難民問題9
出典: Jinkawiki
2018年1月19日 (金) 14:31の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) |
||
1 行 | 1 行 | ||
- | |||
== 難民の定義 == | == 難民の定義 == | ||
- | 難民とは、何らかの理由で居場所を追われ、さらに国境を跨いで移動せざるを得ない人々である。これは何らかの理由で居場所から移動せざるを得ない人々と国境を跨いで外国に安全を求めて移動していく人々の大きく二つに分けられる。前者は「国内避難民」であり後者は「移民」として捉えられるであろう。難民に対して1951年7月に「難民の地位に関する条約」 | + | 難民とは、何らかの理由で居場所を追われ、さらに国境を跨いで移動せざるを得ない人々である。これは何らかの理由で居場所から移動せざるを得ない人々と国境を跨いで外国に安全を求めて移動していく人々の大きく二つに分けられる。前者は「国内避難民」であり後者は「移民」として捉えられるであろう。難民について国連では1951年7月に「難民の地位に関する条約」(難民条約)が採択された。この条約では「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」と正式に定義がされている。 |
+ | |||
+ | |||
+ | == 難民発生の歴史 == | ||
+ | 難民発生の歴史は大きく3つの時期に分けることができる。 | ||
+ | |||
+ | '''第1期''' | ||
+ | 第1期は宗教的迫害の時代、16~18世紀の絶対主義と重商主義の時代である。代表的な例として挙げられるのは、1492年のスペインからの非改宗ユダヤ人の追放と16世紀の同国からのイスラム教徒の追放。また、18世紀のイギリスにおけるピューリタンやクエーカー教徒の新大陸への移動、カトリック系アイルランド人のスペインやフランスへの追放。その他にもフランスではユグノーがプロテスタント信者として改宗を迫られ、その結果大量移住を余儀なくされた。これらの内容から第1期は宗教難民に分類される。 | ||
+ | |||
+ | '''第2期''' | ||
+ | 第2期は政治的迫害の時代である。18世紀末には政治的イデオロギーの主張を背景に、旧制度を維持しようとする勢力への攻撃が行われた。つまり、革命上の衝突で難民が発生するという新しいタイプの難民であるといえる。1789年のフランス革命では革命政府への忠誠を拒否した聖職者を含む約13万人が難民として流出した。また、アメリカ度戦争前後にも6万人規模の王党派がカナダやイギリスへ逃れたことが確認されている。 | ||
+ | |||
+ | '''第3期''' | ||
+ | 第3期は19世紀末から現在まで続く時代である。この時期の難民発生が難民条約を成立させ、かつ国連高等弁務官事務所(UNHCR)の設立に繋がった。背景には東欧や西アジアでの国民国家の形成がある。オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊、帝政ロシアの革命と内乱を通じて大規模な難民が流出した。これらの帝国の崩壊と解体によって多くの少数民族が国民国家の形成過程で民族浄化されていったのである。さらに、ユダヤ人のような「国民」に属さないで国境を跨いでいく無国籍者も追放の対象となっている。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | == 日本の難民の受け入れ、保護、支援 == | ||
+ | 日本では難民に対して多くの役割を果たしている。第二次世界大戦中の1940年にナチスの迫害を逃れるユダヤ人数千人が駐リトアニア杉原千畝領事代理の発行した「命のビザ」で日本に逃れることができたことは世界でも有名な話である。それらのユダヤ人の多くはその後に占領下の上海に送られ、最終的にはアメリカなどに渡った。日本に残ったものの子孫には各界で活躍する人々もいる。このエピソードを除けば日本と難民の接点は少なかった。大戦後に難民条約が成立し国際的保護体制ができたが、近隣諸国からの政治亡命者が来ることはなく日本も受け入れるつもりはなかった。日本が初めて本格的な難民問題に直面したのはベトナム戦争終結後に多数発生したインドシナ難民が日本に到着し始めたときである。それまで難民の受け入れに関する法律や体制が整っていなっかた日本は、内閣に「インドシナ難民対策連絡調整会議」を設置し、アジア福祉教育財団内の「難民専業本部(RHQ)」に定住促進事業を委託した。難民が定住できるように「定住促進センター」を設置し日本語教育を受けさせている。今では家族などを含めた2641人がセンターの紹介で就職し、日本社会に巣立っている。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | == 参考文献 == | ||
