第二次世界大戦11
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- | == 1開戦の発火点 == | + | == 概要 == |
- | 世界大戦の発火点として、1931年の満州事変が大きなきっかけとなった。この時代は、世界各地がニューヨークのウォール街ではじまった世界恐慌の影響を受け、社会の激しい動揺に陥っていた。そんな中、1931年9月18日、満州で日本の関東軍が柳条湖近くの南満州鉄道線を爆破しておきながら、それを中国側の行ったこととして軍事行動を開始した。この時、世界は恐慌への対処に追われ、東アジア情勢の変化に積極的に介入する余裕がなく、この満州事変に際して日本の行動は局地的なものに終わると見て、日本に対して宥和的な姿勢をとった。こうして、後に第二次世界大戦につながることとなる満州事変は、侵略国日本にとって好都合な国際環境の中で、徐々に中国侵略を拡大していったのである。しかし、最初の頃は宥和的な姿勢を示していた世界各国であったが、その後の日中戦争の勃発時には、特にアメリカ・イギリスは日本の行動に対し反発の意思を強め、それを契機として日本は次第にナチス・ドイツへ接近していった。 | + | 世界恐慌後、日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国陣営と他方におけるイギリス・アメリカ・ソ連を中心とする連合国陣営の間で起こった全世界規模の戦争。世界大戦の発火点は、1939年のドイツによるポーランド侵入。当初は戦争に対して消極的であった日本だが、マレー半島への上陸や真珠湾攻撃を経て、1941年12月11日、枢軸国三国がアメリカに対して宣戦布告し、翌日12日に太平洋戦争がはじまった。これが、世界へ一気に戦争の風潮を広げ、後に全世界を巻き込む大戦となった。開戦直後は枢軸国優勢とされていたが、徐々に逆転し、1943年スターリングラードの戦いでのドイツの大敗以降、43年9月にイタリア、45年5月にドイツ、8月に日本は広島・長崎への原爆投下を受けた末、無条件降伏というかたちで第二次世界大戦は終結した。この戦争による死者数は、飢饉や病気で亡くなった人も含めると、枢軸国側は約1320万人、連合国側は約4360万人、その他のアジア・太平洋各国は約912万人、合計で約6592万人にも及んだといわれている。 |
- | == 2世界大戦への道 == | + | == 世界大戦の展開から終結 == |
+ | '''日本軍の進撃''' | ||
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+ | 開戦直後、優勢な戦局を見せたのは日本であった。特に、東アジアでの日本軍の進撃は速やかで、マレー半島を席巻した後、1942年2月15日にはシンガポールの占領に成功した。シンガポールは、アジア・太平洋地域におけるイギリスの軍事的中心地であったため、イギリスに対し大きな衝撃を与えた。これにより勢いのついた日本は東南アジアにおけるイギリス領ビルマへも急速に侵攻し、同年3月8日にラングーンを占領した。さらにはオランダ支配下のインドネシアやアメリカ支配下のフィリピンへも軍事侵攻を行い、オランダ・アメリカ側を降伏させるなど、それまでヨーロッパの植民地であった東南アジアは日本の支配地域へと変貌した。 | ||
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+ | '''連合軍の戦略''' | ||
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+ | アジアでの日本軍の大勝利は、連合国側に大きな危機感を与えた。しかし、連合国の軍事戦略の要点はヨーロッパでの戦争におかれ、まず第一にドイツを降伏させることを目標としていたのである。そのためには、ソ連の対独戦争の継続が鍵になると考えていた。独ソ間の戦争では、戦争指導の面でも、戦争のための軍需品生産などの面でも、ソ連側が優位に立った。ドイツは兵器の大量生産を軽視していたが、ソ連は戦車などの大量生産に成功し、一方戦争指導の面でも、独ソ戦の開始時には戦争指導者としての資質が疑われたスターリンは、その後専門家の助言によく耳を傾け、ヒトラーが迷走を重ねたのに比べて優れた資質をみせた。こうした環境のもとで、1943年3月2日、ソ連軍はスターリングラードの戦いにおいてドイツに勝利し、これ以降、ヨーロッパでは連合国側が押し気味に戦争を遂行していくこととなった。 | ||
