ベトナム戦争30
出典: Jinkawiki
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- | ベトナムは、紀元前二世紀から十世紀まで千年を超える中国支配を受けていた。十世紀の独立以降もベトナムの歴代王朝は中国と朝貢関係を結び、中華世界の一員として自らを位置づけ、儒教と科挙官僚制度を中心とした中国の統治制度を踏襲していった。こうして北方の中国からの自立を確保したベトナムは十八世紀には南部のメコンデルタに進出し、インドシナ半島における「大国」となったのである。 | + | ベトナムは、紀元前二世紀から十世紀まで千年を超える中国支配を受けていた。十世紀の独立以降もベトナムの歴代王朝は中国と朝貢関係を結び、中華世界の一員として自らを位置づけ、儒教と科挙官僚制度を中心とした中国の統治制度を踏襲していった。こうして北方の中国からの自立を確保したベトナムは十八世紀には南部のメコンデルタに進出し、インドシナ半島における「大国」となったのである。その後十九世紀半ばからフランスによる植民地支配が行われた。1930年代以降、ベトナムのナショナリズム運動の中心は、近代教育を受けた知識人層、ホーチミン」に代表される共産主義者たちに移っていった。 |
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+ | == 戦争に至るまでの経緯== | ||
+ | ベトナム戦争は、南北に分断された二つのベトナム(北ベトナム=ベトナム民主主義共和国、南ベトナム=ベトナム共和国)の間による戦争であり、それは統一を目的とする戦争であったともいえる。南北ベトナムという分断国家の統一をめぐる闘いではあったが基本的には南ベトナムの「内線」から始まった。南北に分断された後、南ベトナムはジュネーブ協定締結直前の1954年7月7日アメリカの意を受けてゴ・ディン・ジエムを新首相に任命し、貿易赤字や財政赤字を覆い隠す経済援助を毎年のようにアメリカから受けていた。その額は、1955年から1957年の間に9億6400万ドルに達し、ジエム政権は独裁体制を支える軍事力の強化にも使われた。ジエム政権による独裁によって反体制派の人々に対する弾圧が強化されていくにともない、「南の民衆」による反政府反乱がおこり始めていた。こうした南の状況を背景として1960年12月に南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が結成された。解放戦線は北のベトナム労働党の決議と承認のもとで結成された組織であったが、その構成員は南ベトナムの出身者が中心であり、解放戦線の使用する武器は南の戦場で獲得したものがほとんどであった。こうしたベトナムの政治・軍事状況の変化に対してそれを「北からの侵略」とし、解放戦線を「ハノイの手先」と断定したアメリカは、「ベトナムの戦争」に対する軍事介入を強化させていった。その当時のアメリカのケネディ政権は1962年2月、サイゴンに米軍事援助司令部(MACV)を発足させ、アメリカの軍事援助に加えて、アメリカの軍事顧問がサイゴン政権軍を指揮・支援する体制を確立させた。これによって「アメリカが支援するサイゴン政権」と「北ベトナムが支援する解放戦線」との武力対決という構図が生まれたのである。 | ||
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+ | == 戦後の難民問題== | ||
+ | ベトナムでは1975年4月30日のサイゴン陥落に前後して、サイゴン政府関係者を中心に13万人が国外に脱出した。1976年7月のベトナム統一後における南部での急激な社会主義的改造もあって、ベトナム難民は1977年末までに20万人に達したといわれている。ベトナム難民の特性としては、第一に戦争の終結・政治激変による難民流出ののち、一定期間をおいて大量の難民が流出したこと、第二に後者の難民において、当初は当初は中国系住民を中心とした国外脱出であったこと、第三に「ボート・ピープル」としての脱出が極めて多かったことが挙げられる。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
+ | 『ベトナム戦争を考える』(2005年5月20日) | ||
+ | 著者:遠藤聡 発行所:株式会社明石書店 |
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目次 |
ベトナムの成り立ち
ベトナムは、紀元前二世紀から十世紀まで千年を超える中国支配を受けていた。十世紀の独立以降もベトナムの歴代王朝は中国と朝貢関係を結び、中華世界の一員として自らを位置づけ、儒教と科挙官僚制度を中心とした中国の統治制度を踏襲していった。こうして北方の中国からの自立を確保したベトナムは十八世紀には南部のメコンデルタに進出し、インドシナ半島における「大国」となったのである。その後十九世紀半ばからフランスによる植民地支配が行われた。1930年代以降、ベトナムのナショナリズム運動の中心は、近代教育を受けた知識人層、ホーチミン」に代表される共産主義者たちに移っていった。
戦争に至るまでの経緯
ベトナム戦争は、南北に分断された二つのベトナム(北ベトナム=ベトナム民主主義共和国、南ベトナム=ベトナム共和国)の間による戦争であり、それは統一を目的とする戦争であったともいえる。南北ベトナムという分断国家の統一をめぐる闘いではあったが基本的には南ベトナムの「内線」から始まった。南北に分断された後、南ベトナムはジュネーブ協定締結直前の1954年7月7日アメリカの意を受けてゴ・ディン・ジエムを新首相に任命し、貿易赤字や財政赤字を覆い隠す経済援助を毎年のようにアメリカから受けていた。その額は、1955年から1957年の間に9億6400万ドルに達し、ジエム政権は独裁体制を支える軍事力の強化にも使われた。ジエム政権による独裁によって反体制派の人々に対する弾圧が強化されていくにともない、「南の民衆」による反政府反乱がおこり始めていた。こうした南の状況を背景として1960年12月に南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が結成された。解放戦線は北のベトナム労働党の決議と承認のもとで結成された組織であったが、その構成員は南ベトナムの出身者が中心であり、解放戦線の使用する武器は南の戦場で獲得したものがほとんどであった。こうしたベトナムの政治・軍事状況の変化に対してそれを「北からの侵略」とし、解放戦線を「ハノイの手先」と断定したアメリカは、「ベトナムの戦争」に対する軍事介入を強化させていった。その当時のアメリカのケネディ政権は1962年2月、サイゴンに米軍事援助司令部(MACV)を発足させ、アメリカの軍事援助に加えて、アメリカの軍事顧問がサイゴン政権軍を指揮・支援する体制を確立させた。これによって「アメリカが支援するサイゴン政権」と「北ベトナムが支援する解放戦線」との武力対決という構図が生まれたのである。
戦後の難民問題
ベトナムでは1975年4月30日のサイゴン陥落に前後して、サイゴン政府関係者を中心に13万人が国外に脱出した。1976年7月のベトナム統一後における南部での急激な社会主義的改造もあって、ベトナム難民は1977年末までに20万人に達したといわれている。ベトナム難民の特性としては、第一に戦争の終結・政治激変による難民流出ののち、一定期間をおいて大量の難民が流出したこと、第二に後者の難民において、当初は当初は中国系住民を中心とした国外脱出であったこと、第三に「ボート・ピープル」としての脱出が極めて多かったことが挙げられる。
参考文献
『ベトナム戦争を考える』(2005年5月20日) 著者:遠藤聡 発行所:株式会社明石書店