第二次世界大戦10
出典: Jinkawiki
2016年7月30日 (土) 22:36の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) (→参考文献) ← 前の差分へ |
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1939年9月1日ドイツがポーランド侵攻を開始すると9月3日にフランス・イギリスがドイツに宣戦布告し、これが第二次世界大戦の始まりとなった。当初日本は不介入の方針をとっていたが、のちに太平洋戦争を引き起こすなど、この戦争に深入りしていくことになる。太平洋戦争を経て、戦争は終結に向かっていく。ドイツ降伏後1945年の8月6日の広島、同月9日の長崎への原子爆弾投下を経験し唯一の被爆国となった日本は昭和天皇の「英断」によりポツダム宣言を受諾し、約6年にわたる戦争は幕を閉じた。 | 1939年9月1日ドイツがポーランド侵攻を開始すると9月3日にフランス・イギリスがドイツに宣戦布告し、これが第二次世界大戦の始まりとなった。当初日本は不介入の方針をとっていたが、のちに太平洋戦争を引き起こすなど、この戦争に深入りしていくことになる。太平洋戦争を経て、戦争は終結に向かっていく。ドイツ降伏後1945年の8月6日の広島、同月9日の長崎への原子爆弾投下を経験し唯一の被爆国となった日本は昭和天皇の「英断」によりポツダム宣言を受諾し、約6年にわたる戦争は幕を閉じた。 | ||
- | ===開戦までの経緯=== | + | =開戦までの経緯= |
- | 第一次世界大戦終結後から維持してきたヴェルサイユ・ワシントン体制と呼ばれる秩序の維持には、世界経済が好調で規模も拡大していること、平和維持の価値が広く認められていることが必要であった。しかし、1929年の世界恐慌を皮切りに、大戦後の世界秩序の崩壊の兆しがみえ始めた。そんな中、ドイツは全体主義体制(ナチズム)を樹立し、ヴェルサイユ体制の打破を唱え、1933年に国際連盟から脱退し、禁止されていた再武装に踏み切った。1938年には、オーストリアを併合してさらにチェコスロヴァキアにも侵略の手を伸ばした。ドイツとソ連は利害の一致から、独ソ不可侵条約を結び、これより世界はポーランド侵攻や第一次世界大戦へと向かっていく。 | + | ドイツは第一次世界大戦終結後、自国の領土を没収され、多額の賠償金の支払いに追われていた。第一次世界大戦終結後から維持してきたヴェルサイユ・ワシントン体制と呼ばれる秩序の維持には、世界経済が好調で規模も拡大していること、平和維持の価値が広く認められていることが必要であった。しかし、1929年にアメリカから端を発した世界恐慌が発生すると、アメリカのニューディール政策により、輸出品に高い関税をかけられてしまうなど、ドイツの経済状況はさらに悪化し、大戦後の世界秩序の崩壊の兆しがみえ始めた。そんな中、ドイツは全体主義体制(ナチズム)を樹立し、ヒトラーが独裁政治によって軍事力を強化し、海外進出を狙うというファシズムという考えに走っていき、ヴェルサイユ体制の打破を唱え、1933年に国際連盟から脱退し、禁止されていた再武装に踏み切った。1937年にはヒトラーが東方に拡大政策をとることを宣言し、その翌年には、オーストリアを併合してさらにチェコスロヴァキアにも侵略の手を伸ばした。しかし、チェコスロバキアはフランス・イギリスの後ろ盾を期待し拒絶した。これの解決策として、イタリア仲介のもとチェコスロバキア不在で会議を開き(ミュンヘン会議)、これ以上戦争を起こすまいとしたイギリス・フランス両国はドイツの要求どおり、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することを決定した。ドイツはそれだけで満足せず、第一次世界大戦敗戦時にバルト海への出口を欲しがっていたポーランドにドイツ領土を分断するようにしてポーランド回廊という地域をとられていた。このポーランド回廊を横断する陸上交通路とその回廊の先端にある港、ダンチヒを返せと要求する。しかし、ポーランドがこれを拒否すると、ドイツ・ポーランド間の緊張状態が続き、戦争の危機となっていく。世界恐慌の際、同じく苦しい状況であったイタリアもムッソリーニがファシズムを展開し、先ほどのドイツの台頭に後押しされるような形でアルバニアを併合し、領地拡大政策に乗り出していく。ドイツとソ連は利害の一致から、独ソ不可侵条約を結び、これにより、ドイツはポーランド侵攻を開始する。イギリス・フランスはポーランドとの約束をもとにドイツに宣戦布告し、ヨーロッパ、ないしは世界は第二次世界大戦へと歩みを進めることとなった。 |
