ベトナム戦争28
出典: Jinkawiki
2018年1月3日 (水) 20:45の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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- | 1.第二次世界大戦前のベトナム | + | =第二次世界大戦前のベトナム= |
第二次世界大戦前のベトナムはフランスの植民地となっており、フランス領インドシナ連邦としてフランスに従属していた。20世紀前半からベトナムでは独立運動が起きており、ファン=ボイ=チャウを中心に、フランスからの独立、立憲君主制の樹立を目指す運動が組織されており、この組織は維新会と呼ばれるようになっていた。維新会は、日露戦争に勝利するなど、強国化を果たしつつあった日本の姿に鼓舞されて、日本から軍事援助を得ようとする活動、日本へ留学生を送り新しい学問や技術を学ばせようとするドンズー運動(東遊運動)も組織された。(結果は日本とフランスの弾圧により失敗に終わった) | 第二次世界大戦前のベトナムはフランスの植民地となっており、フランス領インドシナ連邦としてフランスに従属していた。20世紀前半からベトナムでは独立運動が起きており、ファン=ボイ=チャウを中心に、フランスからの独立、立憲君主制の樹立を目指す運動が組織されており、この組織は維新会と呼ばれるようになっていた。維新会は、日露戦争に勝利するなど、強国化を果たしつつあった日本の姿に鼓舞されて、日本から軍事援助を得ようとする活動、日本へ留学生を送り新しい学問や技術を学ばせようとするドンズー運動(東遊運動)も組織された。(結果は日本とフランスの弾圧により失敗に終わった) | ||
- | 2.第二次世界大戦中のベトナム | + | =第二次世界大戦中のベトナム= |
ドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦は始まった。ベトナムはフランスの植民地であったが、フランスはドイツに敗北し1940年6月にドイツに降伏する。さらに日本が資源を求めて南方方面に侵攻。日本が大戦中は日本がインドシナ連邦に進駐する。 | ドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦は始まった。ベトナムはフランスの植民地であったが、フランスはドイツに敗北し1940年6月にドイツに降伏する。さらに日本が資源を求めて南方方面に侵攻。日本が大戦中は日本がインドシナ連邦に進駐する。 | ||
しかし、日本も1945年8月に降伏。第二次世界大戦が終結する。日本の敗北を受けて、1945年9月、北部にホーチ・ミン率いるベトナム独立同盟がベトナム民主共和国を樹立することを宣言する。 | しかし、日本も1945年8月に降伏。第二次世界大戦が終結する。日本の敗北を受けて、1945年9月、北部にホーチ・ミン率いるベトナム独立同盟がベトナム民主共和国を樹立することを宣言する。 | ||
- | 3.第二次世界大戦後のベトナム | + | =第二次世界大戦後のベトナム= |
しかし、フランスはこの独立を認めたくない。そのため、フランスは南部に傀儡政権を樹立させる。この傀儡政権は、ホーチ・ミンの北ベトナムと争うこととなる。 | しかし、フランスはこの独立を認めたくない。そのため、フランスは南部に傀儡政権を樹立させる。この傀儡政権は、ホーチ・ミンの北ベトナムと争うこととなる。 | ||
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だが、南ベトナムのゴ・ディン・ディエム政権の政治は自らに反対する者がいれば秘密警察を使い弾圧し、さらに政権がキリスト教中心であったこともあり、南ベトナムの上座部仏教の僧侶たちを苦しめるなど、まさに恐怖政治そのものであった。このような現状から、国民が反政府化し、1960年には南ベトナム解放戦線(ベトミン)が結成された。ベトミンは北ベトナムの援助を受け、政府軍と互角に戦うまでとなった。この頃、南ベトナムでは軍部によるクーデターが発生。ゴ・ディン・ディエム大統領は殺され軍事政府が成立することとなる。 | だが、南ベトナムのゴ・ディン・ディエム政権の政治は自らに反対する者がいれば秘密警察を使い弾圧し、さらに政権がキリスト教中心であったこともあり、南ベトナムの上座部仏教の僧侶たちを苦しめるなど、まさに恐怖政治そのものであった。このような現状から、国民が反政府化し、1960年には南ベトナム解放戦線(ベトミン)が結成された。ベトミンは北ベトナムの援助を受け、政府軍と互角に戦うまでとなった。この頃、南ベトナムでは軍部によるクーデターが発生。ゴ・ディン・ディエム大統領は殺され軍事政府が成立することとなる。 | ||
