中東戦争8

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 +中東戦争の背景と第一次中東戦争
 +1948年、国連はパレスチナ分割案を提示し、解決を図りそれを受け入れたユダヤ人がイスラエルを建国した。しかし、その分割はアラブ人側に不利であったため、アラブ連盟が反発し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発することとなった。
 +1948年のパレスチナ戦争は全面的にイスラエルの勝利となり、イスラエルは事実上、パレスチナを占拠して国家を建設した。敗れたアラブ諸国は、王政や豪族連合体の諸国であったため、戦闘能力も結束力も弱かった。そのことをアラブ側が深刻に受け止め、まずエジプトで自由将校団による王制打倒のエジプト革命が行われて共和政となり、イラクにも波及、アラブ側にも大きな転機となった。こうしてパレスチナ問題はパレスチナにとどまらず、イスラエル(及びその背後の英仏、アメリカ)対アラブ諸国の中東全域を舞台とした戦争に発展していくことになる。
-中東戦争の背景と第一次中東戦争 
- 1948年、国連はパレスチナ分割案を提示し、解決を図りそれを受け入れたユダヤ人がイスラエルを建国した。しかし、その分割はアラブ人側に不利であったため、アラブ連盟が反発し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発することとなった。+ 
- 1948年のパレスチナ戦争は全面的にイスラエルの勝利となり、イスラエルは事実上、パレスチナを占拠して国家を建設した。敗れたアラブ諸国は、王政や豪族連合体の諸国であったため、戦闘能力も結束力も弱かった。そのことをアラブ側が深刻に受け止め、まずエジプトで自由将校団による王制打倒のエジプト革命が行われて共和政となり、イラクにも波及、アラブ側にも大きな転機となった。こうしてパレスチナ問題はパレスチナにとどまらず、イスラエル(及びその背後の英仏、アメリカ)対アラブ諸国の中東全域を舞台とした戦争に発展していくことになる。 +----
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第二次中東戦争 第二次中東戦争
- 1956年の第ニ次中東戦争は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したところから、イギリス・フランスがイスラエルと共にエジプトを攻撃し、イスラエル軍はシナイ半島を占領した。エジプトは戦争では敗れたが、国際世論はアメリカもイギリス・フランスを非難し、ナセルがアラブ世界の英雄として登場し、以後のアラブ勢力はナセルを中心に展開される。+1956年の第ニ次中東戦争は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したところから、イギリス・フランスがイスラエルと共にエジプトを攻撃し、イスラエル軍はシナイ半島を占領した。エジプトは戦争では敗れたが、国際世論はアメリカもイギリス・フランスを非難し、ナセルがアラブ世界の英雄として登場し、以後のアラブ勢力はナセルを中心に展開される。
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第三次中東戦争 第三次中東戦争
- 国際世論がアラブよりになり、英仏も直接的にイスラエルを支援できなくなったことで、イスラエルはみずから空軍など軍事力の強化に走り、1967年の第三次中東戦争を仕掛け、6日戦争と言われる短期間に、シナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ地区などを占領する一方的勝利を収めた。これでナセルの権威は失墜することになった。間もなくナセルは死去した。+国際世論がアラブよりになり、英仏も直接的にイスラエルを支援できなくなったことで、イスラエルはみずから空軍など軍事力の強化に走り、1967年の第三次中東戦争を仕掛け、6日戦争と言われる短期間に、シナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ地区などを占領する一方的勝利を収めた。これでナセルの権威は失墜することになった。間もなくナセルは死去した。
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第四次中東戦争とその後 第四次中東戦争とその後
- ナセルの次に台頭したエジプトのサダト大統領は、1973年にイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させた。この第四次中東戦争は、今までの戦いにおいて初めて敗北したイスラエルは間もなく反撃したが、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束、さらに石油戦略を展開して有利な休戦に持ち込み、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなった。そして、ついに1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し、対等な交渉相手として和平交渉に入ることを表明した。翌78年には、アメリカのカーター大統領の仲介によりイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平が実現された。これによってエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係は解消され、焦点はパレスチナ=ゲリラをひきいて反イスラエル闘争を展開するパレスチナ解放機構(PLO)の動きに移っていった。 +ナセルの次に台頭したエジプトのサダト大統領は、1973年にイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させた。この第四次中東戦争は、今までの戦いにおいて初めて敗北したイスラエルは間もなく反撃したが、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束、さらに石油戦略を展開して有利な休戦に持ち込み、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなった。そして、ついに1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し、対等な交渉相手として和平交渉に入ることを表明した。翌78年には、アメリカのカーター大統領の仲介によりイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平が実現された。これによってエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係は解消され、焦点はパレスチナ=ゲリラをひきいて反イスラエル闘争を展開するパレスチナ解放機構(PLO)の動きに移っていった。 

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中東戦争の背景と第一次中東戦争

1948年、国連はパレスチナ分割案を提示し、解決を図りそれを受け入れたユダヤ人がイスラエルを建国した。しかし、その分割はアラブ人側に不利であったため、アラブ連盟が反発し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発することとなった。 1948年のパレスチナ戦争は全面的にイスラエルの勝利となり、イスラエルは事実上、パレスチナを占拠して国家を建設した。敗れたアラブ諸国は、王政や豪族連合体の諸国であったため、戦闘能力も結束力も弱かった。そのことをアラブ側が深刻に受け止め、まずエジプトで自由将校団による王制打倒のエジプト革命が行われて共和政となり、イラクにも波及、アラブ側にも大きな転機となった。こうしてパレスチナ問題はパレスチナにとどまらず、イスラエル(及びその背後の英仏、アメリカ)対アラブ諸国の中東全域を舞台とした戦争に発展していくことになる。




第二次中東戦争

1956年の第ニ次中東戦争は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したところから、イギリス・フランスがイスラエルと共にエジプトを攻撃し、イスラエル軍はシナイ半島を占領した。エジプトは戦争では敗れたが、国際世論はアメリカもイギリス・フランスを非難し、ナセルがアラブ世界の英雄として登場し、以後のアラブ勢力はナセルを中心に展開される。




第三次中東戦争

国際世論がアラブよりになり、英仏も直接的にイスラエルを支援できなくなったことで、イスラエルはみずから空軍など軍事力の強化に走り、1967年の第三次中東戦争を仕掛け、6日戦争と言われる短期間に、シナイ半島・ヨルダン川西岸・ガザ地区などを占領する一方的勝利を収めた。これでナセルの権威は失墜することになった。間もなくナセルは死去した。




第四次中東戦争とその後

ナセルの次に台頭したエジプトのサダト大統領は、1973年にイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させた。この第四次中東戦争は、今までの戦いにおいて初めて敗北したイスラエルは間もなく反撃したが、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束、さらに石油戦略を展開して有利な休戦に持ち込み、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなった。そして、ついに1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し、対等な交渉相手として和平交渉に入ることを表明した。翌78年には、アメリカのカーター大統領の仲介によりイスラエルのベギン首相とのあいだでエジプト=イスラエルの和平が実現された。これによってエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係は解消され、焦点はパレスチナ=ゲリラをひきいて反イスラエル闘争を展開するパレスチナ解放機構(PLO)の動きに移っていった。 



出典:http://www.y-history.net/appendix/wh1703-019.html

http://www.y-history.net/appendix/wh1601-143.html


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