- | ===第二次世界大戦中の日本=== | + | =第二次世界大戦の経過= |
- | 当初不介入の立場をとっていた日本だったが、日中戦争への軍需産業用の資材を求めるが、日本とその植民地で形成されていた「円ブロック」では到底足りず、欧米からの輸入に頼っている状況だった。第二次世界大戦の勃発により、日本はイギリスの対アジア政策の軟化を受け、「大東亜新秩序」の形成に乗り出すと、これに反発したアメリカとの対立が深まった。日本陸軍内では当時ヨーロッパ内で優勢であったドイツとの関係を強化したうえで「大東亜共栄圏」の建設をうたい欧米の植民地である南方への進出を主張する声が高まった。アメリカとの戦争回避への交渉と進める日本国内でも交渉の妥結を強く希望する近衛首相と交渉打ち切り・開戦をする主張する東条陸軍大臣が対立していたが、ついに陸軍が英領マレー半島、海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が開戦した。 | + | 1939年9月1日ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まったが、イギリス・フランス両軍はドイツに宣戦布告したものの、ドイツを積極的に攻めるという姿勢を見せなかった。ドイツ軍は2週間足らずでポーランド軍主力を撃破した。独ソ不可侵条約を結んでいたソ連も、ロシア民族保護の名目で突如ポーランドを侵攻しはじめ、東はソ連、西はドイツの支配体制が確立した。ドイツはその後も1940年4月にデンマークを占領、ノルウェーに侵攻を開始し、翌月にはオランダ、ベルギーに侵攻、6月にはフランスまでも降伏させてしまう。イギリスではノルウェーでの失敗の責任を取って、チェンバレン内閣が倒れ、対独強硬論者チャーチルがその後を継いだ。フランスを手中に収めたドイツは、中立の立場をとる国を除いてヨーロッパに残る最後の国となったイギリスとの戦いとなる。当時長期化する日中戦争に苦戦する日本もヨーロッパ情勢を知り、同盟を結ぶ。それがのちの日独伊三国軍事同盟である。しかし、イギリスに対してこれまで中立であったアメリカが武器の援助などを開始したためイギリスは強い後ろ盾を得ることとなった。イギリス本土をなかなか落とすことができなくなったドイツは、石油資源を狙い独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻しはじめたが一時はモスクワまで迫るものの猛烈な寒さとソ連の反撃にあい、苦戦を強いられることとなった。同じファシズム思想のムッソリーニが指導者であるイタリアもフランス陥落直前に参戦を表明していたが、ドイツの衰退と同時に衰退しイタリア本土にアメリカ・イギリス連合軍に上陸された。 |
- | ===第二次世界大戦の終焉=== | ||
- | 1941年に日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告したのと同時にドイツ・イタリアも宣戦布告するが、ドイツがソ連に攻め込んだスターリングラード攻防戦が始まる。ドイツがソ連に敗北すると、勢いを失ったドイツに対して連合国軍の反撃が始まる。1943年にイタリアを無条件降伏させると、翌年にパリを解放させた。そのままの勢いで1945年5月にソ連がベルリンを占領すると、ドイツも無条件降伏させた。残った日本も1942年のミッドウェー海戦を機に失速し、サイパン島の陥落を機に絶対国防圏は崩れ、本土空襲も激しくなった。1945年の東京大空襲や沖縄本土決戦では、未曾有の被害を生み出してしまった。原爆投下後の1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告し、同月15日正午に昭和天皇が自らラジオ放送を通じて全国民に戦争の終結を発表した。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して4年にわたる太平洋戦争は終了した。 | ||
+ | =第二次世界大戦中の日本= | ||
