高瀬舟
出典: Jinkawiki
2008年7月23日 (水) 15:02の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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1916年に森鴎外が中央公論に発表した作品。江戸時代の随筆集「翁草」の中の「流人の話」を元に書かれている。 | 1916年に森鴎外が中央公論に発表した作品。江戸時代の随筆集「翁草」の中の「流人の話」を元に書かれている。 | ||
- | 財産の多少と欲望の関係性、及び安楽死をテーマに書かれている。高瀬舟とは徳川時代に罪人を京都から大阪まで護送するための船である。 | + | 財産の多少と欲望の関係性、及び安楽死をテーマに書かれている。 |
- | その高瀬舟を舞台にした小説がこの「高瀬舟」である。 | + | |
- | <あらすじ> | + | == 舞台== |
+ | 慶長16年(1611)頃、京都の豪商の角倉了以が開いた運河で、当時は二条木屋町あたりを起点として鴨川に平行して十条まで南下し伏見京橋で宇治川に合流しており、江戸から大正時代にかけて、浅い水深でも航行出来るように造られた平らな船底を持つ高瀬船で京都、大阪間の物資の運搬が行なわれていた。諸国から船で大坂に集められた物資を淀川を経てこの高瀬川を経由して京都に運び入れるのが運河を開いた目的で、代々、角倉家はこの運河の通行料の収入によって財をなしていた。現在の高瀬川は鴨川との交差付近で分断されており、鴨川以南は東高瀬川・新高瀬川となっていて、高瀬川はその新高瀬川に並行しているが、その起点に当たる福稲地区は水も流れおらず昔の面影は全くないので、鴨川と並行して流れている高瀬川と区別して旧高瀬川と呼ばれている。現在では、高瀬川を往来する船影は無く、当時の貨物積卸場だった一之船入に復元された高瀬舟が一艘係留されて僅かに当時野の面影を残しているだけである。ただ、高瀬川沿いには池田屋や船宿だった寺田屋などの維新の遺跡が有り、京都の繁華街を流れていることからも観光スポットとしても脚光を浴びている。 | ||
+ | 作中では高瀬舟は罪人を京都から大阪まで護送するためのものとして使われている。その護送の役目は本人の親類が受けていた。 | ||
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+ | == あらすじ == | ||
弟殺しの罪で高瀬舟に乗せられて島流しにされる喜助は、なぜか晴ればれとしている。護送の役目の同心・羽田庄兵衛はそれを不思議に思い、彼の気持ちを聞いてみる。喜助は、島送りになったら食べさせてもらえる上に鳥目200文を頂戴して有難いと言う。聞いてみると、彼が犯した弟殺しというのは、自殺を図って死にきれず苦しんでいる弟に手を貸し死なせてやったということだった。庄兵衛は、喜助の安心立命の境地に感嘆し、いわゆる”安楽死”の問題に大きな疑問を持つ。 | 弟殺しの罪で高瀬舟に乗せられて島流しにされる喜助は、なぜか晴ればれとしている。護送の役目の同心・羽田庄兵衛はそれを不思議に思い、彼の気持ちを聞いてみる。喜助は、島送りになったら食べさせてもらえる上に鳥目200文を頂戴して有難いと言う。聞いてみると、彼が犯した弟殺しというのは、自殺を図って死にきれず苦しんでいる弟に手を貸し死なせてやったということだった。庄兵衛は、喜助の安心立命の境地に感嘆し、いわゆる”安楽死”の問題に大きな疑問を持つ。 | ||
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+ | == 森鴎外と安楽死 == | ||
