エスペラント22
出典: Jinkawiki
2018年1月26日 (金) 21:24の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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===「国際語」の思想=== | ===「国際語」の思想=== | ||
19世紀に、「どの国の言語でもないでもない中立の新しい言語を創って、全ての国の代表がこうして創られた公平で中立の国際語を使うようにすれば、言葉による不平不公平が無くなる」と考える人たちが現れた。しかし、我も我もと何百もの新言語が寄せられ、パリの言語協会は、いかがわしいこととして国際語の発明の試みを禁じていた。言語学はいちいちそんな素人の思いつきを相手にしてはいられないと言うのである。 | 19世紀に、「どの国の言語でもないでもない中立の新しい言語を創って、全ての国の代表がこうして創られた公平で中立の国際語を使うようにすれば、言葉による不平不公平が無くなる」と考える人たちが現れた。しかし、我も我もと何百もの新言語が寄せられ、パリの言語協会は、いかがわしいこととして国際語の発明の試みを禁じていた。言語学はいちいちそんな素人の思いつきを相手にしてはいられないと言うのである。 | ||
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しかし、こうした言語案の中から、ポーランド(当時はロシア領だった)に住むルドヴィーコ・ザメンホフというユダヤ人が新しい言語を考案して発表した。これが「エスペラント」であった。 | しかし、こうした言語案の中から、ポーランド(当時はロシア領だった)に住むルドヴィーコ・ザメンホフというユダヤ人が新しい言語を考案して発表した。これが「エスペラント」であった。 | ||
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===エスペラントの発音=== | ===エスペラントの発音=== | ||
エスペラントの発音には、幾つかの決まり事がある。ここでは、その一部を紹介する。 | エスペラントの発音には、幾つかの決まり事がある。ここでは、その一部を紹介する。 | ||
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①全ての名詞はo(オ)で終わる。 | ①全ての名詞はo(オ)で終わる。 | ||
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②形容詞は一律にa(ア)で終わる。 | ②形容詞は一律にa(ア)で終わる。 | ||
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③文字は基本的にラテン・アルファべート(ローマ字)で、幾つかの補助記号がつく。 | ③文字は基本的にラテン・アルファべート(ローマ字)で、幾つかの補助記号がつく。 | ||
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④オトと文字がいつでも一対一で対応している。 | ④オトと文字がいつでも一対一で対応している。 | ||
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⑤基本母音はa(ア)i(イ)u(エ)e(エ)o(オ)の五つ。 | ⑤基本母音はa(ア)i(イ)u(エ)e(エ)o(オ)の五つ。 | ||
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⑥子音には、英語アルファベットのうち、q,w,x,yは使わない。 | ⑥子音には、英語アルファベットのうち、q,w,x,yは使わない。 | ||
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⑦アクセントは、常に最後から二つ目の音節(母音)にある。 | ⑦アクセントは、常に最後から二つ目の音節(母音)にある。 | ||
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⑧目的語となって「―を」の意味になるときは忘れずに「-n」をつける。 | ⑧目的語となって「―を」の意味になるときは忘れずに「-n」をつける。 | ||
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⑨定冠詞は一つだけあって、それはいつでもlaである。 | ⑨定冠詞は一つだけあって、それはいつでもlaである。 | ||
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⑩動詞の語尾は、現在形は「-as」、過去形は「-is」、未来形は「-os」、命令形は「-us」、そして原形は「-i」で終わる。 | ⑩動詞の語尾は、現在形は「-as」、過去形は「-is」、未来形は「-os」、命令形は「-us」、そして原形は「-i」で終わる。 | ||
- | ==創始者ルドヴィーコ・ラザルス・ザメンホフについて== | + | ==創始者ルドヴィーコ・ラザルス・ザメンホフの幼少期== |
===誕生と両親=== | ===誕生と両親=== | ||
