日清戦争6

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 開戦前、清帝国は「眠れる獅子」といわれ、大国の一つとしてみなされていた。巨艦定遠・鎮遠を擁する北洋艦隊は東洋一とみられていたし、清仏戦争時、ヴェトナムでのランソンの戦いでフランスを破った清朝陸軍の力も侮りがたいものとおもわれていた。しかし、1880年代後半以来、清朝の近代化政策は多くの問題を抱えるようになった。日清戦争における陸海の戦闘は、そのことを白日のもとにさらす結果となった。黄海の海戦では、北洋艦隊は装備の更新の不備とため、その能力を発揮することなく壊滅的な打撃を受けて敗退し、黄海の制海権は日本が握ることとなった。陸戦においても、清軍は平壌の戦い以後つぎつぎと敗戦を重ね、日本軍は朝鮮半島を越えて中国本土に攻め入り、遼東半島を制圧し、北京を窺う勢いを見せたのである。  開戦前、清帝国は「眠れる獅子」といわれ、大国の一つとしてみなされていた。巨艦定遠・鎮遠を擁する北洋艦隊は東洋一とみられていたし、清仏戦争時、ヴェトナムでのランソンの戦いでフランスを破った清朝陸軍の力も侮りがたいものとおもわれていた。しかし、1880年代後半以来、清朝の近代化政策は多くの問題を抱えるようになった。日清戦争における陸海の戦闘は、そのことを白日のもとにさらす結果となった。黄海の海戦では、北洋艦隊は装備の更新の不備とため、その能力を発揮することなく壊滅的な打撃を受けて敗退し、黄海の制海権は日本が握ることとなった。陸戦においても、清軍は平壌の戦い以後つぎつぎと敗戦を重ね、日本軍は朝鮮半島を越えて中国本土に攻め入り、遼東半島を制圧し、北京を窺う勢いを見せたのである。
==日清戦争の講和== ==日清戦争の講和==
- 日清戦争の講和条約は、下関条約である。条約の主な内容は、1.朝鮮を独立国とすること 2.遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する 3.2億両の賠償金 4.開港場における日本人の企業設置権を認めるなどであった。この下関条約によって、最後の朝貢国であった朝鮮王国が冊封体制からはずれ、2000年以上続いた東アジアの国際秩序は名実ともに終焉を迎えた。また、遼東半島ほかの領土割譲を受けたことは、日本が植民地をもって欧米列強とともに大陸経営に乗り出したことを意味したのである。+ 日清戦争の講和条約は、下関条約である。条約の主な内容は、1.朝鮮を独立国とすること 2.遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する 3.2億両の賠償金 4.開港場における日本人の企業設置権を認めるなどである。この下関条約によって、最後の朝貢国であった朝鮮王国が冊封体制からはずれ、2000年以上続いた東アジアの国際秩序は名実ともに終焉を迎えたのである。また、遼東半島ほかの領土割譲を受けたことは、日本が植民地をもって欧米列強とともに大陸経営に乗り出したことを意味したのである。
==日清戦争後== ==日清戦争後==
 日清戦争前、日中韓三国はともに欧米列強からの植民地化の脅威を受けながら近代化を進めるという意味では、国際的には比較的似た立場にあった。しかし、日清戦争後、日本は欧米に倣った帝国主義としてのアジア侵略の道を歩み始め、中国・朝鮮は徐々に植民地状態へと落ち込んでいった。日清戦争とは東アジアの三国にとり、そののちの歴史を方向づける決定的な意味をもつ戦争であったのである。  日清戦争前、日中韓三国はともに欧米列強からの植民地化の脅威を受けながら近代化を進めるという意味では、国際的には比較的似た立場にあった。しかし、日清戦争後、日本は欧米に倣った帝国主義としてのアジア侵略の道を歩み始め、中国・朝鮮は徐々に植民地状態へと落ち込んでいった。日清戦争とは東アジアの三国にとり、そののちの歴史を方向づける決定的な意味をもつ戦争であったのである。

2018年1月26日 (金) 20:01の版

目次

日清戦争の原因

 日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日中の確執が原因となって起こった戦争である。朝鮮半島が欧米列強の戦力下に入ることは、日本にとっても、中国にとっても大きな脅威であった。このため朝鮮の近代化を促すとともに、自国の影響下に朝鮮を取り込もうとする動きが高まっていく。その中で、1894年甲午農民戦争が発生し、その鎮圧のために清朝、日本ともに部隊を送ったのである。

日清戦争の内容

 開戦前、清帝国は「眠れる獅子」といわれ、大国の一つとしてみなされていた。巨艦定遠・鎮遠を擁する北洋艦隊は東洋一とみられていたし、清仏戦争時、ヴェトナムでのランソンの戦いでフランスを破った清朝陸軍の力も侮りがたいものとおもわれていた。しかし、1880年代後半以来、清朝の近代化政策は多くの問題を抱えるようになった。日清戦争における陸海の戦闘は、そのことを白日のもとにさらす結果となった。黄海の海戦では、北洋艦隊は装備の更新の不備とため、その能力を発揮することなく壊滅的な打撃を受けて敗退し、黄海の制海権は日本が握ることとなった。陸戦においても、清軍は平壌の戦い以後つぎつぎと敗戦を重ね、日本軍は朝鮮半島を越えて中国本土に攻め入り、遼東半島を制圧し、北京を窺う勢いを見せたのである。

日清戦争の講和

 日清戦争の講和条約は、下関条約である。条約の主な内容は、1.朝鮮を独立国とすること 2.遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する 3.2億両の賠償金 4.開港場における日本人の企業設置権を認めるなどである。この下関条約によって、最後の朝貢国であった朝鮮王国が冊封体制からはずれ、2000年以上続いた東アジアの国際秩序は名実ともに終焉を迎えたのである。また、遼東半島ほかの領土割譲を受けたことは、日本が植民地をもって欧米列強とともに大陸経営に乗り出したことを意味したのである。

日清戦争後

 日清戦争前、日中韓三国はともに欧米列強からの植民地化の脅威を受けながら近代化を進めるという意味では、国際的には比較的似た立場にあった。しかし、日清戦争後、日本は欧米に倣った帝国主義としてのアジア侵略の道を歩み始め、中国・朝鮮は徐々に植民地状態へと落ち込んでいった。日清戦争とは東アジアの三国にとり、そののちの歴史を方向づける決定的な意味をもつ戦争であったのである。

参考文献

 『中国の歴史を知るための60章』(2011)石井昭男 明石書店


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