ベルギー1
出典: Jinkawiki
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正式名称:ベルギー王国 Royaume de Belgique(フランス語);Koninkrijk België(オランダ語) | 正式名称:ベルギー王国 Royaume de Belgique(フランス語);Koninkrijk België(オランダ語) | ||
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面積:3万528㎢(日本の約12分の1) | 面積:3万528㎢(日本の約12分の1) | ||
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首都:ブリュッセル | 首都:ブリュッセル | ||
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言語:オランダ語,フランス語,ドイツ語 | 言語:オランダ語,フランス語,ドイツ語 | ||
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宗教:伝統的にはカトリックだが、近年はムスリム移民が増加している | 宗教:伝統的にはカトリックだが、近年はムスリム移民が増加している | ||
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ヨーロッパ北西部にある国。北はオランダ、東はドイツ、南東部はルクセンブルク、南はフランスに接している。北海に面した北西部のフランドル地方は、干拓地と砂丘からなる平地で、内陸部に向かうにつれて徐々に高度を増し、南部のアンデルヌ高原など中位山地へと移行する。 | ヨーロッパ北西部にある国。北はオランダ、東はドイツ、南東部はルクセンブルク、南はフランスに接している。北海に面した北西部のフランドル地方は、干拓地と砂丘からなる平地で、内陸部に向かうにつれて徐々に高度を増し、南部のアンデルヌ高原など中位山地へと移行する。 | ||
気候も沿岸部の温暖湿潤なものから内陸部の冷涼なものへと変化し、降水量は年間750~1000㎜と比較的多い。天候の変化が著しいのが特徴である。 | 気候も沿岸部の温暖湿潤なものから内陸部の冷涼なものへと変化し、降水量は年間750~1000㎜と比較的多い。天候の変化が著しいのが特徴である。 | ||
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言語は、南東部にドイツ語を話す人々が少数(約10%)いるが、おおまかに分ければ、北部(フランデレン地方)にはオランダ語(フラマン語)を話すフラマン人(約57%)、南部にはフランス語(ワロニー方言)を話すワロン人(約33%)が住む。フランス語、オランダ語とも公用語で、その使用地域は国のほぼ中央で南北に分けられるが、オランダ語地域のなかの首都ブリュッセルは併用地域で、フランス語が優勢。 | 言語は、南東部にドイツ語を話す人々が少数(約10%)いるが、おおまかに分ければ、北部(フランデレン地方)にはオランダ語(フラマン語)を話すフラマン人(約57%)、南部にはフランス語(ワロニー方言)を話すワロン人(約33%)が住む。フランス語、オランダ語とも公用語で、その使用地域は国のほぼ中央で南北に分けられるが、オランダ語地域のなかの首都ブリュッセルは併用地域で、フランス語が優勢。 | ||
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また、ブリュッセルにはEUの本部が置かれ、第2次世界大戦後のヨーロッパ経済の中心地の一つとなっている。 | また、ブリュッセルにはEUの本部が置かれ、第2次世界大戦後のヨーロッパ経済の中心地の一つとなっている。 | ||
- | '''1.歴史''' | + | |
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〈概略〉 | 〈概略〉 | ||
- | 5世紀 フランク王国領に | + | |
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10世紀 神聖ローマ帝国領に | 10世紀 神聖ローマ帝国領に | ||
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15世紀 フランスのブルゴーニュ伯領に | 15世紀 フランスのブルゴーニュ伯領に | ||
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15世紀 オーストリア領(ハプスブルク家)に | 15世紀 オーストリア領(ハプスブルク家)に | ||
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16世紀 スペイン領(ハプスブルク家)に | 16世紀 スペイン領(ハプスブルク家)に | ||
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18世紀 オーストリア領に復帰 | 18世紀 オーストリア領に復帰 | ||
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1815年 ネーデルラント(ベルギーを含む)が独立 | 1815年 ネーデルラント(ベルギーを含む)が独立 | ||
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1830年 オランダからの独立宣言 | 1830年 オランダからの独立宣言 | ||
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1831年 憲法制定(フランス語)→言語戦争に | 1831年 憲法制定(フランス語)→言語戦争に | ||
