イラク3
出典: Jinkawiki
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== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | イギリスとの関係 | + | ・イギリスとの関係 |
- | 第一次世界大戦中に、オスマン帝国領であったイラクは、1918年イギリス軍に制圧された。イラクは大戦後イギリスの委任統治領となったが、国内で民族運動が高まって反乱が多発した。そのためイギリスは、1921年ハーシム家出身で旧ヒジャーズ国王フセインの第3子ファイサルを国王にむかえて、イラク王国を成立させる妥協策をとった。その後イラクは、1932年イギリスの委任統治下から独立した。また、ヨルダンもイギリスの委任統治領であったが、1928年トランスヨルダン王国として独立し、1946年に完全独立をはたした。パレスチナもイギリスの委任統治領であったが、1948年にはこの地にユダヤ人によるイスラエルが建国された。 | + | |
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+ | 第一次世界大戦中に、オスマン帝国領であったイラクは、1918年イギリス軍に制圧された。イラクは大戦後イギリスの委任統治領となったが、国内で民族運動が高まって反乱が多発した。そのためイギリスは、1921年ハーシム家出身で旧ヒジャーズ国王フセインの第3子ファイサルを国王にむかえて、イラク王国を成立させる妥協策をとった。その後イラクは、1932年イギリスの委任統治下から独立した。また、ヨルダンもイギリスの委任統治領であったが、1928年トランスヨルダン王国として独立し、1946年に完全独立をはたした。パレスチナもイギリスの委任統治領であったが、1948年にはこの地にユダヤ人によるイスラエルが建国された。 | ||
1955年イギリス・イラン・イラク・トルコ・パキスタンによって反共軍事同盟である中東条約機構(バグダード条約機構,METO)が結成され、イラクの首都バグダードに本部がおかれた。 | 1955年イギリス・イラン・イラク・トルコ・パキスタンによって反共軍事同盟である中東条約機構(バグダード条約機構,METO)が結成され、イラクの首都バグダードに本部がおかれた。 | ||
- | 中央条約機構への改称 | + | ・中央条約機構への改称 |
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1952年ナギブらの自由将校団によるエジプト革命が起きると、イラクでも民族運動が高揚した。1958年軍人のカセム(カースィム)はイラク革命をおこして国王を処刑し、共和国を樹立した。イラクは中東条約機構を脱退したため、1959年この軍事同盟は本部をトルコの首都アンカラにうつして中央条約機構(CENTO)と改称した。 | 1952年ナギブらの自由将校団によるエジプト革命が起きると、イラクでも民族運動が高揚した。1958年軍人のカセム(カースィム)はイラク革命をおこして国王を処刑し、共和国を樹立した。イラクは中東条約機構を脱退したため、1959年この軍事同盟は本部をトルコの首都アンカラにうつして中央条約機構(CENTO)と改称した。 | ||
カセムは、少数民族であるクルド人問題の処理を誤るなどの失敗が続き、1963年民族主義政党であるバース党によるクーデタで処刑された。 | カセムは、少数民族であるクルド人問題の処理を誤るなどの失敗が続き、1963年民族主義政党であるバース党によるクーデタで処刑された。 | ||
- | 1979年に | + | |
+ | ・サダム=フセイン | ||
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+ | 1979年大統領に就任したバース党のサダム=フセイン(任1979~2003)は、1980年ホメイニの指導するイランを攻撃して、イラン―イラク戦争(1980~88)が勃発した。この戦争は次第に膠着状態となり、1988年国連における安全保障理事会の停戦決議をイランが受諾して、戦争は終結した。 | ||
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+ | サダム=フセインは、1990年石油資源を狙ってクウェートに侵攻し、クウェートの併合を宣言した。これに対して、ブッシュ(父)米大統領は侵略を容認せず、1991年50余万の多国籍軍を結成してイラクと戦ったが、これを湾岸戦争という。この戦争は、多国籍軍が数か月で勝利をおさめた。 | ||
+ | 2003年アメリカのブッシュ(子)大統領は、大量破壊兵器排除の名目でイギリス軍と共にイラク戦争を起こして、サダム=フセイン政権を打倒した。しかし、暫定政府成立後も国内はテロによる混迷が続いた。 | ||
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+ | 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html#section1 | ||
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+ | 「国ごと、地域ごとにまとめ直した高校世界史(下巻)」 川音 強 清水書院(2014年9月10日) | ||
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+ | 「世界史再入門」 浜林正夫 地歴社(1991年9月15日) |
最新版
国名:イラク共和国
首都:バグダッド(人口約700万人~800万人)
人口:約3,720万人(2016年:世銀)
言語:アラビア語,クルド語他
民族:アラブ人(シーア派約6割,スンニ派約2割),クルド人(約2割,多くはスンニ派),トルクメン人,アッシリア人等
宗教:イスラム教(スンニ派,シーア派),キリスト教他
歴史
・イギリスとの関係
第一次世界大戦中に、オスマン帝国領であったイラクは、1918年イギリス軍に制圧された。イラクは大戦後イギリスの委任統治領となったが、国内で民族運動が高まって反乱が多発した。そのためイギリスは、1921年ハーシム家出身で旧ヒジャーズ国王フセインの第3子ファイサルを国王にむかえて、イラク王国を成立させる妥協策をとった。その後イラクは、1932年イギリスの委任統治下から独立した。また、ヨルダンもイギリスの委任統治領であったが、1928年トランスヨルダン王国として独立し、1946年に完全独立をはたした。パレスチナもイギリスの委任統治領であったが、1948年にはこの地にユダヤ人によるイスラエルが建国された。
1955年イギリス・イラン・イラク・トルコ・パキスタンによって反共軍事同盟である中東条約機構(バグダード条約機構,METO)が結成され、イラクの首都バグダードに本部がおかれた。
・中央条約機構への改称
1952年ナギブらの自由将校団によるエジプト革命が起きると、イラクでも民族運動が高揚した。1958年軍人のカセム(カースィム)はイラク革命をおこして国王を処刑し、共和国を樹立した。イラクは中東条約機構を脱退したため、1959年この軍事同盟は本部をトルコの首都アンカラにうつして中央条約機構(CENTO)と改称した。
カセムは、少数民族であるクルド人問題の処理を誤るなどの失敗が続き、1963年民族主義政党であるバース党によるクーデタで処刑された。
・サダム=フセイン
1979年大統領に就任したバース党のサダム=フセイン(任1979~2003)は、1980年ホメイニの指導するイランを攻撃して、イラン―イラク戦争(1980~88)が勃発した。この戦争は次第に膠着状態となり、1988年国連における安全保障理事会の停戦決議をイランが受諾して、戦争は終結した。
サダム=フセインは、1990年石油資源を狙ってクウェートに侵攻し、クウェートの併合を宣言した。これに対して、ブッシュ(父)米大統領は侵略を容認せず、1991年50余万の多国籍軍を結成してイラクと戦ったが、これを湾岸戦争という。この戦争は、多国籍軍が数か月で勝利をおさめた。 2003年アメリカのブッシュ(子)大統領は、大量破壊兵器排除の名目でイギリス軍と共にイラク戦争を起こして、サダム=フセイン政権を打倒した。しかし、暫定政府成立後も国内はテロによる混迷が続いた。
参考文献
外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html#section1
「国ごと、地域ごとにまとめ直した高校世界史(下巻)」 川音 強 清水書院(2014年9月10日)
「世界史再入門」 浜林正夫 地歴社(1991年9月15日)