水俣病7
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水俣病とは1956年5月1日に熊本県水俣市で公式発見された公害病である。 | 水俣病とは1956年5月1日に熊本県水俣市で公式発見された公害病である。 | ||
- | == 発生の原因・概要 == | + | == 発生の原因・概要 == |
+ | 水俣病の主な原因として化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚などの魚介類が吸収して、 あるいは食物連鎖を通じて体内に蓄積し、これを食べた住民の間に発生した神経疾患の公害病である。 | ||
+ | 熊本県水俣湾周辺で発生し、始めは原因の分からない神経疾患として取り扱われていた。その後新潟県阿賀野川流域においても発生が確認されている。 | ||
+ | 水俣湾周辺の水俣病については、昭和31年(1956)5月、初めて患者の発生が報告され、その年の末には、52人の患者が確認されている。 この疾患は昭和32年(1957)以降「水俣病」と呼ばれるようになった。 | ||
+ | 阿賀野川流域の水俣病については、昭和40年(1965)5月に患者発生が報告され、その年の7月には26人の患者とそのうちの5名の死亡が確認されている。 | ||
- | 水俣病は、化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚、エビ、カニ、貝などの魚介類が直接エラや消化管から吸収して、 あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的にたくさん食べた住民の間に発生した中毒性の神経疾患です。 | + | == 水俣病による障害 == |
- | 熊本県水俣湾周辺を中心とする八代海沿岸で発生し、始めは原因の分からない神経疾患としてあつかわれていました。その後新潟県阿賀野川流域においても発生が確認されました。 | + | ①わけもなくころぶ、まっすぐ歩けない、日常の動作が思うようにできないなどの運動失調 |
- | 水俣湾周辺の水俣病については、昭和31年(1956)5月、初めて患者の発生が報告され、その年の末には、52人の患者が確認されました。 この疾患は昭和32年(1957)以降「水俣病」と呼ばれるようになりました。 | + | |
- | 阿賀野川流域の水俣病については、昭和40年(1965)5月に患者発生が報告され、その年の7月には26人の患者とそのうち5名の死亡が確認されました。 水俣病患者の認定は、公害健康被害の補償等に関する法律に基づき関係各県の知事および国によって行われます。 | + | ②まっすぐ見たときに周辺が見えにくくなる視野狭窄 |
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+ | ③さわった物の形や大きさがわからないなどの感覚障害 | ||
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+ | ④力が入りにくいなどの運動障害 | ||
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+ | ⑤音の識別ができない、相手の言うことが聞き取れないなどの聴力障害 | ||
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+ | ⑥さわられても感じにくい、温度を感じにくいなどの感覚障害 | ||
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+ | ⑦ことばが不明瞭などの講音障害 | ||
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+ | == 社会的背景 == | ||
+ | 水俣病の原因企業は、チッソ(水俣工場)と昭和電工(鹿瀬工場)である。両者は、第2次世界大戦後の復興に続いて高度経済成長のさなかにあった日本を支え、 発展させる原動力の役目を担っていた化学工業分野の企業である。 | ||
+ | チッソは高い開発力を持ち、独自の技術で次々と生産設備を更新して製品の増産につとめた。工場と従業員の納める税額が水俣市の税収の50%を超えるなどしたため、チッソは地域の経済や行政に大きな力を持つようになった。 | ||
+ | こうして地域社会の支持を受け、安い労働力、豊富な用水、自前の発電力そして天草の石灰岩や石炭など手近にある原材料を活用し、 また廃棄物や廃水の処理についても優遇されていたので、チッソは増産を重ねることができたが、一方で労働環境や自然環境への配慮は後回しにされていたのである。 | ||
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+ | == 参考文献 == | ||
+ | 水俣病のあらまし - 国立水俣病総合研究センター http://www.nimd.go.jp/archives/tenji/a_corner/atop.html | ||
+ | 原田正純(1972)「水俣病」岩波書店 |
最新版
水俣病とは1956年5月1日に熊本県水俣市で公式発見された公害病である。
目次 |
発生の原因・概要
水俣病の主な原因として化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚などの魚介類が吸収して、 あるいは食物連鎖を通じて体内に蓄積し、これを食べた住民の間に発生した神経疾患の公害病である。 熊本県水俣湾周辺で発生し、始めは原因の分からない神経疾患として取り扱われていた。その後新潟県阿賀野川流域においても発生が確認されている。 水俣湾周辺の水俣病については、昭和31年(1956)5月、初めて患者の発生が報告され、その年の末には、52人の患者が確認されている。 この疾患は昭和32年(1957)以降「水俣病」と呼ばれるようになった。 阿賀野川流域の水俣病については、昭和40年(1965)5月に患者発生が報告され、その年の7月には26人の患者とそのうちの5名の死亡が確認されている。
水俣病による障害
①わけもなくころぶ、まっすぐ歩けない、日常の動作が思うようにできないなどの運動失調
②まっすぐ見たときに周辺が見えにくくなる視野狭窄
③さわった物の形や大きさがわからないなどの感覚障害
④力が入りにくいなどの運動障害
⑤音の識別ができない、相手の言うことが聞き取れないなどの聴力障害
⑥さわられても感じにくい、温度を感じにくいなどの感覚障害
⑦ことばが不明瞭などの講音障害
社会的背景
水俣病の原因企業は、チッソ(水俣工場)と昭和電工(鹿瀬工場)である。両者は、第2次世界大戦後の復興に続いて高度経済成長のさなかにあった日本を支え、 発展させる原動力の役目を担っていた化学工業分野の企業である。 チッソは高い開発力を持ち、独自の技術で次々と生産設備を更新して製品の増産につとめた。工場と従業員の納める税額が水俣市の税収の50%を超えるなどしたため、チッソは地域の経済や行政に大きな力を持つようになった。 こうして地域社会の支持を受け、安い労働力、豊富な用水、自前の発電力そして天草の石灰岩や石炭など手近にある原材料を活用し、 また廃棄物や廃水の処理についても優遇されていたので、チッソは増産を重ねることができたが、一方で労働環境や自然環境への配慮は後回しにされていたのである。
参考文献
水俣病のあらまし - 国立水俣病総合研究センター http://www.nimd.go.jp/archives/tenji/a_corner/atop.html 原田正純(1972)「水俣病」岩波書店