+ | 当初不介入の立場をとっていた日本だったが、日中戦争への軍需産業用の資材を求めるが、日本とその植民地で形成されていた「円ブロック」では到底足りず、欧米からの輸入に頼っている状況だった。第二次世界大戦が引き起こされたことにより、日本はイギリスの対アジア政策の軟化を受け、「大東亜新秩序」の形成に乗り出すと、これに反発したアメリカとの対立が深まった。また、日本は当時「満州国」の建国などで国際的に孤立しており、勢いに乗るドイツの流れに乗ろうとして1940年ドイツと同じようにファシズム体制が確立していたイタリアも含めた三国で「日独伊三国軍事同盟」を結ぶ。日本陸軍内では当時ヨーロッパ内で優勢であったドイツとの関係を強化したうえで「大東亜共栄圏」の建設をうたい欧米の植民地である南方への進出を主張する声が高まった。しかしこの軍事同盟は遠方の国と結んでいたこともあり、実質的な効果はなく、かえってイギリスを支援するアメリカとの関係悪化を招いてしまった。アメリカとの戦争回避への交渉と進める日本国内でも交渉の妥結を強く希望する近衛首相と交渉打ち切り・開戦をする主張する東条陸軍大臣が対立していた。1941年11月アメリカ国務長官ハルは日本に中国からの撤兵、日独伊三国軍事同盟の廃棄、中国の満州を満州事変以前の状態に戻すことなどを条件が組み込まれた「ハルノート」えお日本側に提示したが、日本側はそれを受け入れず、1941年10月に首相に就任していた東条英機はついにアメリカへの攻撃を決定し、陸軍が英領マレー半島、海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が開戦した。開戦後、日本はドイツと同様に怒涛の勢いで太平洋上の島々を占領していく。1942年1月にマニラ、同年2月にはシンガポール、同年3月にはジャワ島を占領した。しかし、1942年のミッドウェー海戦で空母4隻、航空機300機、多数の熟練パイロットを失う大敗を期すると勢いも一気に失われ、戦局は一転していくことになる。資源が乏しい日本にとって長期戦は勝ち目の少ない戦いを強いられることとなった。1943年2月にはガダルカナル島撤退、同年6月マリアナ沖海戦、同年11月にはマキン、タラワ両島の守備隊が全滅するなど全盛期にはアジア広域をしはいしていたがその支配域は縮小をたどる一方だった。国内政策としては、女子挺身隊の結成、防空法による疎開などを行っていた。1944年7月のサイパン島陥落ののち同年10月レイテ島にアメリカ軍がレイテ島に上陸すると、神風特攻隊が登場する。しかし、戦局は悪化する一方で、1944年には東京大空襲を経験し、1945年3月には太平洋戦争上最も最悪の被害者数を生み出してしまった、沖縄戦が始まる。沖縄戦には兵力不足を補うために、多くの学生も動員されたが、日本の防衛軍が約12万人に対してアメリカ軍の兵員は54万8000人ほどおり上陸兵は18万人であったが、日本は一般人も交えていたのもありその兵力差は明らかであった。3月26日にアメリカ軍により慶良間島への激しい空爆、砲撃を開始し、同月29日には慶良間列島全域がアメリカ軍に占領された。4月1日にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、その日のうちに嘉手納、読谷の飛行場を手中に収めその後3日間で中部を制圧し、沖縄は南部に分断された。このとき日本は主力部隊の2部隊を失い、作戦を持久戦へと変更せざる負えなくなった。しかし、同月20日には南部で持久戦を展開していたために中北部がアメリカに占領される。アメリカの本土上陸から20日後余りしか経過していない。少し戻って同月16日には、北西海上に浮かぶ伊江島の飛行場を占領すべくアメリカ軍が攻撃を開始し、それに日本軍が激しく応戦する。日本は住民を含め4700人あまりが戦死するが、アメリカ側の死者・行方不明者は218人、負傷者は902人。人数で比較する問題ではないが兵器や兵力の差がその数字を物語っている。4月21日までには伊江島全島がアメリカにより占領された。対する南部では激しい抵抗を見せ、戦局を長引かせるが、それは沖縄戦敗戦までの期間を長引かせたに過ぎなかった。同年5月31日には持久戦を展開していた首里であったが兵力の大半を失い、日本軍は南下しはじめる。首里はアメリカ軍によって占領された。6月18日には日本軍が従軍看護のひめゆり部隊に解散命令を出すが、突如戦場に放り出された彼女たちになす術はなく、集団自決に追い込まれてしまった。6月23日には牛島満司令官と長勇参謀長官が自決し」、事実上の組織的戦闘が終了した。7月2日にアメリカ軍により、終結宣言が出され、約4か月にわたる沖縄戦はようやく終了を迎えた。この太平洋戦争における沖縄戦の目的は、県民の命を守るためではなく、アメリカ軍の本土上陸を遅らせるためのものであったといわれている。日本人の死者数は約19万人であった。このように守りに徹した日本だが、アメリカ軍の猛攻に屈し、硫黄島陥落、沖縄戦敗戦という結果に終わり、太平洋戦争、第二次世界大戦は終結に向かっていく。 | ||
+ | =第二次世界大戦の終焉= | ||