- | 4.トンキン湾事件 | + | =トンキン湾事件= |
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+ | 1964年にアメリカの軍艦が北ベトナムの警備艇に攻撃を受けた事件。この事件をきっかけにアメリカはベトナム戦争への介入を決定する。後の1970年にトンキン湾事件はアメリカのでっち上げであったことが明らかとなる。アメリカとしては、軍事介入するきっかけが欲しくて行われたのではないかと言われている。 | ||
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+ | =アメリカの軍事介入と北爆の開始= | ||
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+ | 1965年よりアメリカは北ベトナムへ大規模な爆撃を開始する。このことは北爆と呼ばれている。(どれくらい規模が大きかったと言われると、アメリカが太平洋戦争時に日本に落とした爆弾は13万トン。北ベトナムに落とした爆弾は255万トンで日本の19倍の量である。)このような攻撃に対して、解放戦線側(北ベトナム)はジャングルでのゲリラ戦を展開する。これにより地の利がある解放戦線側が有利となる。このゲリラ戦を封じるためにアメリカはジャングルに枯葉剤を撒くことでゲリラ戦を封じようとするも効果は薄かった。アメリカが苦戦しているなか、1968年に解放戦線側は南ベトナムに大攻勢を行う。(テト攻勢)この攻撃で解放戦線側は4万人を失うものの、南ベトナムとアメリカも大打撃を受けることとなる。この攻撃がきっかけとなり、アメリカ国内ではベトナム戦争への反戦運動が展開される。これをうけ、当時の大統領ジョンソンは3月に次期大統領選への立候補を辞退する。1969年の1月、新大統領であるニクソンが一部のアメリカ兵の撤退を決めると、徐々に戦争を南ベトナムに委ねていくようになる。(1973年3月末には完全撤退が完了する。)アメリカが戦争から手を引き始めたことから、南ベトナムは劣勢となり1975年の4月30日に南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナムに陥落、無血開城されベトナム戦争は終結した。 | ||
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+ | =戦争後のアメリカへの影響= | ||
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+ | 1960年代後半頃からアメリカ経済は立ち行かなくなるが、その原因がベトナム戦争に財政を使い過ぎたと言われている。これは1971年8月に起きた、ニクソンショックとも関係がある。また、1973年に起きたオイルショックも重なり、アメリカ国内の景気は後退を始めていくこととなる。 | ||
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+ | http://www12.plala.or.jp/rekisi/betonamusennsou.html | ||
- | 1964年にアメリカの軍艦が北ベトナムの警備艇に攻撃を受けた事件。この事件をきっかけにアメリカはベトナム戦争への介入を決定する。後の1970年にトンキン湾事件はアメリカのでっち上げであったことが明らかとなる。アメリカとしては、軍事介入するきっかけが欲しくて行われたのではないかと言われている | ||
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ベトナム戦争とは1965年から1975年4月まで行われたベトナム内での内戦である。この戦争は南ベトナムと北ベトナムとの争いだけではなく、南ベトナム(ベトナム共和国)にはアメリカ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)にはソ連がつくなど、冷戦の影響もあった内戦であった。
目次 |
第二次世界大戦前のベトナム
