関東大震災4
出典: Jinkawiki
2018年1月20日 (土) 07:30の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
最新版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) (→関東大震災) |
||
1 行 | 1 行 | ||
===関東大震災=== | ===関東大震災=== | ||
+ | |||
+ | ---- | ||
'''概要''' | '''概要''' | ||
- | 1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源地とするマグニチュ-ド7.9の大地震が発生した。震央は相模湾の北西部。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であるが、震災は東京を中心に千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城、長野、栃木、群馬の各県に及んだ。 | + | 1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源地とするマグニチュ-ド7.9の大地震が発生した。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であった。最大震度は7であり、主要動は約10分にわたり継続したといわれている。 |
+ | ---- | ||
'''被害''' | '''被害''' | ||
- | 死者・行方不明者は従来、約14万2000人余りとされてきたが、近年の調査研究で10万5000人程度であることが分かった。建物の被害は、全壊約13万棟、半壊約13万棟、焼失約45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は6万人を超えたが、これは主に122ヶ所から発生した火災によるものとみられた。 | + | 地震そのものの規模は最大級とは言えないが、人口密度や地震後の火災の関係で、死者の規模は大きかった。死者・行方不明者は従来、約14万2000人余りとされてきたが、近年の調査研究で10万5000人程度であることが分かった。建物の被害は、全壊約13万棟、半壊約13万棟、焼失約45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は6万人を超えたが、これは主に122ヶ所から発生した火災によるものとみられた。 |
+ | ---- | ||
+ | '''復興''' | ||
+ | 関東大震災により、東京の都市機能は完璧に停止した。この事態に多くの国が手を差し伸べてくれた。特にアメリカは積極的に援助してくれた。 | ||
+ | 震災の次の日に発足した山本権兵衛内閣では、発足した当日に復興事業に取り組んでいた。その甲斐があり、約6年間様々な復興政策が楮られ、現在の東京が確立されたのである。 | ||
+ | ---- | ||
'''震災後の事件''' | '''震災後の事件''' | ||
1923年9月1日午後から2日にかけて「朝鮮人・社会主義者ら」の放火・投毒などの流言が広がり始めた。当時の治安担当者は内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃・内務省警保局長後藤文夫らであった。彼らは流言を取り締まることなくこれを利用して、戒厳令の施行を決定した。戒厳令によって全国から出動してきた軍隊は、警察や自警団と一体となって朝鮮人・中国人を殺害したほか、労働運動指導者・社会主義者などを殺害した。極秘資料として20部だけ作成された「関東戒厳司令部詳報」第3巻には「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」があり合計20件に及ぶ朝鮮人・中国人殺害事件や亀戸事件などが記録されている。 | 1923年9月1日午後から2日にかけて「朝鮮人・社会主義者ら」の放火・投毒などの流言が広がり始めた。当時の治安担当者は内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃・内務省警保局長後藤文夫らであった。彼らは流言を取り締まることなくこれを利用して、戒厳令の施行を決定した。戒厳令によって全国から出動してきた軍隊は、警察や自警団と一体となって朝鮮人・中国人を殺害したほか、労働運動指導者・社会主義者などを殺害した。極秘資料として20部だけ作成された「関東戒厳司令部詳報」第3巻には「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」があり合計20件に及ぶ朝鮮人・中国人殺害事件や亀戸事件などが記録されている。 | ||
- | '''歴史的背景''' | + | ---- |
+ | '''参考文献''' | ||
- | 第一次世界大戦後の日本は、対内的には、大正デモクラシー運動の高揚による民衆運動の組織化と、それに反発する右翼の台頭、原敬首相暗殺と元老山縣有朋の死を契機とする天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、危機が深刻化していた。また、対外的には、ベルサイユ・ワシントン体制下における英米との対立の深化、朝鮮と中国の半日民族解放運動の激化、シベリア出兵も惨敗などにより国際的に孤立化しつつあった。こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりではなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えた点に大きな歴史的意義があった。 | + | https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD-49356 |
+ | 「史料でたどる日本史事典」木村茂光・樋口州男/東京堂出版、 |
最新版
関東大震災
概要
1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源地とするマグニチュ-ド7.9の大地震が発生した。家屋倒壊率の高かった地域は湘南地方、三浦半島、房総半島南部であった。最大震度は7であり、主要動は約10分にわたり継続したといわれている。
被害
地震そのものの規模は最大級とは言えないが、人口密度や地震後の火災の関係で、死者の規模は大きかった。死者・行方不明者は従来、約14万2000人余りとされてきたが、近年の調査研究で10万5000人程度であることが分かった。建物の被害は、全壊約13万棟、半壊約13万棟、焼失約45万棟。特に被害の大きかった東京では死者は6万人を超えたが、これは主に122ヶ所から発生した火災によるものとみられた。
復興
関東大震災により、東京の都市機能は完璧に停止した。この事態に多くの国が手を差し伸べてくれた。特にアメリカは積極的に援助してくれた。 震災の次の日に発足した山本権兵衛内閣では、発足した当日に復興事業に取り組んでいた。その甲斐があり、約6年間様々な復興政策が楮られ、現在の東京が確立されたのである。
震災後の事件
1923年9月1日午後から2日にかけて「朝鮮人・社会主義者ら」の放火・投毒などの流言が広がり始めた。当時の治安担当者は内務大臣水野錬太郎・警視総監赤池濃・内務省警保局長後藤文夫らであった。彼らは流言を取り締まることなくこれを利用して、戒厳令の施行を決定した。戒厳令によって全国から出動してきた軍隊は、警察や自警団と一体となって朝鮮人・中国人を殺害したほか、労働運動指導者・社会主義者などを殺害した。極秘資料として20部だけ作成された「関東戒厳司令部詳報」第3巻には「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」があり合計20件に及ぶ朝鮮人・中国人殺害事件や亀戸事件などが記録されている。
参考文献
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD-49356 「史料でたどる日本史事典」木村茂光・樋口州男/東京堂出版、