+ | 1941年に日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告したのと同時にドイツ・イタリアも宣戦布告する。独ソ戦、また、第二次世界大戦最大ともいわれるスターリングラードの戦いにドイツが敗れると今まで優勢であったドイツがついに敗走に転じた。勢いを失ったドイツに対して連合軍の反撃が始まる。1944年6月には連合軍が西からドイツ軍を粉砕し、8月にはパリを解放させた。1945年5月にはソ連がドイツのベルリンを占領する。追い込まれたヒトラーが自殺すると、1945年5月にドイツは無条件降伏を受け入れた。イタリアも本土がアメリカ・イギリス軍に上陸されると、ムッソリーニは失脚する。1943年9月にイタリアも無条件降伏を受け入れることとなる。残った日本も東京大空襲や沖縄戦をはじめとする各地の戦闘で未曾有の被害を生み出してしまった。1945年8月6日には広島にウラニウム235、9日には長崎にはプルトニウム239と呼ばれる原子爆弾が投下され、1945年までに広島では約12万人、長崎では7万人に上る死者数を出した。(3~5年後には広島二十数万人、長崎十数万人に上る)原爆投下後の1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告し、同月15日正午に昭和天皇が自らラジオ放送を通じて全国民に戦争の終結を発表した。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して4年にわたる太平洋戦争、またドイツのポーランド侵攻を端に勃発した第二次世界大戦は終了した。 | ||
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『グローバルワイド最新世界史図表新版初訂』 編著者:第一学習社編集部 | 『グローバルワイド最新世界史図表新版初訂』 編著者:第一学習社編集部 | ||
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+ | 『歴史年代ゴロ合わせ暗記』 参照日 8月4日 http://www12.plala.or.jp/rekisi/dainijisekaitaisen.html |
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目次 |
概要
1939年9月1日ドイツがポーランド侵攻を開始すると9月3日にフランス・イギリスがドイツに宣戦布告し、これが第二次世界大戦の始まりとなった。当初日本は不介入の方針をとっていたが、のちに太平洋戦争を引き起こすなど、この戦争に深入りしていくことになる。太平洋戦争を経て、戦争は終結に向かっていく。ドイツ降伏後1945年の8月6日の広島、同月9日の長崎への原子爆弾投下を経験し唯一の被爆国となった日本は昭和天皇の「英断」によりポツダム宣言を受諾し、約6年にわたる戦争は幕を閉じた。
開戦までの経緯
ドイツは第一次世界大戦終結後、自国の領土を没収され、多額の賠償金の支払いに追われていた。第一次世界大戦終結後から維持してきたヴェルサイユ・ワシントン体制と呼ばれる秩序の維持には、世界経済が好調で規模も拡大していること、平和維持の価値が広く認められていることが必要であった。しかし、1929年にアメリカから端を発した世界恐慌が発生すると、アメリカのニューディール政策により、輸出品に高い関税をかけられてしまうなど、ドイツの経済状況はさらに悪化し、大戦後の世界秩序の崩壊の兆しがみえ始めた。そんな中、ドイツは全体主義体制(ナチズム)を樹立し、ヒトラーが独裁政治によって軍事力を強化し、海外進出を狙うというファシズムという考えに走っていき、ヴェルサイユ体制の打破を唱え、1933年に国際連盟から脱退し、禁止されていた再武装に踏み切った。1937年にはヒトラーが東方に拡大政策をとることを宣言し、その翌年には、オーストリアを併合してさらにチェコスロヴァキアにも侵略の手を伸ばした。しかし、チェコスロバキアはフランス・イギリスの後ろ盾を期待し拒絶した。これの解決策として、イタリア仲介のもとチェコスロバキア不在で会議を開き(ミュンヘン会議)、これ以上戦争を起こすまいとしたイギリス・フランス両国はドイツの要求どおり、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することを決定した。ドイツはそれだけで満足せず、第一次世界大戦敗戦時にバルト海への出口を欲しがっていたポーランドにドイツ領土を分断するようにしてポーランド回廊という地域をとられていた。このポーランド回廊を横断する陸上交通路とその回廊の先端にある港、ダンチヒを返せと要求する。しかし、ポーランドがこれを拒否すると、ドイツ・ポーランド間の緊張状態が続き、戦争の危機となっていく。世界恐慌の際、同じく苦しい状況であったイタリアもムッソリーニがファシズムを展開し、先ほどのドイツの台頭に後押しされるような形でアルバニアを併合し、領地拡大政策に乗り出していく。ドイツとソ連は利害の一致から、独ソ不可侵条約を結び、これにより、ドイツはポーランド侵攻を開始する。イギリス・フランスはポーランドとの約束をもとにドイツに宣戦布告し、ヨーロッパ、ないしは世界は第二次世界大戦へと歩みを進めることとなった。