+ | 『難民を知るための基礎知識』(2017年1月31日) | ||
+ | 発行者:石井昭男 発行所:株式会社明石書店 |
最新版
目次 |
難民の定義
難民とは、何らかの理由で居場所を追われ、さらに国境を跨いで移動せざるを得ない人々である。これは何らかの理由で居場所から移動せざるを得ない人々と国境を跨いで外国に安全を求めて移動していく人々の大きく二つに分けられる。前者は「国内避難民」であり後者は「移民」として捉えられるであろう。難民について国連では1951年7月に「難民の地位に関する条約」(難民条約)が採択された。この条約では「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者」と正式に定義がされている。
難民発生の歴史
難民発生の歴史は大きく3つの時期に分けることができる。
第1期 第1期は宗教的迫害の時代、16~18世紀の絶対主義と重商主義の時代である。代表的な例として挙げられるのは、1492年のスペインからの非改宗ユダヤ人の追放と16世紀の同国からのイスラム教徒の追放。また、18世紀のイギリスにおけるピューリタンやクエーカー教徒の新大陸への移動、カトリック系アイルランド人のスペインやフランスへの追放。その他にもフランスではユグノーがプロテスタント信者として改宗を迫られ、その結果大量移住を余儀なくされた。これらの内容から第1期は宗教難民に分類される。
第2期 第2期は政治的迫害の時代である。18世紀末には政治的イデオロギーの主張を背景に、旧制度を維持しようとする勢力への攻撃が行われた。つまり、革命上の衝突で難民が発生するという新しいタイプの難民であるといえる。1789年のフランス革命では革命政府への忠誠を拒否した聖職者を含む約13万人が難民として流出した。また、アメリカ度戦争前後にも6万人規模の王党派がカナダやイギリスへ逃れたことが確認されている。
第3期 第3期は19世紀末から現在まで続く時代である。この時期の難民発生が難民条約を成立させ、かつ国連高等弁務官事務所(UNHCR)の設立に繋がった。背景には東欧や西アジアでの国民国家の形成がある。オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊、帝政ロシアの革命と内乱を通じて大規模な難民が流出した。これらの帝国の崩壊と解体によって多くの少数民族が国民国家の形成過程で民族浄化されていったのである。さらに、ユダヤ人のような「国民」に属さないで国境を跨いでいく無国籍者も追放の対象となっている。
日本の難民の受け入れ、保護、支援
日本では難民に対して多くの役割を果たしている。第二次世界大戦中の1940年にナチスの迫害を逃れるユダヤ人数千人が駐リトアニア杉原千畝領事代理の発行した「命のビザ」で日本に逃れることができたことは世界でも有名な話である。それらのユダヤ人の多くはその後に占領下の上海に送られ、最終的にはアメリカなどに渡った。日本に残ったものの子孫には各界で活躍する人々もいる。このエピソードを除けば日本と難民の接点は少なかった。大戦後に難民条約が成立し国際的保護体制ができたが、近隣諸国からの政治亡命者が来ることはなく日本も受け入れるつもりはなかった。日本が初めて本格的な難民問題に直面したのはベトナム戦争終結後に多数発生したインドシナ難民が日本に到着し始めたときである。それまで難民の受け入れに関する法律や体制が整っていなっかた日本は、内閣に「インドシナ難民対策連絡調整会議」を設置し、アジア福祉教育財団内の「難民専業本部(RHQ)」に定住促進事業を委託した。難民が定住できるように「定住促進センター」を設置し日本語教育を受けさせている。今では家族などを含めた2641人がセンターの紹介で就職し、日本社会に巣立っている。
参考文献
『難民を知るための基礎知識』(2017年1月31日) 発行者:石井昭男 発行所:株式会社明石書店