ポストマ事件3
出典: Jinkawiki
2008年7月19日 (土) 19:01の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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1971年、オランダ最北フリースラント州の小都市オストステリングベルフで起きた安楽死事件。オランダの安楽死合法化運動の発端となった。 | 1971年、オランダ最北フリースラント州の小都市オストステリングベルフで起きた安楽死事件。オランダの安楽死合法化運動の発端となった。 | ||
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事件の主人公は、この地で開業するヘルトルイダ・ポストマ女医。脳溢血のため半身マヒ状態であった78歳の母親に請われ、200ミリグラムのモルヒネを注射して安楽死させた。 | 事件の主人公は、この地で開業するヘルトルイダ・ポストマ女医。脳溢血のため半身マヒ状態であった78歳の母親に請われ、200ミリグラムのモルヒネを注射して安楽死させた。 | ||
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母の求めに対し、ポストマ医師は最初は「犯罪だから」と断った。母は絶望から何度もベッドから落ちて自殺を試み、病室に運ばれた食事を床に投げ落して看護を拒んだ。女医は死を求める母の姿にいたたまれなくなり、決意をした。母親が入居していた看護ホームが女医の行動を見て「母親でも殺人は許されない」として告発し、女医は嘱託殺人で起訴された。 | 母の求めに対し、ポストマ医師は最初は「犯罪だから」と断った。母は絶望から何度もベッドから落ちて自殺を試み、病室に運ばれた食事を床に投げ落して看護を拒んだ。女医は死を求める母の姿にいたたまれなくなり、決意をした。母親が入居していた看護ホームが女医の行動を見て「母親でも殺人は許されない」として告発し、女医は嘱託殺人で起訴された。 | ||
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しかし裁判は意外な展開をたどった。女医に日頃世話になっていた村人たちが裁判の行われたレーウワールデン地裁の前で女医の救護運動を行った。女医の無罪を訴え2000もの署名を集めた村人の姿は新聞やテレビで大きく報じられた。やがて女医と同様に患者に請われて安楽死を行ったと告白する医師や、安楽死容認を訴える法律家も出現した。その結果、裁判は一気に「安楽死の是非」を問う国民論議に発展してしまった。 | しかし裁判は意外な展開をたどった。女医に日頃世話になっていた村人たちが裁判の行われたレーウワールデン地裁の前で女医の救護運動を行った。女医の無罪を訴え2000もの署名を集めた村人の姿は新聞やテレビで大きく報じられた。やがて女医と同様に患者に請われて安楽死を行ったと告白する医師や、安楽死容認を訴える法律家も出現した。その結果、裁判は一気に「安楽死の是非」を問う国民論議に発展してしまった。 | ||
裁判は2年を要した。1973年、レーウワールデン地裁判決は、患者の死期を早めても患者の苦痛をとるための鎮痛剤投与は容認されるという立場を示し、その要件として | 裁判は2年を要した。1973年、レーウワールデン地裁判決は、患者の死期を早めても患者の苦痛をとるための鎮痛剤投与は容認されるという立場を示し、その要件として | ||
①患者は不治の病にある | ①患者は不治の病にある | ||
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②耐えがたい苦痛がある | ②耐えがたい苦痛がある | ||
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③患者は死にたいと希望している | ③患者は死にたいと希望している | ||
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④実施するのは医師で、他の医師と相談した | ④実施するのは医師で、他の医師と相談した | ||
の4つを示した。ポストマ医師は患者を即死させる致死量のモルヒネを使ったことがとがめられ、1年間の執行猶予付き禁固一週間という「形式刑」が下った。 | の4つを示した。ポストマ医師は患者を即死させる致死量のモルヒネを使ったことがとがめられ、1年間の執行猶予付き禁固一週間という「形式刑」が下った。 | ||
秘密裏に行われていた安楽死に「違法だが理解可能」というお墨付きを与えたのである。このポストマ裁判の反響は一過性に終わらなかった。女医の救援運動は医師や弁護士も加わって、安楽死合法化を求める市民運動へと変わっていった。 | 秘密裏に行われていた安楽死に「違法だが理解可能」というお墨付きを与えたのである。このポストマ裁判の反響は一過性に終わらなかった。女医の救援運動は医師や弁護士も加わって、安楽死合法化を求める市民運動へと変わっていった。 |
最新版
1971年、オランダ最北フリースラント州の小都市オストステリングベルフで起きた安楽死事件。オランダの安楽死合法化運動の発端となった。
事件の主人公は、この地で開業するヘルトルイダ・ポストマ女医。脳溢血のため半身マヒ状態であった78歳の母親に請われ、200ミリグラムのモルヒネを注射して安楽死させた。
母の求めに対し、ポストマ医師は最初は「犯罪だから」と断った。母は絶望から何度もベッドから落ちて自殺を試み、病室に運ばれた食事を床に投げ落して看護を拒んだ。女医は死を求める母の姿にいたたまれなくなり、決意をした。母親が入居していた看護ホームが女医の行動を見て「母親でも殺人は許されない」として告発し、女医は嘱託殺人で起訴された。
しかし裁判は意外な展開をたどった。女医に日頃世話になっていた村人たちが裁判の行われたレーウワールデン地裁の前で女医の救護運動を行った。女医の無罪を訴え2000もの署名を集めた村人の姿は新聞やテレビで大きく報じられた。やがて女医と同様に患者に請われて安楽死を行ったと告白する医師や、安楽死容認を訴える法律家も出現した。その結果、裁判は一気に「安楽死の是非」を問う国民論議に発展してしまった。 裁判は2年を要した。1973年、レーウワールデン地裁判決は、患者の死期を早めても患者の苦痛をとるための鎮痛剤投与は容認されるという立場を示し、その要件として
①患者は不治の病にある
②耐えがたい苦痛がある
③患者は死にたいと希望している
④実施するのは医師で、他の医師と相談した
の4つを示した。ポストマ医師は患者を即死させる致死量のモルヒネを使ったことがとがめられ、1年間の執行猶予付き禁固一週間という「形式刑」が下った。 秘密裏に行われていた安楽死に「違法だが理解可能」というお墨付きを与えたのである。このポストマ裁判の反響は一過性に終わらなかった。女医の救援運動は医師や弁護士も加わって、安楽死合法化を求める市民運動へと変わっていった。