プロレタリア文化大革命2

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'''「文革の10年」は「動乱の10年」''' '''「文革の10年」は「動乱の10年」'''
1966年夏、毛沢東は長江で泳ぎ、その健在ぶりを内外にアピール。次いで北京に戻って8回にわたって、延べ1千万人に上る紅衛兵に接見、プロレタリア文化大革命ののろしを上げた。 1966年夏、毛沢東は長江で泳ぎ、その健在ぶりを内外にアピール。次いで北京に戻って8回にわたって、延べ1千万人に上る紅衛兵に接見、プロレタリア文化大革命ののろしを上げた。
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== 大革命の経過 == == 大革命の経過 ==
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== 背景 == == 背景 ==
-毛沢東は、自らの指導で開始した「大躍進」政策が失敗すると国家主席の地位を退いた。59年、毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇は、総書記の鄧小平とともに大躍進政策の大幅な見直しを行ない、農村の自由市場や出来高賃金制など「調整政策」の実施で一定の成果を上げる。しかし、毛沢東は長い雌伏のときを経て、劉少奇、鄧小平を資本主義への道を歩む実権派と批判し、彼らからの権力奪取の闘争を展望した。+一九六六年から始まる文化革命の中心世代は、第一次ベビーブームの子供たち、すなわち新中国の第四世代である。彼らは抗日戦争も内戦も知らず、建国後の時代を生きてきて、イデオロギー主導の時代に自らの青春を賭けた。毛沢東は、自らの指導で開始した「大躍進」政策が失敗すると国家主席の地位を退いた。59年、毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇は、総書記の鄧小平とともに大躍進政策の大幅な見直しを行ない、農村の自由市場や出来高賃金制など「調整政策」の実施で一定の成果を上げる。しかし、毛沢東は長い雌伏のときを経て、劉少奇、鄧小平を資本主義への道を歩む実権派と批判し、彼らからの権力奪取の闘争を展望した。
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== 内容 == == 内容 ==
-毛沢東は江青、張春橋、桃文元、王洪文の「四人組」と国防部長の林彪を率い、青少年からなる紅衛兵を組織して文革を進めた。紅衛兵は毛沢東の権威を背景に、「造反有理」(反抗には理由がある)の標語を掲げて街頭闘争を行ない、実権派(走資派)とされる人物を批判し攻撃。66年に鄧小平が、68年には劉少奇が失脚した。そのほか多くの党官僚、知識人、芸術家などが同様な批判を浴びて+毛沢東は江青、張春橋、桃文元、王洪文の「四人組」と国防部長の林彪を率い、青少年からなる紅衛兵を組織して文革を進めた。彼らは経歴や思想傾向を記録した文書類を焼き、次第に武闘の色を濃くした。「人々の魂に触れる革命」との言い方が若者の支持を得て、全国に波及、農村から北京など大都会へと大挙して参集した。紅衛兵は毛沢東の権威を背景に、「造反有理」(反抗には理由がある)の標語を掲げて街頭闘争を行ない、実権派(走資派)とされる人物を批判し攻撃。66年に鄧小平が、68年には劉少奇が失脚した。そのほか多くの党官僚、知識人、芸術家などが同様な批判を浴びて表舞台から退場させられ、あるいは命を落とした。69年の九全大会で毛沢東・林彪体制が確立したが、一方では反文革の抵抗も根強く、軍隊をも巻き込んだ武力衝突が各地で頻発、国内は大混乱に陥った。
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== その後 == == その後 ==
-   +71年の林彪事件の前後から、周恩来首相を中心に文革収拾の動きが本格化する。しかし、76年1月に周恩来が死亡、鄧小平も再度失脚するが、同年9月に毛沢東が死去すると、華国鋒首相はただちに四人組を逮捕、翌77年には鄧小平が最終的に復活を遂げ、文革は終結した。
 +鄧小平の指導の下に中国は国防、農業、工業、科学技術の「4つの現代化」をスローガンに、人民公社解体や資本主義システムの一部導入など改革開放路線を推進し、現在に至っている。   
== 参考文献 == == 参考文献 ==
 +「図説世界史」関眞興(編著) 実業之日本社発行
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 +「地域からの世界史ー3中国」 森 正夫 加藤祐三 朝日新聞社発行

最新版

「文革の10年」は「動乱の10年」 1966年夏、毛沢東は長江で泳ぎ、その健在ぶりを内外にアピール。次いで北京に戻って8回にわたって、延べ1千万人に上る紅衛兵に接見、プロレタリア文化大革命ののろしを上げた。


目次

大革命の経過

’49・10...中華人民共和国成立  首都:北京

’53・1...第一次五か年計画

’58・1...第二次五か年計画

’58・4...大躍進(人民公社の開始)

’60・7...中ソ対立表面化(平和共存をめぐる対立)

’66・5...プロレタリア文化大革命勃発

’69・3...珍宝島(ダマンスキー島)事件

’71・10...国連代表権承認(台湾の国連脱退)

’72・2...ニクソン大統領訪問、米中共同声明

’76・1...周恩来死去


背景

一九六六年から始まる文化革命の中心世代は、第一次ベビーブームの子供たち、すなわち新中国の第四世代である。彼らは抗日戦争も内戦も知らず、建国後の時代を生きてきて、イデオロギー主導の時代に自らの青春を賭けた。毛沢東は、自らの指導で開始した「大躍進」政策が失敗すると国家主席の地位を退いた。59年、毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇は、総書記の鄧小平とともに大躍進政策の大幅な見直しを行ない、農村の自由市場や出来高賃金制など「調整政策」の実施で一定の成果を上げる。しかし、毛沢東は長い雌伏のときを経て、劉少奇、鄧小平を資本主義への道を歩む実権派と批判し、彼らからの権力奪取の闘争を展望した。



内容 

毛沢東は江青、張春橋、桃文元、王洪文の「四人組」と国防部長の林彪を率い、青少年からなる紅衛兵を組織して文革を進めた。彼らは経歴や思想傾向を記録した文書類を焼き、次第に武闘の色を濃くした。「人々の魂に触れる革命」との言い方が若者の支持を得て、全国に波及、農村から北京など大都会へと大挙して参集した。紅衛兵は毛沢東の権威を背景に、「造反有理」(反抗には理由がある)の標語を掲げて街頭闘争を行ない、実権派(走資派)とされる人物を批判し攻撃。66年に鄧小平が、68年には劉少奇が失脚した。そのほか多くの党官僚、知識人、芸術家などが同様な批判を浴びて表舞台から退場させられ、あるいは命を落とした。69年の九全大会で毛沢東・林彪体制が確立したが、一方では反文革の抵抗も根強く、軍隊をも巻き込んだ武力衝突が各地で頻発、国内は大混乱に陥った。


その後

71年の林彪事件の前後から、周恩来首相を中心に文革収拾の動きが本格化する。しかし、76年1月に周恩来が死亡、鄧小平も再度失脚するが、同年9月に毛沢東が死去すると、華国鋒首相はただちに四人組を逮捕、翌77年には鄧小平が最終的に復活を遂げ、文革は終結した。 鄧小平の指導の下に中国は国防、農業、工業、科学技術の「4つの現代化」をスローガンに、人民公社解体や資本主義システムの一部導入など改革開放路線を推進し、現在に至っている。   


参考文献

「図説世界史」関眞興(編著) 実業之日本社発行

「地域からの世界史ー3中国」 森 正夫 加藤祐三 朝日新聞社発行


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