+ | 森鴎外が「高瀬舟」を執筆する数年前に、鴎外の長女茉莉と次男が同時に百日咳にかかり、次男は死亡、長女も危篤状態になった。医者はあと24時間の命と宣告し、苦しみもがく長女をモルヒネ注射で安楽死させることを鴎外に勧めた。鴎外も医者としてその勧めを受け止め、二人目の妻志げも納得して、注射をしようとしたその時、鴎外の義父がきて鴎外夫婦を叱り、「人間には天命というものがある。その天命が尽きるまで、たとえどんなに苦しかろうと生きねばならないんだ!」 と叫んだ。この祖父の強い反対で、注射は取り止めになり、その後病状は回復して茉莉は一命を取りとめた。鴎外自ら語ることはせずに「高瀬舟」の羽田庄兵衞に安楽死を肯定せざるを得ない場合も有るのだと自責の念に駆られながらも代弁させている。 | ||
- | 森鴎外は自分の長女を安楽死させようとしたことがる。そのことから助からない命を楽に死なせてやることは医学の立場から見て間違いではないのでは、自分のしようのしたことは間違いではなかったとこの作品で言いたかったのであろう。 | + | (投稿者ユウ) |
- | この作品の主人公は果たして罪人なのであろうか。近年安楽死や尊厳死が問題になっている中でこの小説のテーマが問われている。 | + |
最新版
1916年に森鴎外が中央公論に発表した作品。江戸時代の随筆集「翁草」の中の「流人の話」を元に書かれている。 財産の多少と欲望の関係性、及び安楽死をテーマに書かれている。
舞台
慶長16年(1611)頃、京都の豪商の角倉了以が開いた運河で、当時は二条木屋町あたりを起点として鴨川に平行して十条まで南下し伏見京橋で宇治川に合流しており、江戸から大正時代にかけて、浅い水深でも航行出来るように造られた平らな船底を持つ高瀬船で京都、大阪間の物資の運搬が行なわれていた。諸国から船で大坂に集められた物資を淀川を経てこの高瀬川を経由して京都に運び入れるのが運河を開いた目的で、代々、角倉家はこの運河の通行料の収入によって財をなしていた。現在の高瀬川は鴨川との交差付近で分断されており、鴨川以南は東高瀬川・新高瀬川となっていて、高瀬川はその新高瀬川に並行しているが、その起点に当たる福稲地区は水も流れおらず昔の面影は全くないので、鴨川と並行して流れている高瀬川と区別して旧高瀬川と呼ばれている。現在では、高瀬川を往来する船影は無く、当時の貨物積卸場だった一之船入に復元された高瀬舟が一艘係留されて僅かに当時野の面影を残しているだけである。ただ、高瀬川沿いには池田屋や船宿だった寺田屋などの維新の遺跡が有り、京都の繁華街を流れていることからも観光スポットとしても脚光を浴びている。 作中では高瀬舟は罪人を京都から大阪まで護送するためのものとして使われている。その護送の役目は本人の親類が受けていた。
あらすじ
弟殺しの罪で高瀬舟に乗せられて島流しにされる喜助は、なぜか晴ればれとしている。護送の役目の同心・羽田庄兵衛はそれを不思議に思い、彼の気持ちを聞いてみる。喜助は、島送りになったら食べさせてもらえる上に鳥目200文を頂戴して有難いと言う。聞いてみると、彼が犯した弟殺しというのは、自殺を図って死にきれず苦しんでいる弟に手を貸し死なせてやったということだった。庄兵衛は、喜助の安心立命の境地に感嘆し、いわゆる”安楽死”の問題に大きな疑問を持つ。
森鴎外と安楽死
森鴎外が「高瀬舟」を執筆する数年前に、鴎外の長女茉莉と次男が同時に百日咳にかかり、次男は死亡、長女も危篤状態になった。医者はあと24時間の命と宣告し、苦しみもがく長女をモルヒネ注射で安楽死させることを鴎外に勧めた。鴎外も医者としてその勧めを受け止め、二人目の妻志げも納得して、注射をしようとしたその時、鴎外の義父がきて鴎外夫婦を叱り、「人間には天命というものがある。その天命が尽きるまで、たとえどんなに苦しかろうと生きねばならないんだ!」 と叫んだ。この祖父の強い反対で、注射は取り止めになり、その後病状は回復して茉莉は一命を取りとめた。鴎外自ら語ることはせずに「高瀬舟」の羽田庄兵衞に安楽死を肯定せざるを得ない場合も有るのだと自責の念に駆られながらも代弁させている。
(投稿者ユウ)