脳によるヤルタ会談から1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で終焉宣言がされるまで続いた。
冷戦構造の形成
1946イギリス首相チャーチルが鉄のカーテン演説をしたのを機にアメリカを中心とした資本主義陣営が反共産主義体制を露わにしていった。その後、両陣営で政治面・経済面・軍事面で対立構造を形成していった。資本主義陣営は政治的政策として、1947年アメリカ大統領トルーマンは資本主義化を条件に経済援助を行うトルーマンドクトリンを行った。経済面では、1947年'アメリカ国務長官マーシャルが欧州の経済的復興と自立をアメリカが財政的に支援する計画マーシャルプラン(欧州復興計画)を提唱。援助の受け入れ機関として欧州にOEEC(欧州経済協力機構)が設立された。(後のOECD(経済協力開発機構))軍事面では、1949年に集団防衛機構である北大西洋条約機構(NATO)を結成した。社会主義陣営は、1949に共産党の連携強化と情報交換を目的にコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を結成した。経済面では、マーシャルプラン(欧州復興計画)に対抗するため1949年にCOMECON(経済相互援助会議)を結成し、経済協力関係の強化を図った。軍事面では、西ドイツのNATO(北大西洋条約機構)加盟などが背景となって、1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、NATO(北大西洋条約機構)に対抗した。また、冷戦期、東西対立を背景に起こった紛争がいくつかある。①ベルリン危機:1948年、戦犯国ドイツの首都ベルリンの管理をめぐって対立し、翌1949年、東・西ドイツに分断した。②朝鮮戦争:1950年から1953年まで続き、1950年6月に北朝鮮軍が南北を分裂していた北緯38度線を越えて猛烈に進撃したことから、軍事衝突が始まり、韓国軍は圧倒され後退を続けた。北朝鮮に社会主義陣営であるソ連・中国が、韓国にアメリカが支援を行ったことから東西の代理戦争と呼ばれた。1953年の休戦協定により、戦闘は停止したが、民族分断の悲劇は現在も続いている。③インドシナ戦争:1946年から7年間、旧フランス領インドシナの独立をめぐって、ベトナム民主共和国とフランスの間で行われた戦争。1954年、北緯17度線を暫定境界線とするジュネーブ協定が成立し、フランスは撤退した。②③の戦争は朝鮮休戦協定(1953)・ジュネーブ休戦協定(1954)により終結した。
雪解け・多極化
朝鮮休戦協定(1953)・ジュネーブ休戦協定(1954)を境に世界は雪解けへと向かった。スターリン死去後、ソ連党書記長となったフルシチョフは1956年のソ連共産党第20回大会でスターリンの圧政を批判して平和共存を主張した。また、1954年には中国の周恩来とインドのネルーの両首脳がチベットをめぐる交渉に臨み、国際関係の前提として平和5原則を発表した。この原則の主な内容は①領土保全と主権の相互尊重②相互不可侵③相互の内政不干渉④平等互恵⑤平和共存、となっている。この平和5原則は雪解けの機運をさらに高めるものとなった。しかし、1962年キューバ危機が起きた。まず、1959年ソ連に支援を受けていたカストロら革命派はアメリカに支援されていたバティスタ政権を打倒し、ラテンアメリカ最初の社会主義政権を樹立した。その後、革命により社会主義国となったキューバにソ連がミサイル基地を建設していることを確認した。当時のアメリカ大統領ケネディは、海上封鎖を実行してミサイル搬入を阻止し、キューバからのミサイル攻撃に対しては、ソ連に報復するという強行手段に訴えて、ソ連の譲歩を引き出そうした。これがキューバ危機である。世界はアメリカ・ソ連の直接衝突による核戦争の恐怖にさらされた。結局、当時のソ連首相フルシチョフがミサイル撤去の見返りに、ケネディからキューバ不侵攻の約束をとりつけたため、世界戦争の危機は回避された。翌年、アメリカ・ソ連間にホットライン(直通電話)が設置され、デタント(緊張緩和)が進んだ。また、この時期から多極化への動きも表れるようになり、多極化への動きもアメリカ・ソ連間の戦争の防止機能を果たした。まず、資本主義陣営では1966年フランスが独自の核開発を進めNATO軍事機構から脱退した。(2009年に全面復帰)日本やEC諸国も経済発展にともない、資本主義陣営内で独自性を高めるようになった。社会主義陣営では、ハンガリーで民衆による反政府運動ハンガリー事件が起き、1968年チェコスロバキアでは民主化を求める動きプラハの春(チェコ事件)が起きソ連を中心とする勢力に弾圧された。また、1950年代後半から中ソ対立(中ソ論争)が激しさを増し、1969年には武力衝突にまでいたった。このような多極化に対応するため、アメリカは世界の新秩序を模索した。ニクソン大統領の中国訪問、第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)の妥結、ベトナム和平協定の締結、アメリカ・中国の国交正常化など、デタントは確実に前進した。また、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジアやアフリカの諸国を中心に、資本主義陣営の軍事同盟にも社会主義陣営の軍事同盟にも参加せず、平和と安全を維持しようとする第三世界が台頭した。そして、1955年にアジア・アフリカ会議がインドネシアのバンドンで開催され、平和5原則を拡充した平和10原則が採択された。1960年には植民地付与宣言が採択され、アフリカの多くの国が国連に加盟した。この年は、アフリカの年と呼ばれた。また、翌年1961年、第一回非同盟諸国首脳会議がユーゴスラビアで開かれ、資本主義陣営、社会主義陣営どちらの軍事同盟にも参加しない非同盟の立場を明確にした。なお、これら発展途上国の要求で、1964年以降、深刻化する南北問題の解決のために国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれている。また、途上国における資源ナショナリズムの高まりが、第4次中東戦争における石油戦略の発動や、国際連合での新国際経済秩序樹立の宣言などにも示された。
冷戦の終結
1985年にソ連共産党書記長(のち最高会議議長)に就任したゴルバチョフは、停滞した社会主義経済を立て直すため、ペレストロイカを推進した。これによって、外資の導入と経済の効率化・活性化を目指したが、極端な物不足と激しいインフレを引き起こした。経済の立て直しには失敗したがこれと並行して行われたグラスノスチ(情報公開)、東西イデオロギー枠にとらわれない新思考外交(軍縮・他国への介入の停止)によって、政治・外交面で著しく改革が進んだ。この影響をは1987年にアメリカ・ソ連INF(中距離核戦力)全廃条約が調印、1990年にCSCE(欧州安全保障会議)でCFE(欧州通常戦略)条約とパリ憲章(パリ不戦宣言)が採択、1991年に社会主義陣営の軍事同盟であった、ワルシャワ条約機構(WTO)を解体し、NATO(北太平洋条約機構)との対立が終了、戦略核(長距離大型核兵器)削減を目指すSTART(戦略兵器削減条約)が成立するなどの形となって表れた。そして、1989年米ソ首脳会談ではブッシュ(父)大統領とゴルバチョフ最高会議議長が、東欧の改革支持やドイツの統一問題などをめぐり合意、ついに冷戦終焉宣言(マルタ宣言)が出され、翌年の1990年には前年末のベルリンの壁崩壊に続き、分断していた東西ドイツの統一が実現した。また、1991年の8月政変はソ連共産党解体と社会主義の放棄をもたらし、同年末にはソ連自体が解体した。連邦を構成していたロシアなど15共和国は、市場経済体制への移行をはかったが、今なお多くの課題をかかええいる。
参考文献
浜島書店 「最新図説 政経」2015年2月4日印刷