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1891年 言語法制定 | 1891年 言語法制定 | ||
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1952年 ECSC発足に参加 | 1952年 ECSC発足に参加 | ||
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1967年 ルーヴェン・カトリック大学の分裂騒ぎ | 1967年 ルーヴェン・カトリック大学の分裂騒ぎ | ||
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1993年 連邦制を導入 | 1993年 連邦制を導入 | ||
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現在ベルギーになっている地域は「ヨーロッパの十字路」と呼ばれ、古くから大国同士の力がぶつかり合い、せめぎ合う場所であった。18世紀末にはフランス革命軍が攻め込み、合併されたこともある。ようやく独立を果たすのは、ナポレオン軍が敗れた1815年のことである。 | 現在ベルギーになっている地域は「ヨーロッパの十字路」と呼ばれ、古くから大国同士の力がぶつかり合い、せめぎ合う場所であった。18世紀末にはフランス革命軍が攻め込み、合併されたこともある。ようやく独立を果たすのは、ナポレオン軍が敗れた1815年のことである。 | ||
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独立時のベルギーは、まだオランダと分かれておらず、ネーデルラントと呼ばれたいた。しかしそこでは北部(現在のオランダ)優先主義の政策がとられたため、南部(現在のベルギー)の人々が反発して1830年に独立を宣言し、翌31年には憲法を制定した。この憲法は民主主義的かつ自由主義的な憲法として、高く評価されている。 | 独立時のベルギーは、まだオランダと分かれておらず、ネーデルラントと呼ばれたいた。しかしそこでは北部(現在のオランダ)優先主義の政策がとられたため、南部(現在のベルギー)の人々が反発して1830年に独立を宣言し、翌31年には憲法を制定した。この憲法は民主主義的かつ自由主義的な憲法として、高く評価されている。 | ||
- | '''2.経済''' | + | |
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+ | ==経済== | ||
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経済面では、ベルギーはヨーロッパ大陸で一番早く産業革命が起きた国で、19世紀初頭には毛織物や綿織物業が大発展し、1830年代には南部地域を中心に石炭、製鉄、機械工業が発達し、経済力でイギリスに迫る勢いであった。しかし、第2次世界大戦後はイギリスと同じく産業の構造改革がなかなか進まず、かつてベルギー経済を支えた「重厚長大産業」が、かえって足かせとなってしまっていた。 | 経済面では、ベルギーはヨーロッパ大陸で一番早く産業革命が起きた国で、19世紀初頭には毛織物や綿織物業が大発展し、1830年代には南部地域を中心に石炭、製鉄、機械工業が発達し、経済力でイギリスに迫る勢いであった。しかし、第2次世界大戦後はイギリスと同じく産業の構造改革がなかなか進まず、かつてベルギー経済を支えた「重厚長大産業」が、かえって足かせとなってしまっていた。 | ||
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一方、それまで遅れた農業地域と考えられていた北部では、金属加工、エレクトロニクス、自動車の組み立てなどの新しい産業が発達していったほか、アントウェルペン(アントワープ)周辺では、その良港を利用して石油化学工業が発達するにおよび、南北の経済力は完全に逆転した。 | 一方、それまで遅れた農業地域と考えられていた北部では、金属加工、エレクトロニクス、自動車の組み立てなどの新しい産業が発達していったほか、アントウェルペン(アントワープ)周辺では、その良港を利用して石油化学工業が発達するにおよび、南北の経済力は完全に逆転した。 | ||
- | '''3.公用語をめぐる「言語戦争」''' | + | |
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+ | ==公用語をめぐる「言語戦争」== | ||
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もともとベルギーは、オランダ語を話す北部のフランデレン(フランダース)と、フランス語を話す南部のワロニーとに分かれていたが、南部がいち早く経済的離陸を果たしたこともあり、ブルジョワなどの支配者層はだいたい南部出身のフランス語を話す人たちで占められていた。 | もともとベルギーは、オランダ語を話す北部のフランデレン(フランダース)と、フランス語を話す南部のワロニーとに分かれていたが、南部がいち早く経済的離陸を果たしたこともあり、ブルジョワなどの支配者層はだいたい南部出身のフランス語を話す人たちで占められていた。 | ||
こうして人口比ではフランデレン(オランダ)語57%、フランス語33%、残りの10%はドイツ語などであるにもかかわらず、実質的な公用語はフランス語のみとなっており、1831年憲法もフランス語で書かれた。 | こうして人口比ではフランデレン(オランダ)語57%、フランス語33%、残りの10%はドイツ語などであるにもかかわらず、実質的な公用語はフランス語のみとなっており、1831年憲法もフランス語で書かれた。 | ||
