核兵器2
出典: Jinkawiki
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服部学著 1982年『核兵器と核戦争』(科学全書1) 大月書店 | 服部学著 1982年『核兵器と核戦争』(科学全書1) 大月書店 | ||
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原子爆弾投下の理由~広島・長崎~ベネディクト地球歴史館(2018年1月21日閲覧)http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-10/ | 原子爆弾投下の理由~広島・長崎~ベネディクト地球歴史館(2018年1月21日閲覧)http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-10/ | ||
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広島市-原爆被害の概要((2018年1月21日閲覧)http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111637106129/index.html | 広島市-原爆被害の概要((2018年1月21日閲覧)http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111637106129/index.html | ||
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原子爆弾を作った科学者
原子爆弾は決して1人の科学者の力によって作られたものではない。マンハッタン計画と呼ばれる史上最大のプロジェクトによって最終的に完成した原子爆弾だが、核分裂の発見から原子爆弾の完成までの過程では多くの科学者がいろいろな役割を果たした。
ピエール・キュリー
フランスの物理学者ピエール・キュリー(1859-1906)は、妻のマリー・キュリーと共同で放射性物質の研究を行い、ポロニウムとラジウムを発見した。そして"radioactivity"(放射能)という用語を作った。また、1903年にノーベル物理賞を受賞した。彼は1905年6月6日にストックホルムで行ったノーベル賞講演の最後に「ラジウムが犯罪人の手に渡ると、非常に危険なものになるでしょう。~中略~私はノーベルとともに、人類は新しい発見から害毒以上に多くの福利を導き出すであろうと信ずる者の1人であります。」(『ノーベル賞講演=物理学1』{1}125ページ)と述べている。
フレデリック・ジョリオ-キュリー夫妻
フランスの原子物理学者フレデリック・ジョリオ-キュリー(1900-1958)は1934年にいろいろな原子核をα線で照射して人工放射能を発見した。翌年1935年にはノーベル化学賞を受賞した。彼はこの時すでに原子核反応の連鎖反応で大量のエネルギーが解放できることを予測していた。
エンリコ・フェルミ
イタリアのローマ出身のエンリコ・フェルミ(1901-1954)はジョリオ-キュリー夫妻がαで人工放射能を作り出したことを聞くと、ただちに中性子でたたく方が有効であると予見し、あらゆる元素を中性子で照射し、その結果を次々と発表した。1938年12月にノーベル物理学賞を受賞した。
オットー・ハーン
ドイツの科学者・物理学者オットー・ハーン(1879-1968)は1938年に、ウランを中性子で照射することにより作られる何種類かの放射能の1つがバリウムの同位元素であることを発見した。のちの1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍により広島に原爆が落とされた。このニュースを聞いたオットー・ハーンは自分の発見した核分裂が思いもよらぬ結果を生んだとショックを受け、周囲の仲間から自殺を心配されたほどであった。彼が核分裂の発見でノーベル化学賞を受賞したのは1945年11月であった。
オットー・ロベルト・フリッシュ
オーストリア出身の物理学者オットー・ロベルト・フリッシュ(1904-1979)は伯母のマイトナーとともにウラン原子核の核分裂のメカニズムを考えた。彼はラドルフ・パイエルス教授と2人で、天然ウランではなくウラン-235だけを使い、高速中性子で反応を起こせばたいへん威力を持った爆弾が可能であることに気がついた。彼らはこの考えを1940年3月に「超爆弾の製造について」と標題をつけて(フリッシュ=パイエルス覚書と呼ばれる)政府に提出した。この文書には原子爆弾の可能性だけでなく、爆弾の製造の実際的問題と予想される爆発威力、さらには爆発後の放射線効果についてまでも正確に予測している。
マンハッタン計画
ドイツなどの原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾の製造を目的に科学者や技術者を総動員した歴史上最大の科学プロジェクトの1つである。1942年6月、ルーズベルト大統領により発足。総責任者には、レズリー グローヴス准将が任命された。原子爆弾の標的は当初ドイツだったが、完成する前にドイツが降伏したため、原子爆弾は広島と長崎に投下されることとなった。この計画では、3年間で5万人の科学者と技術者が投入された。資金は現在の貨幣価値では約2兆円であった。単純に計算すると、日本の広島と長崎に投下された原子爆弾は1発1兆円ということになる。人類史上初の原子爆弾は、投下から43秒後に地上約600メートルの上空で炸裂し灼熱の火球を作った。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達した。
参考
服部学著 1982年『核兵器と核戦争』(科学全書1) 大月書店
原子爆弾投下の理由~広島・長崎~ベネディクト地球歴史館(2018年1月21日閲覧)http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-10/
広島市-原爆被害の概要((2018年1月21日閲覧)http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111637106129/index.html
HN:カピバラさん