バルカン
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== '''バルカンとは''' == | == '''バルカンとは''' == | ||
- | 第一のヨーロッパである古典古代のギリシャ・ヨーロッパの時代に、ヨーロッパで最初に農業が広まったのがバルカンであり、初めて都市が築かれて民主制が進展したのもバルカンである。その後、395年にローマ帝国が東西に分裂し、さらにキリスト教もローマの西方カトリック教会とコンスタンティノープルの東方正教会と分裂して、「第一のヨーロッパ」は西欧世界とビザンツ世界とに分かれる。バルカンはビザンツ世界に組み込まれ、14世紀以降はオスマン帝国の支配下に置かれる。近代の西欧諸国が個を確立した市民層によるナショナリズムを進展させ、「国民国家」の形成に取り組んだ時期に、バルカンではようやく長いオスマン帝国支配からの解放が進み、「民族国家」が形成されていく。これらのバルカン諸国は第一次大戦後、西欧諸国と同様の「国民国家」への転換を試みることになる。しかし、国民統合の道のりは容易ではなく、結局ユーゴスラヴィアのように73年を経て解体してしまう場合も見られた。近代において「最後のヨーロッパ」になったバルカンは、現在もそうした状態が続いているといえる。ヨーロッパは第二次世界大戦後、冷戦によってまた2つに分裂する。今度はソ連を中心とする東側の社会主義陣営とアメリカを中心とする西側の自由主義陣営であった。それから40年がたち1989年に「東欧革命」が生じ、ヨーロッパから東西の壁が消えた。これに伴い、近代の産物である「国民国家」を否定する方向で「第三のヨーロッパ」が目指され、ヨーロッパ統合という壮大な試みの過程が加速された。しかし90年代に入るとバルカンの一国ユーゴスラヴィアでは統合とは逆に、分離・解体の方向に歯車が回転する。クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソヴォ紛争が相次いで引き起こされたためである。分離したバルカンの新国家では、新たに国境が設定されると同時に国家主権が声高に主張されかつてと同様に「国民国家」が進められた結果、むしろ近隣諸国との緊張が高まっているのが現状である。 | + | 第一のヨーロッパである古典古代のギリシャ・ヨーロッパの時代に、ヨーロッパで最初に農業が広まったのがバルカンであり、初めて都市が築かれて民主制が進展したのもバルカンである。その後、395年にローマ帝国が東西に分裂し、さらにキリスト教もローマの西方カトリック教会とコンスタンティノープルの東方正教会と分裂して、「第一のヨーロッパ」は西欧世界とビザンツ世界とに分かれる。バルカンはビザンツ世界に組み込まれ、14世紀以降はオスマン帝国の支配下に置かれる。近代の西欧諸国が個を確立した市民層によるナショナリズムを進展させ、「国民国家」の形成に取り組んだ時期に、バルカンではようやく長いオスマン帝国支配からの解放が進み、「民族国家」が形成されていく。これらのバルカン諸国は第一次大戦後、西欧諸国と同様の「国民国家」への転換を試みることになる。しかし、国民統合の道のりは容易ではなく、結局ユーゴスラヴィアのように73年を経て解体してしまう場合も見られた。近代において「最後のヨーロッパ」になったバルカンは、現在もそうした状態が続いているといえる。ヨーロッパは第二次世界大戦後、冷戦によってまた2つに分裂する。今度はソ連を中心とする東側の社会主義陣営とアメリカを中心とする西側の自由主義陣営であった。それから40年がたち1989年に「東欧革命」が生じ、ヨーロッパから東西の壁が消えた。これに伴い、近代の産物である「国民国家」を否定する方向で「第三のヨーロッパ」が目指され、ヨーロッパ統合という壮大な試みの過程が加速された。しかし90年代に入るとバルカンの一国ユーゴスラヴィアでは統合とは逆に、分離・解体の方向に歯車が回転する。クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソヴォ紛争が相次いで引き起こされたためである。分離したバルカンの新国家では、新たに国境が設定されると同時に国家主権が声高に主張され、かつてと同様に「国民国家」が進められた結果、むしろ近隣諸国との緊張が高まっているのが現状である。 |
== '''国土''' == | == '''国土''' == | ||
