ベトナム戦争33

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== '''参考文献''' == == '''参考文献''' ==
-ベトナム戦争 民衆にとっての戦場 吉澤 南   ベトナム戦争の戦後 中野 亜里+ベトナム戦争 民衆にとっての戦場 (1999年 吉澤 南著)   <br>ベトナム戦争の戦後 (2005年 中野 亜里著) <br>'mikuro'

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目次

戦争の起源

 第二次世界大戦後の1946年末からフランスはインドシナ一帯を植民地として再確保するために戦争に乗り出す。(これを客観的に第一次インドシナ戦争という。抵抗したベトナム側は抗仏戦争と呼んだ。)1950年になるとアメリカのトルーマン大統領は、窮地に陥ったフランスを救うために、軍事援助を決定し、インドシナのフランスに武器弾薬を公然と送り続けた。したがってフランス軍と戦っていたホー・チ・ミンを最高指導者とするベトナム独立同盟(ベトミン)側も50年以降、フランスはアメリカの援助なしに戦争を継続できないでいる、フランスは自分自身のために戦っているが、同時にまた「アメリカの雇い兵」でもある、と分析した。この事実からアメリカのベトナム戦争の起源を1950年前後に定められている。

南べトナム民族主義勢力の統合

 1956年以降、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政府は反対勢力の弾圧に乗り出した。南部で労働党勢力を指導していたレ・ズアンは南部革命要綱を作成し、ハノイの党中央に武装闘争を容認するよう求めた。党政治局は、1956年6月の決議で武力を限定的に用いることを認めたがこの時点ではまだ政治闘争による統一選挙の実現を目指していた。1958年夏には南ベトナムの北部にある第5区に革命勢力の訓練基地を作ることを認めたが、武装闘争そのものは認めなかった。その後南部では1960年12月20日に南ベトナム解放民族戦線が結成された。解放戦線の目的は、南部のあらゆる階層の国民に「その社会的地位、政治的・宗教的見解のいずれかにかかわらず」国民としての一体感を培うこと、南ベトナムの自決権、民主主義的自由と私有財産権の尊重、耕作者よる農地の所有、自由経済体制の確立、戦争ではなく交渉による南北統一、という項目が盛り込まれていた。ここからも明らかなように解放戦線は南部社会の多様性を前提に、各階層の利益を守りつつ、単一の政治イデオロギーに支配されず、いずれの大国の軍営にも属さない自由な国家の確立を目指していた。

被害の大きさ

 アメリカの攻撃が基本的に無差別であったために軍人はともかくとして、民間人の死傷者を数え上げることは極めて難しい。また、戦争が終わってみれば北ベトナムの兵士と民間人、あるいは南の解放戦線側の兵士や住民だけでなく、南ベトナム政府(サイゴン政府)軍の兵士や都市部の死者もまた戦争被害者である。一般的に戦争での死者は百数十万人、あるいは200万人以上などと言われるのである。このうち約100万人が兵士という推計もあるため、民間人の死者がいかに莫大であったかが想像できる。さらにベトナムには今でも30万人以上の行方不明者がいる。生活の場が戦場になるということはどういうことなのかベトナム戦争がベトナムの民衆に何を強いたかを存分に示す数字である。

ベトナムの戦後

 解放戦線は多くの非共産主義的な民族主義者を包採し、当初は北ベトナムからの援助を受けていなかったとはいえ、ハノイの労働党が南部民族による自立的な革命運動を認めたということではなかった。むしろ、この組織の結成で労働党が南部を組織的に把握し、ハノイで決定した革命戦略を南部に適応する基盤が整ったといえるだろう。1962年1月、解放戦線は第一回全国大会を開催しそれまで連携していたすべての運動体を統合し、より正統性のある永続的な組織に発展させた。南ベトナムからの米軍の完全撤退と、新政権の樹立という目標を達成するために政治、軍事、外交の3つの戦線で闘争するという方向性が定まった。解放戦線は農村地帯で政府軍にゲリラ戦を挑むと同時に、独自の行政機構を設置して、支配下の地域を解放区として住民に正統な統治機構として認められるように努めた。都市部では世論を動員して、サイゴン政府に対し、敵対行為の終結と対話を求める圧力を作り出すべく運動した。そのようにしてやがて民衆の総蜂起を呼び起こし、サイゴン政府を倒すこそが最終目標だった。1966年11月の政治局会議では、軍事闘争と政治闘争を活用し、戦いながら交渉する戦術を用いる条件を作り出す、という決議が採択されていた。しかし、1967年1月の中央委員会組織では外交闘争すなわちアメリカおよびサイゴン政府との交渉によって勝利を目指す方針を採択した。こうして政治闘争、軍事闘争、外交闘争が結合した「三面闘争」の形が定立され、外交戦線における勝利が最終的な勝利と位置付けられた。

参考文献

ベトナム戦争 民衆にとっての戦場 (1999年 吉澤 南著)   
ベトナム戦争の戦後 (2005年 中野 亜里著) 
'mikuro'


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