第二次世界大戦前のベトナムはフランスの植民地となっており、フランス領インドシナ連邦としてフランスに従属していた。20世紀前半からベトナムでは独立運動が起きており、ファン=ボイ=チャウを中心に、フランスからの独立、立憲君主制の樹立を目指す運動が組織されており、この組織は維新会と呼ばれるようになっていた。維新会は、日露戦争に勝利するなど、強国化を果たしつつあった日本の姿に鼓舞されて、日本から軍事援助を得ようとする活動、日本へ留学生を送り新しい学問や技術を学ばせようとするドンズー運動(東遊運動)も組織された。(結果は日本とフランスの弾圧により失敗に終わった)
第二次世界大戦中のベトナム
ドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦は始まった。ベトナムはフランスの植民地であったが、フランスはドイツに敗北し1940年6月にドイツに降伏する。さらに日本が資源を求めて南方方面に侵攻。日本が大戦中は日本がインドシナ連邦に進駐する。 しかし、日本も1945年8月に降伏。第二次世界大戦が終結する。日本の敗北を受けて、1945年9月、北部にホーチ・ミン率いるベトナム独立同盟がベトナム民主共和国を樹立することを宣言する。
第二次世界大戦後のベトナム
しかし、フランスはこの独立を認めたくない。そのため、フランスは南部に傀儡政権を樹立させる。この傀儡政権は、ホーチ・ミンの北ベトナムと争うこととなる。 この戦争は8年に亘って行われ、最終的にはフランスの敗北で終わる。最終的には1954年7月のジュネーブ協定により北緯17度線を境界として、ベトナムは分断されることとなる。南ベトナムはアメリカの後ろ盾を得ていたゴ・ディン・ディエムが大統領となりベトナム共和国となる。 だが、南ベトナムのゴ・ディン・ディエム政権の政治は自らに反対する者がいれば秘密警察を使い弾圧し、さらに政権がキリスト教中心であったこともあり、南ベトナムの上座部仏教の僧侶たちを苦しめるなど、まさに恐怖政治そのものであった。このような現状から、国民が反政府化し、1960年には南ベトナム解放戦線(ベトミン)が結成された。ベトミンは北ベトナムの援助を受け、政府軍と互角に戦うまでとなった。この頃、南ベトナムでは軍部によるクーデターが発生。ゴ・ディン・ディエム大統領は殺され軍事政府が成立することとなる。
トンキン湾事件
1964年にアメリカの軍艦が北ベトナムの警備艇に攻撃を受けた事件。この事件をきっかけにアメリカはベトナム戦争への介入を決定する。後の1970年にトンキン湾事件はアメリカのでっち上げであったことが明らかとなる。アメリカとしては、軍事介入するきっかけが欲しくて行われたのではないかと言われている。
アメリカの軍事介入と北爆の開始
1965年よりアメリカは北ベトナムへ大規模な爆撃を開始する。このことは北爆と呼ばれている。(どれくらい規模が大きかったと言われると、アメリカが太平洋戦争時に日本に落とした爆弾は13万トン。北ベトナムに落とした爆弾は255万トンで日本の19倍の量である。)このような攻撃に対して、解放戦線側(北ベトナム)はジャングルでのゲリラ戦を展開する。これにより地の利がある解放戦線側が有利となる。このゲリラ戦を封じるためにアメリカはジャングルに枯葉剤を撒くことでゲリラ戦を封じようとするも効果は薄かった。アメリカが苦戦しているなか、1968年に解放戦線側は南ベトナムに大攻勢を行う。(テト攻勢)この攻撃で解放戦線側は4万人を失うものの、南ベトナムとアメリカも大打撃を受けることとなる。この攻撃がきっかけとなり、アメリカ国内ではベトナム戦争への反戦運動が展開される。これをうけ、当時の大統領ジョンソンは3月に次期大統領選への立候補を辞退する。1969年の1月、新大統領であるニクソンが一部のアメリカ兵の撤退を決めると、徐々に戦争を南ベトナムに委ねていくようになる。(1973年3月末には完全撤退が完了する。)アメリカが戦争から手を引き始めたことから、南ベトナムは劣勢となり1975年の4月30日に南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナムに陥落、無血開城されベトナム戦争は終結した。
戦争後のアメリカへの影響
1960年代後半頃からアメリカ経済は立ち行かなくなるが、その原因がベトナム戦争に財政を使い過ぎたと言われている。これは1971年8月に起きた、ニクソンショックとも関係がある。また、1973年に起きたオイルショックも重なり、アメリカ国内の景気は後退を始めていくこととなる。
<参考>
https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89-129743
http://www12.plala.or.jp/rekisi/betonamusennsou.html