- | イベリア半島とイタリア半島では山脈が半島の地峡を守っているが、バルカン半島の山脈は侵入を拒む障害物とはならない。北からも東からもバルカン半島へ容易に接近し、攻撃できる。また、山脈の不規則な並びが谷から谷へと進む移動を妨げる。半島外の地域とコミュニケーションをとるほうが、半島内の各地とコミュニケーションをとるよりも容易であることが多いため、半島内での商取引のほうが費用が掛かり、政治統一のプロセスも複雑になった。 | + | イベリア半島とイタリア半島では山脈が半島の地峡を守っているが、バルカン半島の山脈は侵入を拒む障害物とはならない。北からも東からもバルカン半島へ容易に接近し、攻撃できる。また、山脈の不規則な並びが谷から谷へと進む移動を妨げる。半島外の地域とコミュニケーションをとるほうが、半島内の各地とコミュニケーションをとるよりも容易であることが多いため、半島内での商取引のほうが費用が掛かり、政治統一のプロセスも複雑になった。また一般的に言えば、繁栄には河川が極めて大きな役割を果たす。近代になるまでは交通や輸送には陸上よりも水上のほうが容易で安価だったからだ。だがバルカン半島の河川はただでさえ冬に流れが激しいが、ひどいときは急流過ぎて船が航行できなくなる。そうでなくてもいたずらに曲がりくねった道筋になっている。オスマン帝国の首都へ向かう旅行者や外交官も、ドナウ川の途中で下船し、陸路で旅程を終えることが多かった。 |
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+ | == '''バルカン戦争''' == | ||
+ | 1912年3月、セルビアとブルガリアは「両国の独立と保全を守り、バルカンのオスマン帝国領を侵略しようとする大国のいかなる企てにも反対するために、一致団結する」ことに合意した。ギリシャとモンテネグロもすぐに参加した。ロシアの外交官はこの4か国がオーストリアに対する防衛ブロックを形成しようとしていると考えたが、このバルカン同盟がオスマン帝国を攻撃しようとしていることに気づいた時にはもう遅かった。1912年から13年にかけての第一次バルカン戦争の結果、数週間足らずでヨーロッパからオスマン帝国の勢力が消えた。勝利の立役者はセルビアとギリシャで、両国は広大な領土を新たに手にした。それに比してブルガリアは手にした領土がかなり少なく、しかもほどなくして元同盟国に宣戦布告した第二次バルカン戦争に敗れ、状況がさらに悪化した。独立したアルバニアは列強に承認され、貧欲な近隣諸国から守られた。オスマン帝国を別にすれば、多くの点で最大の敗者はオーストリア=ハンガリーだった。しかも今や、成功を収めた拡張主義者セルビアに直面していた。オーストリアはアルバニアを対抗勢力に仕立て上げようとしたが、コソヴォと近隣の土地がセルビアとモンテネグロに割譲されるのを拒むことができなかった。 | ||
+ | 実のところ、二度にわたるバルカン戦争を戦ってきたセルビアは、三度目の戦争を始められる状況ではなかった。しかしウィーンでは1914年の夏、セルビアをこれきり完全に壊滅させる機は熟した、と多くの人が思っていた。ドイツが支援してくれることも多くの人は知っていた。その一方、1980年のボスニア危機での出来事からして、ロシアがセルビアを支援するのはほぼ確実だった。ロシアにとってみれば二度もメンツを失うことはできないからだ。こうして列強は衝突せざるを得なくなった。サラエボでオーストリア大公が暗殺された後、セルビア政府はオーストラリアの求めた譲歩にすべて同意した。それでも十分とはいえなかった。3年間で3度目のバルカン戦争は、オーストリアが始めたものだった。ヨーロッパの競合する同盟が定めた義務を果たすべく、それから一週間もたたないうちに列強各地がこの戦争に巻き込まれ、紛争地域は欧州大陸規模に拡大するのであった。 | ||
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+ | == '''参考文献''' == | ||
+ | バルカンの歴史 (2001年 柴 宜弘著) <br>バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史 (2017年 M・マゾワー著) <br>'mikuro' |
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目次 |
バルカンとは