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+ | '''戦局の転換点''' | ||
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+ | 開戦直後の速やかな大勝利で自信をつけた日本軍は、南太平洋に向けた大規模作戦を始めたものの、42年6月のミッドウェー海戦でアメリカ側に大敗北し、さらに42年8月から43年2月にかけてのソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる戦いでも大きな損害を被った。この二つの戦いにおける日本軍の敗北が、第二次世界大戦のアジア・太平洋局面における転換点となり、以降、連合国側が優勢になっていった。 | ||
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+ | '''枢軸国の降伏''' | ||
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+ | 1943年9月、イタリアは、連合国軍のシチリア上陸作戦に直面し、内部から崩壊するかたちで降伏した。その後、ヨーロッパの戦争においてもアジア太平洋の戦争においても、連合国側が主導権を握り、45年5月にドイツ、8月に日本が無条件に降伏した。これにより、全世界を巻き込み歴史史上最も多数の死者を出した第二次世界大戦は終結した。 | ||
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+ | == 世界大戦の性格 == | ||
+ | 戦争の責任の所在については、枢軸国、すなわちファシズム諸国といわれる日本・イタリア・ドイツの三国側にある。この国々による能動的な侵略によって戦争が引き起こされ、その侵略に対抗する側が、連合国としてもう一方の陣営をつくり、戦いが世界に拡大していった。したがって、この大戦の基本的な性格は、ファシズム諸国(枢軸国)と反ファシズム諸国(連合国)との間の戦争、つまり反ファシズム戦争というものである。しかし、それに尽きることはなく、他にも帝国主義国家間の戦争、さらに反ファシズム戦争と帝国主義国家間の戦争とは反対の考えとなるファシズムや帝国主義からの民族解放戦争といった様々な性格を複合的に持ち合わせていた。 | ||
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+ | == 国際連合の発足 == | ||
+ | 戦後、ファシズム諸国と反ファシズム諸国、さらにその間に存在する民族解放を実現しようとする勢力では、様々な動きがあった。その中で、民族解放を望む人々の多くの試みの展開により、大戦後、脱植民地化の動きが急速に進んでいった。一方で、連合国側を中心として、国際連合創設に向けての取り組みが積極的に行われた。国際連盟が第一次世界大戦後に急速につくられたのに対し、国際連合は大戦中に周到に準備された。また、国際連盟には参加していなかったアメリカが国際連合の主導権を握っていたことも大きな特徴である。アメリカでは、戦前より政府内部でも民間レベルでも新たな国際組織についての検討が始められていたが、参戦後にその動きは活発化し、戦局が転換して連合国側の勝利が見えてきたころには急速に進展、何度も議論を重ね1945年10月に発足した。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
+ | 木畑洋一(2001)『第二次世界大戦 現代世界への転換点』吉川弘文館 |
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目次 |
概要
世界恐慌後、日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国陣営と他方におけるイギリス・アメリカ・ソ連を中心とする連合国陣営の間で起こった全世界規模の戦争。世界大戦の発火点は、1939年のドイツによるポーランド侵入。当初は戦争に対して消極的であった日本だが、マレー半島への上陸や真珠湾攻撃を経て、1941年12月11日、枢軸国三国がアメリカに対して宣戦布告し、翌日12日に太平洋戦争がはじまった。これが、世界へ一気に戦争の風潮を広げ、後に全世界を巻き込む大戦となった。開戦直後は枢軸国優勢とされていたが、徐々に逆転し、1943年スターリングラードの戦いでのドイツの大敗以降、43年9月にイタリア、45年5月にドイツ、8月に日本は広島・長崎への原爆投下を受けた末、無条件降伏というかたちで第二次世界大戦は終結した。この戦争による死者数は、飢饉や病気で亡くなった人も含めると、枢軸国側は約1320万人、連合国側は約4360万人、その他のアジア・太平洋各国は約912万人、合計で約6592万人にも及んだといわれている。