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1865年に、フランス語の分からない2人のフランデレン人が、フランス語のみで行われた裁判で死刑判決を受け、処刑後に無実が判明したという事件が起きた。この事件をきっかけに、フランデレン語を公用語として認めさせる運動が盛んになり、1898年の言語法で、ようやくフランデレン語が公用語として認知されるようになった。 | 1865年に、フランス語の分からない2人のフランデレン人が、フランス語のみで行われた裁判で死刑判決を受け、処刑後に無実が判明したという事件が起きた。この事件をきっかけに、フランデレン語を公用語として認めさせる運動が盛んになり、1898年の言語法で、ようやくフランデレン語が公用語として認知されるようになった。 | ||
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外務省:「ベルギー基礎データ」,http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belgium/data.html | 外務省:「ベルギー基礎データ」,http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belgium/data.html | ||
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田中文憲(1999)「手にとるようにEUのことがわかる本」,かんき出版 | 田中文憲(1999)「手にとるようにEUのことがわかる本」,かんき出版 | ||
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目次 |
ベルギー(Belgium)
正式名称:ベルギー王国 Royaume de Belgique(フランス語);Koninkrijk België(オランダ語)
面積:3万528㎢(日本の約12分の1)
人口:1,132.2万人(2017年1月)
首都:ブリュッセル
言語:オランダ語,フランス語,ドイツ語
宗教:伝統的にはカトリックだが、近年はムスリム移民が増加している
ヨーロッパ北西部にある国。北はオランダ、東はドイツ、南東部はルクセンブルク、南はフランスに接している。北海に面した北西部のフランドル地方は、干拓地と砂丘からなる平地で、内陸部に向かうにつれて徐々に高度を増し、南部のアンデルヌ高原など中位山地へと移行する。
気候も沿岸部の温暖湿潤なものから内陸部の冷涼なものへと変化し、降水量は年間750~1000㎜と比較的多い。天候の変化が著しいのが特徴である。
言語は、南東部にドイツ語を話す人々が少数(約10%)いるが、おおまかに分ければ、北部(フランデレン地方)にはオランダ語(フラマン語)を話すフラマン人(約57%)、南部にはフランス語(ワロニー方言)を話すワロン人(約33%)が住む。フランス語、オランダ語とも公用語で、その使用地域は国のほぼ中央で南北に分けられるが、オランダ語地域のなかの首都ブリュッセルは併用地域で、フランス語が優勢。
また、ブリュッセルにはEUの本部が置かれ、第2次世界大戦後のヨーロッパ経済の中心地の一つとなっている。
歴史
〈概略〉
05世紀 フランク王国領に
10世紀 神聖ローマ帝国領に
15世紀 フランスのブルゴーニュ伯領に
15世紀 オーストリア領(ハプスブルク家)に
16世紀 スペイン領(ハプスブルク家)に
18世紀 オーストリア領に復帰
1815年 ネーデルラント(ベルギーを含む)が独立
1830年 オランダからの独立宣言
1831年 憲法制定(フランス語)→言語戦争に
1891年 言語法制定
1952年 ECSC発足に参加
1967年 ルーヴェン・カトリック大学の分裂騒ぎ
1993年 連邦制を導入
現在ベルギーになっている地域は「ヨーロッパの十字路」と呼ばれ、古くから大国同士の力がぶつかり合い、せめぎ合う場所であった。18世紀末にはフランス革命軍が攻め込み、合併されたこともある。ようやく独立を果たすのは、ナポレオン軍が敗れた1815年のことである。
独立時のベルギーは、まだオランダと分かれておらず、ネーデルラントと呼ばれたいた。しかしそこでは北部(現在のオランダ)優先主義の政策がとられたため、南部(現在のベルギー)の人々が反発して1830年に独立を宣言し、翌31年には憲法を制定した。この憲法は民主主義的かつ自由主義的な憲法として、高く評価されている。
経済
経済面では、ベルギーはヨーロッパ大陸で一番早く産業革命が起きた国で、19世紀初頭には毛織物や綿織物業が大発展し、1830年代には南部地域を中心に石炭、製鉄、機械工業が発達し、経済力でイギリスに迫る勢いであった。しかし、第2次世界大戦後はイギリスと同じく産業の構造改革がなかなか進まず、かつてベルギー経済を支えた「重厚長大産業」が、かえって足かせとなってしまっていた。
一方、それまで遅れた農業地域と考えられていた北部では、金属加工、エレクトロニクス、自動車の組み立てなどの新しい産業が発達していったほか、アントウェルペン(アントワープ)周辺では、その良港を利用して石油化学工業が発達するにおよび、南北の経済力は完全に逆転した。
公用語をめぐる「言語戦争」
もともとベルギーは、オランダ語を話す北部のフランデレン(フランダース)と、フランス語を話す南部のワロニーとに分かれていたが、南部がいち早く経済的離陸を果たしたこともあり、ブルジョワなどの支配者層はだいたい南部出身のフランス語を話す人たちで占められていた。 こうして人口比ではフランデレン(オランダ)語57%、フランス語33%、残りの10%はドイツ語などであるにもかかわらず、実質的な公用語はフランス語のみとなっており、1831年憲法もフランス語で書かれた。
1865年に、フランス語の分からない2人のフランデレン人が、フランス語のみで行われた裁判で死刑判決を受け、処刑後に無実が判明したという事件が起きた。この事件をきっかけに、フランデレン語を公用語として認めさせる運動が盛んになり、1898年の言語法で、ようやくフランデレン語が公用語として認知されるようになった。
参考文献
外務省:「ベルギー基礎データ」,http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/belgium/data.html
田中文憲(1999)「手にとるようにEUのことがわかる本」,かんき出版
Khichomn