第一のヨーロッパである古典古代のギリシャ・ヨーロッパの時代に、ヨーロッパで最初に農業が広まったのがバルカンであり、初めて都市が築かれて民主制が進展したのもバルカンである。その後、395年にローマ帝国が東西に分裂し、さらにキリスト教もローマの西方カトリック教会とコンスタンティノープルの東方正教会と分裂して、「第一のヨーロッパ」は西欧世界とビザンツ世界とに分かれる。バルカンはビザンツ世界に組み込まれ、14世紀以降はオスマン帝国の支配下に置かれる。近代の西欧諸国が個を確立した市民層によるナショナリズムを進展させ、「国民国家」の形成に取り組んだ時期に、バルカンではようやく長いオスマン帝国支配からの解放が進み、「民族国家」が形成されていく。これらのバルカン諸国は第一次大戦後、西欧諸国と同様の「国民国家」への転換を試みることになる。しかし、国民統合の道のりは容易ではなく、結局ユーゴスラヴィアのように73年を経て解体してしまう場合も見られた。近代において「最後のヨーロッパ」になったバルカンは、現在もそうした状態が続いているといえる。ヨーロッパは第二次世界大戦後、冷戦によってまた2つに分裂する。今度はソ連を中心とする東側の社会主義陣営とアメリカを中心とする西側の自由主義陣営であった。それから40年がたち1989年に「東欧革命」が生じ、ヨーロッパから東西の壁が消えた。これに伴い、近代の産物である「国民国家」を否定する方向で「第三のヨーロッパ」が目指され、ヨーロッパ統合という壮大な試みの過程が加速された。しかし90年代に入るとバルカンの一国ユーゴスラヴィアでは統合とは逆に、分離・解体の方向に歯車が回転する。クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソヴォ紛争が相次いで引き起こされたためである。分離したバルカンの新国家では、新たに国境が設定されると同時に国家主権が声高に主張され、かつてと同様に「国民国家」が進められた結果、むしろ近隣諸国との緊張が高まっているのが現状である。
国土
イベリア半島とイタリア半島では山脈が半島の地峡を守っているが、バルカン半島の山脈は侵入を拒む障害物とはならない。北からも東からもバルカン半島へ容易に接近し、攻撃できる。また、山脈の不規則な並びが谷から谷へと進む移動を妨げる。半島外の地域とコミュニケーションをとるほうが、半島内の各地とコミュニケーションをとるよりも容易であることが多いため、半島内での商取引のほうが費用が掛かり、政治統一のプロセスも複雑になった。また一般的に言えば、繁栄には河川が極めて大きな役割を果たす。近代になるまでは交通や輸送には陸上よりも水上のほうが容易で安価だったからだ。だがバルカン半島の河川はただでさえ冬に流れが激しいが、ひどいときは急流過ぎて船が航行できなくなる。そうでなくてもいたずらに曲がりくねった道筋になっている。オスマン帝国の首都へ向かう旅行者や外交官も、ドナウ川の途中で下船し、陸路で旅程を終えることが多かった。
バルカン戦争
1912年3月、セルビアとブルガリアは「両国の独立と保全を守り、バルカンのオスマン帝国領を侵略しようとする大国のいかなる企てにも反対するために、一致団結する」ことに合意した。ギリシャとモンテネグロもすぐに参加した。ロシアの外交官はこの4か国がオーストリアに対する防衛ブロックを形成しようとしていると考えたが、このバルカン同盟がオスマン帝国を攻撃しようとしていることに気づいた時にはもう遅かった。1912年から13年にかけての第一次バルカン戦争の結果、数週間足らずでヨーロッパからオスマン帝国の勢力が消えた。勝利の立役者はセルビアとギリシャで、両国は広大な領土を新たに手にした。それに比してブルガリアは手にした領土がかなり少なく、しかもほどなくして元同盟国に宣戦布告した第二次バルカン戦争に敗れ、状況がさらに悪化した。独立したアルバニアは列強に承認され、貧欲な近隣諸国から守られた。オスマン帝国を別にすれば、多くの点で最大の敗者はオーストリア=ハンガリーだった。しかも今や、成功を収めた拡張主義者セルビアに直面していた。オーストリアはアルバニアを対抗勢力に仕立て上げようとしたが、コソヴォと近隣の土地がセルビアとモンテネグロに割譲されるのを拒むことができなかった。 実のところ、二度にわたるバルカン戦争を戦ってきたセルビアは、三度目の戦争を始められる状況ではなかった。しかしウィーンでは1914年の夏、セルビアをこれきり完全に壊滅させる機は熟した、と多くの人が思っていた。ドイツが支援してくれることも多くの人は知っていた。その一方、1980年のボスニア危機での出来事からして、ロシアがセルビアを支援するのはほぼ確実だった。ロシアにとってみれば二度もメンツを失うことはできないからだ。こうして列強は衝突せざるを得なくなった。サラエボでオーストリア大公が暗殺された後、セルビア政府はオーストラリアの求めた譲歩にすべて同意した。それでも十分とはいえなかった。3年間で3度目のバルカン戦争は、オーストリアが始めたものだった。ヨーロッパの競合する同盟が定めた義務を果たすべく、それから一週間もたたないうちに列強各地がこの戦争に巻き込まれ、紛争地域は欧州大陸規模に拡大するのであった。
参考文献
バルカンの歴史 (2001年 柴 宜弘著)
バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史 (2017年 M・マゾワー著)
'mikuro'