世界大戦の展開から終結
日本軍の進撃
開戦直後、優勢な戦局を見せたのは日本であった。特に、東アジアでの日本軍の進撃は速やかで、マレー半島を席巻した後、1942年2月15日にはシンガポールの占領に成功した。シンガポールは、アジア・太平洋地域におけるイギリスの軍事的中心地であったため、イギリスに対し大きな衝撃を与えた。これにより勢いのついた日本は東南アジアにおけるイギリス領ビルマへも急速に侵攻し、同年3月8日にラングーンを占領した。さらにはオランダ支配下のインドネシアやアメリカ支配下のフィリピンへも軍事侵攻を行い、オランダ・アメリカ側を降伏させるなど、それまでヨーロッパの植民地であった東南アジアは日本の支配地域へと変貌した。
連合軍の戦略
アジアでの日本軍の大勝利は、連合国側に大きな危機感を与えた。しかし、連合国の軍事戦略の要点はヨーロッパでの戦争におかれ、まず第一にドイツを降伏させることを目標としていたのである。そのためには、ソ連の対独戦争の継続が鍵になると考えていた。独ソ間の戦争では、戦争指導の面でも、戦争のための軍需品生産などの面でも、ソ連側が優位に立った。ドイツは兵器の大量生産を軽視していたが、ソ連は戦車などの大量生産に成功し、一方戦争指導の面でも、独ソ戦の開始時には戦争指導者としての資質が疑われたスターリンは、その後専門家の助言によく耳を傾け、ヒトラーが迷走を重ねたのに比べて優れた資質をみせた。こうした環境のもとで、1943年3月2日、ソ連軍はスターリングラードの戦いにおいてドイツに勝利し、これ以降、ヨーロッパでは連合国側が押し気味に戦争を遂行していくこととなった。
戦局の転換点
開戦直後の速やかな大勝利で自信をつけた日本軍は、南太平洋に向けた大規模作戦を始めたものの、42年6月のミッドウェー海戦でアメリカ側に大敗北し、さらに42年8月から43年2月にかけてのソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる戦いでも大きな損害を被った。この二つの戦いにおける日本軍の敗北が、第二次世界大戦のアジア・太平洋局面における転換点となり、以降、連合国側が優勢になっていった。
枢軸国の降伏
1943年9月、イタリアは、連合国軍のシチリア上陸作戦に直面し、内部から崩壊するかたちで降伏した。その後、ヨーロッパの戦争においてもアジア太平洋の戦争においても、連合国側が主導権を握り、45年5月にドイツ、8月に日本が無条件に降伏した。これにより、全世界を巻き込み歴史史上最も多数の死者を出した第二次世界大戦は終結した。
世界大戦の性格
戦争の責任の所在については、枢軸国、すなわちファシズム諸国といわれる日本・イタリア・ドイツの三国側にある。この国々による能動的な侵略によって戦争が引き起こされ、その侵略に対抗する側が、連合国としてもう一方の陣営をつくり、戦いが世界に拡大していった。したがって、この大戦の基本的な性格は、ファシズム諸国(枢軸国)と反ファシズム諸国(連合国)との間の戦争、つまり反ファシズム戦争というものである。しかし、それに尽きることはなく、他にも帝国主義国家間の戦争、さらに反ファシズム戦争と帝国主義国家間の戦争とは反対の考えとなるファシズムや帝国主義からの民族解放戦争といった様々な性格を複合的に持ち合わせていた。
国際連合の発足
戦後、ファシズム諸国と反ファシズム諸国、さらにその間に存在する民族解放を実現しようとする勢力では、様々な動きがあった。その中で、民族解放を望む人々の多くの試みの展開により、大戦後、脱植民地化の動きが急速に進んでいった。一方で、連合国側を中心として、国際連合創設に向けての取り組みが積極的に行われた。国際連盟が第一次世界大戦後に急速につくられたのに対し、国際連合は大戦中に周到に準備された。また、国際連盟には参加していなかったアメリカが国際連合の主導権を握っていたことも大きな特徴である。アメリカでは、戦前より政府内部でも民間レベルでも新たな国際組織についての検討が始められていたが、参戦後にその動きは活発化し、戦局が転換して連合国側の勝利が見えてきたころには急速に進展、何度も議論を重ね1945年10月に発足した。
参考文献
木畑洋一(2001)『第二次世界大戦 現代世界への転換点』吉川弘文館