ルドヴィーコ・ラザルス・ザメンホフは、1859年12月15日、帝政ロシア治下ポーランドのビアリストク市ジェローナ街六番地にある見栄えのしない木造小家屋の、二階の小さな一室で誕生した。父親のマルクスは22歳、母親のロザリーは19歳であった(共にユダヤ系)。マルクスは合理的知性と良心的勤勉と厳格な規律そのもののような人物だ。ロザリーは愛情と忍耐と人間理解の直感に富む女性だ。それで、息子のルドヴィーコは、理性と愛情、知性と心情という両親の二つの性質を兼ね具えることになったのである。 | ルドヴィーコ・ラザルス・ザメンホフは、1859年12月15日、帝政ロシア治下ポーランドのビアリストク市ジェローナ街六番地にある見栄えのしない木造小家屋の、二階の小さな一室で誕生した。父親のマルクスは22歳、母親のロザリーは19歳であった(共にユダヤ系)。マルクスは合理的知性と良心的勤勉と厳格な規律そのもののような人物だ。ロザリーは愛情と忍耐と人間理解の直感に富む女性だ。それで、息子のルドヴィーコは、理性と愛情、知性と心情という両親の二つの性質を兼ね具えることになったのである。 | ||
- | ===幼少期の性格=== | + | ===性格=== |
ルドヴィーコはもともと病弱で、背が低く虚弱だった。まもなく近眼であることも分かった。知能は早熟で、5才までには流暢に読み書きが出来た。弟のフェリックスが1868年に、ヘンリーが1871年に生まれた後は、弟妹の模範となるべき責任を負わされていたので、ルドヴィクは程度が過ぎるほど従順だった。しかし、彼がおとなしいのは、勇気がないためではなかった。年齢に似合わず妙に威厳があり、驚くほどの決断力を示すときもあった。 | ルドヴィーコはもともと病弱で、背が低く虚弱だった。まもなく近眼であることも分かった。知能は早熟で、5才までには流暢に読み書きが出来た。弟のフェリックスが1868年に、ヘンリーが1871年に生まれた後は、弟妹の模範となるべき責任を負わされていたので、ルドヴィクは程度が過ぎるほど従順だった。しかし、彼がおとなしいのは、勇気がないためではなかった。年齢に似合わず妙に威厳があり、驚くほどの決断力を示すときもあった。 | ||
- | ===幼少期の周囲=== | + | ===周囲=== |
ルドヴィーコは少年の頃から苦痛と病気の光景を見馴れていた。1870年、10才のときに狭苦しい家で妹のサラが病気で死に、母親が嘆き苦しむ様子を見守っていた。 | ルドヴィーコは少年の頃から苦痛と病気の光景を見馴れていた。1870年、10才のときに狭苦しい家で妹のサラが病気で死に、母親が嘆き苦しむ様子を見守っていた。 | ||
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この頃、ビアリストクは、リトアニア地方にある二つの県の一つであるグロドノ県にあって(もう一方はワルシャワ県)、悪名高い「絞首人ムラエフ」が支配していた。この人物はポーランド人の民族的熱望を圧殺し、ポーランド語を使用言語としていたワルシャワ大学が閉鎖となり、ロシア語による大学が取って代わった。リトアニアの両県では、ポーランド語の使用が禁止された。 | この頃、ビアリストクは、リトアニア地方にある二つの県の一つであるグロドノ県にあって(もう一方はワルシャワ県)、悪名高い「絞首人ムラエフ」が支配していた。この人物はポーランド人の民族的熱望を圧殺し、ポーランド語を使用言語としていたワルシャワ大学が閉鎖となり、ロシア語による大学が取って代わった。リトアニアの両県では、ポーランド語の使用が禁止された。 | ||
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弾圧と不正行為は、ロシア治下のポーランドの至るところでも行われた。ワルシャワ大学の講義は、ポーランド文学に関する内容であっても、全てロシア語でしなければならなくなった。小中学校の授業も、全部ロシア語で行われた。貧しい人々はロシア語を習えず、ポーランド人の約5分の1が文盲となった。 | 弾圧と不正行為は、ロシア治下のポーランドの至るところでも行われた。ワルシャワ大学の講義は、ポーランド文学に関する内容であっても、全てロシア語でしなければならなくなった。小中学校の授業も、全部ロシア語で行われた。貧しい人々はロシア語を習えず、ポーランド人の約5分の1が文盲となった。 | ||
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ユダヤ人への弾圧はさらに苛酷だった。中性から迫害されていたユダヤ人が大量にポーランドに流れ込み、定住を許されて職人や商人となった。彼らはヘブライの伝統やイディッシュ語や民族衣装を持ち込んだ。グロドノ県には、かなり大きいドイツ語集団も存在した。そういうわけで、ビアリストクにいるときにルドヴィーコ・ザメンホフは、公用語と同時にザメンホフ家の家庭用語でもあるロシア語と、ポーランド語とドイツ語とイディッシュ語と、さらにユダヤ教会ではヘブライ語を耳にしていた。 | ユダヤ人への弾圧はさらに苛酷だった。中性から迫害されていたユダヤ人が大量にポーランドに流れ込み、定住を許されて職人や商人となった。彼らはヘブライの伝統やイディッシュ語や民族衣装を持ち込んだ。グロドノ県には、かなり大きいドイツ語集団も存在した。そういうわけで、ビアリストクにいるときにルドヴィーコ・ザメンホフは、公用語と同時にザメンホフ家の家庭用語でもあるロシア語と、ポーランド語とドイツ語とイディッシュ語と、さらにユダヤ教会ではヘブライ語を耳にしていた。 | ||
- | ===幼少期の決意=== | + | ===決意=== |
