アラブの春5
出典: Jinkawiki
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アラブの春とは
2010年末のチュニジアで勃発した体制権力への異議申し立て運動(いわゆるジャスミン革命)に端を発し,広くアラブ世界に伝播した反独裁政権運動。チュニジア人露天商が焼身自殺という手段で行なった路上抗議運動が,またたく間に近隣のアラブ諸国に飛び火し,各地で大規模な大衆抗議運動となった。その結果 2011年1月にチュニジアのベンアリ政権,2月にエジプトのムバラク政権,8月にリビアのカダフィ政権の長期独裁支配が瓦解した。動乱は以降も収束せず,2012年にシリアは事実上の内戦状態に陥り,イエメンやバーレーンでも社会秩序の動揺が続いた。このほか,ヨルダン,モロッコ,サウジアラビア,クウェート,西サハラなどでも大衆の街頭運動と官憲との衝突が見られた。おしなべて似たような構造をもつ権威主義的体制への不満が,主として都市部の中間層が掲げる民主化・自由化への要求と結びつき,またフェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアの浸透が新たなかたちでの大衆の動員につながったこともあって,アラビア語を共通の母語とするアラブ世界にほぼ同時的な動乱の連鎖が起こったと考えられる。しかし,各国の政治・社会改革要求の内容や方向は必ずしも一様ではなく,独裁体制を打倒したチュニジア,エジプト,リビアも,その後すみやかに新体制に移行できたわけではなかった。「アラブの春」の呼称は「プラハの春」など東ヨーロッパの民主化運動にならったものであるが,当時の西ヨーロッパをモデルとしたプラハの春とは異なりイスラム的価値観を抱える中東で,どこまで民主化が進むかに注目が集まった。
アラブ諸国の「国家」崩壊
「アラブの春」は、2011年の初期段階では、抑圧的な政権への社会からの異議申し立ての噴出であり、アラブ諸国の間での連鎖と伝搬だった。社会からの変動圧力に直面した各国の政権の対応は分かれた。 チュニジアやエジプトのように、旧政権が比較的速やかに権力を譲り渡した国もある。それらの国では政権内に移行期の統治の受け皿があり、大統領や側近など国民の批判が集中する政権中枢を見捨て、切り離すことで、政権は崩壊しながらも体制の存続を図った。これらの国では、政権の崩壊が内戦や国家の崩壊をもたらすことはどうにか避けられた。 対照的に、リビアやイエメン、シリアやバーレーンのように、政権が国民を銃撃してでも権力の座に固執する事例も続出した。リビアやイエメンでは、軍・特殊部隊が国民に銃を向けると、軍の一部が大規模に離反し、内戦や国家分裂に陥った。逆にシリアやバーレーンでは軍・特殊部隊は政権と一体となり、デモによる社会からの異議申し立てを封殺したが、シリアでは脱走兵が「自由シリア軍」を結成、その他のイスラーム系諸勢力と共に長期にわたる泥沼の内戦に突入した。そこにアル=カーイダの影響を受けたヌスラ戦線や、イラクの台頭した「イスラーム国」が参入して地歩を築いた。 このようにして「アラブの春」は、チュニジアでの例外的な新体制の安定化を除けば、戦争や国家崩壊を各地にもたらした。
参考引用文献
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