第二次世界大戦の経過
1939年9月1日ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まったが、イギリス・フランス両軍はドイツに宣戦布告したものの、ドイツを積極的に攻めるという姿勢を見せなかった。ドイツ軍は2週間足らずでポーランド軍主力を撃破した。独ソ不可侵条約を結んでいたソ連も、ロシア民族保護の名目で突如ポーランドを侵攻しはじめ、東はソ連、西はドイツの支配体制が確立した。ドイツはその後も1940年4月にデンマークを占領、ノルウェーに侵攻を開始し、翌月にはオランダ、ベルギーに侵攻、6月にはフランスまでも降伏させてしまう。イギリスではノルウェーでの失敗の責任を取って、チェンバレン内閣が倒れ、対独強硬論者チャーチルがその後を継いだ。フランスを手中に収めたドイツは、中立の立場をとる国を除いてヨーロッパに残る最後の国となったイギリスとの戦いとなる。当時長期化する日中戦争に苦戦する日本もヨーロッパ情勢を知り、同盟を結ぶ。それがのちの日独伊三国軍事同盟である。しかし、イギリスに対してこれまで中立であったアメリカが武器の援助などを開始したためイギリスは強い後ろ盾を得ることとなった。イギリス本土をなかなか落とすことができなくなったドイツは、石油資源を狙い独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻しはじめたが一時はモスクワまで迫るものの猛烈な寒さとソ連の反撃にあい、苦戦を強いられることとなった。同じファシズム思想のムッソリーニが指導者であるイタリアもフランス陥落直前に参戦を表明していたが、ドイツの衰退と同時に衰退しイタリア本土にアメリカ・イギリス連合軍に上陸された。
第二次世界大戦中の日本
当初不介入の立場をとっていた日本だったが、日中戦争への軍需産業用の資材を求めるが、日本とその植民地で形成されていた「円ブロック」では到底足りず、欧米からの輸入に頼っている状況だった。第二次世界大戦が引き起こされたことにより、日本はイギリスの対アジア政策の軟化を受け、「大東亜新秩序」の形成に乗り出すと、これに反発したアメリカとの対立が深まった。また、日本は当時「満州国」の建国などで国際的に孤立しており、勢いに乗るドイツの流れに乗ろうとして1940年ドイツと同じようにファシズム体制が確立していたイタリアも含めた三国で「日独伊三国軍事同盟」を結ぶ。日本陸軍内では当時ヨーロッパ内で優勢であったドイツとの関係を強化したうえで「大東亜共栄圏」の建設をうたい欧米の植民地である南方への進出を主張する声が高まった。しかしこの軍事同盟は遠方の国と結んでいたこともあり、実質的な効果はなく、かえってイギリスを支援するアメリカとの関係悪化を招いてしまった。アメリカとの戦争回避への交渉と進める日本国内でも交渉の妥結を強く希望する近衛首相と交渉打ち切り・開戦をする主張する東条陸軍大臣が対立していた。1941年11月アメリカ国務長官ハルは日本に中国からの撤兵、日独伊三国軍事同盟の廃棄、中国の満州を満州事変以前の状態に戻すことなどを条件が組み込まれた「ハルノート」えお日本側に提示したが、日本側はそれを受け入れず、1941年10月に首相に就任していた東条英機はついにアメリカへの攻撃を決定し、陸軍が英領マレー半島、海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が開戦した。開戦後、日本はドイツと同様に怒涛の勢いで太平洋上の島々を占領していく。1942年1月にマニラ、同年2月にはシンガポール、同年3月にはジャワ島を占領した。しかし、1942年のミッドウェー海戦で空母4隻、航空機300機、多数の熟練パイロットを失う大敗を期すると勢いも一気に失われ、戦局は一転していくことになる。資源が乏しい日本にとって長期戦は勝ち目の少ない戦いを強いられることとなった。1943年2月にはガダルカナル島撤退、同年6月マリアナ沖海戦、同年11月にはマキン、タラワ両島の守備隊が全滅するなど全盛期にはアジア広域をしはいしていたがその支配域は縮小をたどる一方だった。国内政策としては、女子挺身隊の結成、防空法による疎開などを行っていた。