ヒトラー2
出典: Jinkawiki
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2018年1月22日 (月) 13:54の版
アドルフ・ヒトラーは、凡庸とカリスマ性という二面性をもつ人物であり、総統崇拝、ナチス独裁、そして20世紀におけるかつてないほどの残虐と蛮行によって世界史に名をとどめている。
概要
1944年11月、ベルリンを廃墟にするいきおいのソヴィエト軍進撃に、ヒトラーは地下壕に避難した。6か月間そこに閉じこもり、自分とともにすべてが消滅してしまうという強い強迫観念にとりつかれた彼は、徹底的崩壊、戦闘続行、まだ年端もいかない子どもの徴名を命じている。総統に従う者はボルマンとゲッベルスだけとなり、他の側近は連合国との交渉をこころみていた。そして1945年4月30日、政治的遺言を書き残し、ヒトラーはピストルの口内発射によって愛人エヴァ・ブラウンとともに自殺をとげた。こうして千年帝国を実現しようとするデミウルゴス(グノーシス主義の造物主)的夢想には、廃墟しか残らなかったのである。
政権掌握までの道のり
1932年、ヒトラーに1300万人のドイツ人が投票し、彼を非難した者はほとんどいなかった。1930年4月から宣伝を担当したゲッベルズにより、総統ヒトラーの崇拝と彼のカリスマ的権威は、このときすでに本質を形成されていたのである。国家社会主義ドイツ労働者党の政治宣伝機関によりたくみに作られたヒトラーのイメージとは、力強さ、若々しさ、現代性であった。1932年大統領が一機チャーターされ、ヒトラーを各地の会議の場所まで運んだ。これは「上からドイツを見渡す総統」というスローガンを実地に示すためのものであった。さらに状況にあわせて協調も行い、政治宣伝の効果を高めた。政治危機、大衆の政治意識の高まり、ヴァイマール共和国の衰退という背景の中で、国家社会主義ドイツ労働者党は1930年9月、ドイツ社会民主党を抜いて議会第一党となり多くの人々を驚かせた。ついにヒトラーは政治家として無視できない存在となったのである。首相ブリューニングはナチス突撃隊(SA)、親衛隊(SS)の解体を示唆してナチスの圧力に対抗しようとした。ヒトラーは大統領選挙ではヒンデンブルクが大統領に当選し、1900万票を獲得したが、彼が「ジプシーのちび伍長」と軽蔑したヒトラーも1300万票を集めた。一方ブリューニング内閣のあと組閣されたフォン・パーペン内閣は、ヒトラーを抱き込もうとした。ナチスのもっていた軍隊にも似た組織の禁止を解除したのである。続いてフォン・パーペンは1932年7月国会をはじめて解散、11月には2度目の解散を実行した。これはナチスの勢力減少をねらったものである。はたして11月6日、ナチスは200万票を失い、国会議会を34議席減らした。党の財政も最悪の危機にひんし、政権掌握がこれほど遠のいたことはかつてなかった。ナチス減衰のはじまりになるかと思われたが、路上での暴力や、軍、経済界に向けた安心感を与える演説を巧みにもちいて、ヒトラーはうけいれられていった。また、フォン・パーペン内閣が短命の見こみであったことにも助けられた。1932年12月、フォン・パーペンを追い落とし、新首相となった。再起をはかるフォン・パーペンはヒトラーを再び利用しようとした。ヒトラーに首相の座と、ナチスから3人の官僚入りを約束したのである。しかし、政権の実権はフォン・パーペン自身が握ろうとした。だがこの政治的かけひきには、ひとるだけ難題があった。首相を任命する権限をもつ、国家首相ヒンデンブルク元師を説得しなければならなかったのである。大統領ヒンデンブルクはヒトラーが首相になることを望んでおらず、むしろ軽蔑していた。しかし1933年1月30日、多方面からの圧力に譲歩し、ヒンデンブルクはヒトラーに組閣を命じた。内閣は副首相フォン・パーペンを中心とした保守派が多数を占めた。