1944年7月のサイパン島陥落ののち同年10月レイテ島にアメリカ軍がレイテ島に上陸すると、神風特攻隊が登場する。しかし、戦局は悪化する一方で、1944年には東京大空襲を経験し、1945年3月には太平洋戦争上最も最悪の被害者数を生み出してしまった、沖縄戦が始まる。沖縄戦には兵力不足を補うために、多くの学生も動員されたが、日本の防衛軍が約12万人に対してアメリカ軍の兵員は54万8000人ほどおり上陸兵は18万人であったが、日本は一般人も交えていたのもありその兵力差は明らかであった。3月26日にアメリカ軍により慶良間島への激しい空爆、砲撃を開始し、同月29日には慶良間列島全域がアメリカ軍に占領された。4月1日にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、その日のうちに嘉手納、読谷の飛行場を手中に収めその後3日間で中部を制圧し、沖縄は南部に分断された。このとき日本は主力部隊の2部隊を失い、作戦を持久戦へと変更せざる負えなくなった。しかし、同月20日には南部で持久戦を展開していたために中北部がアメリカに占領される。アメリカの本土上陸から20日後余りしか経過していない。少し戻って同月16日には、北西海上に浮かぶ伊江島の飛行場を占領すべくアメリカ軍が攻撃を開始し、それに日本軍が激しく応戦する。日本は住民を含め4700人あまりが戦死するが、アメリカ側の死者・行方不明者は218人、負傷者は902人。人数で比較する問題ではないが兵器や兵力の差がその数字を物語っている。4月21日までには伊江島全島がアメリカにより占領された。対する南部では激しい抵抗を見せ、戦局を長引かせるが、それは沖縄戦敗戦までの期間を長引かせたに過ぎなかった。同年5月31日には持久戦を展開していた首里であったが兵力の大半を失い、日本軍は南下しはじめる。首里はアメリカ軍によって占領された。6月18日には日本軍が従軍看護のひめゆり部隊に解散命令を出すが、突如戦場に放り出された彼女たちになす術はなく、集団自決に追い込まれてしまった。6月23日には牛島満司令官と長勇参謀長官が自決し」、事実上の組織的戦闘が終了した。7月2日にアメリカ軍により、終結宣言が出され、約4か月にわたる沖縄戦はようやく終了を迎えた。この太平洋戦争における沖縄戦の目的は、県民の命を守るためではなく、アメリカ軍の本土上陸を遅らせるためのものであったといわれている。日本人の死者数は約19万人であった。このように守りに徹した日本だが、アメリカ軍の猛攻に屈し、硫黄島陥落、沖縄戦敗戦という結果に終わり、太平洋戦争、第二次世界大戦は終結に向かっていく。
第二次世界大戦の終焉
1941年に日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告したのと同時にドイツ・イタリアも宣戦布告する。独ソ戦、また、第二次世界大戦最大ともいわれるスターリングラードの戦いにドイツが敗れると今まで優勢であったドイツがついに敗走に転じた。勢いを失ったドイツに対して連合軍の反撃が始まる。1944年6月には連合軍が西からドイツ軍を粉砕し、8月にはパリを解放させた。1945年5月にはソ連がドイツのベルリンを占領する。追い込まれたヒトラーが自殺すると、1945年5月にドイツは無条件降伏を受け入れた。イタリアも本土がアメリカ・イギリス軍に上陸されると、ムッソリーニは失脚する。1943年9月にイタリアも無条件降伏を受け入れることとなる。残った日本も東京大空襲や沖縄戦をはじめとする各地の戦闘で未曾有の被害を生み出してしまった。1945年8月6日には広島にウラニウム235、9日には長崎にはプルトニウム239と呼ばれる原子爆弾が投下され、1945年までに広島では約12万人、長崎では7万人に上る死者数を出した。(3~5年後には広島二十数万人、長崎十数万人に上る)原爆投下後の1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告し、同月15日正午に昭和天皇が自らラジオ放送を通じて全国民に戦争の終結を発表した。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して4年にわたる太平洋戦争、またドイツのポーランド侵攻を端に勃発した第二次世界大戦は終了した。
参考文献
『詳説日本史』 編著者:笹山晴生、佐藤信、五味文彦、高埜利彦
『新詳日本史 地図 資料 年表』 編著者:浜島書店編集部
『グローバルワイド最新世界史図表新版初訂』 編著者:第一学習社編集部
『歴史年代ゴロ合わせ暗記』 参照日 8月4日 http://www12.plala.or.jp/rekisi/dainijisekaitaisen.html