ザメンホフは、言葉の相違という重荷を痛感していた。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、次第に確信するようになった。そして、人々が皆ただ一つの言語を話したら憎しみ合うのをやめるだろう、という素朴な考えを突き詰め、後にザメンホフは相互理解の促進に向かって積極的な貢献をする人物となるのだ。 | ザメンホフは、言葉の相違という重荷を痛感していた。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、次第に確信するようになった。そして、人々が皆ただ一つの言語を話したら憎しみ合うのをやめるだろう、という素朴な考えを突き詰め、後にザメンホフは相互理解の促進に向かって積極的な貢献をする人物となるのだ。 | ||
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+ | 参考文献 | ||
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+ | 田中克彦(2007)『エスペラント―異端の言語』岩波書店 | ||
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+ | Marjorie Boulton…著、水野義明…訳(1993)『ザメンホフ―エスペラントの創始者』新泉社 | ||
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+ | ハンドルネーム:tonanta |
最新版
目次 |
エスペラントとは
「国際語」の思想
19世紀に、「どの国の言語でもないでもない中立の新しい言語を創って、全ての国の代表がこうして創られた公平で中立の国際語を使うようにすれば、言葉による不平不公平が無くなる」と考える人たちが現れた。しかし、我も我もと何百もの新言語が寄せられ、パリの言語協会は、いかがわしいこととして国際語の発明の試みを禁じていた。言語学はいちいちそんな素人の思いつきを相手にしてはいられないと言うのである。
しかし、こうした言語案の中から、ポーランド(当時はロシア領だった)に住むルドヴィーコ・ザメンホフというユダヤ人が新しい言語を考案して発表した。これが「エスペラント」であった。
名称の意味
「エスペラント」はフランス語のエスポワール(希望)、スペイン語のエスペランサなどと同源の「希望する人、物」という意味のエスペラントの単語であって、人類の希望の言語という意味が込められている。ザメンホフは初め、考案者である自分の名をそう名のったからで、言語もまたその名で呼ばれた。
エスペラントの発音
エスペラントの発音には、幾つかの決まり事がある。ここでは、その一部を紹介する。
①全ての名詞はo(オ)で終わる。
②形容詞は一律にa(ア)で終わる。
③文字は基本的にラテン・アルファべート(ローマ字)で、幾つかの補助記号がつく。
④オトと文字がいつでも一対一で対応している。
⑤基本母音はa(ア)i(イ)u(エ)e(エ)o(オ)の五つ。
⑥子音には、英語アルファベットのうち、q,w,x,yは使わない。
⑦アクセントは、常に最後から二つ目の音節(母音)にある。
⑧目的語となって「―を」の意味になるときは忘れずに「-n」をつける。
⑨定冠詞は一つだけあって、それはいつでもlaである。
⑩動詞の語尾は、現在形は「-as」、過去形は「-is」、未来形は「-os」、命令形は「-us」、そして原形は「-i」で終わる。
創始者ルドヴィーコ・ラザルス・ザメンホフの幼少期
誕生と両親
ルドヴィーコ・ラザルス・ザメンホフは、1859年12月15日、帝政ロシア治下ポーランドのビアリストク市ジェローナ街六番地にある見栄えのしない木造小家屋の、二階の小さな一室で誕生した。父親のマルクスは22歳、母親のロザリーは19歳であった(共にユダヤ系)。マルクスは合理的知性と良心的勤勉と厳格な規律そのもののような人物だ。ロザリーは愛情と忍耐と人間理解の直感に富む女性だ。それで、息子のルドヴィーコは、理性と愛情、知性と心情という両親の二つの性質を兼ね具えることになったのである。
性格
ルドヴィーコはもともと病弱で、背が低く虚弱だった。まもなく近眼であることも分かった。知能は早熟で、5才までには流暢に読み書きが出来た。弟のフェリックスが1868年に、ヘンリーが1871年に生まれた後は、弟妹の模範となるべき責任を負わされていたので、ルドヴィクは程度が過ぎるほど従順だった。しかし、彼がおとなしいのは、勇気がないためではなかった。年齢に似合わず妙に威厳があり、驚くほどの決断力を示すときもあった。
周囲
ルドヴィーコは少年の頃から苦痛と病気の光景を見馴れていた。1870年、10才のときに狭苦しい家で妹のサラが病気で死に、母親が嘆き苦しむ様子を見守っていた。
この頃、ビアリストクは、リトアニア地方にある二つの県の一つであるグロドノ県にあって(もう一方はワルシャワ県)、悪名高い「絞首人ムラエフ」が支配していた。この人物はポーランド人の民族的熱望を圧殺し、ポーランド語を使用言語としていたワルシャワ大学が閉鎖となり、ロシア語による大学が取って代わった。リトアニアの両県では、ポーランド語の使用が禁止された。
弾圧と不正行為は、ロシア治下のポーランドの至るところでも行われた。ワルシャワ大学の講義は、ポーランド文学に関する内容であっても、全てロシア語でしなければならなくなった。小中学校の授業も、全部ロシア語で行われた。貧しい人々はロシア語を習えず、ポーランド人の約5分の1が文盲となった。
ユダヤ人への弾圧はさらに苛酷だった。中性から迫害されていたユダヤ人が大量にポーランドに流れ込み、定住を許されて職人や商人となった。彼らはヘブライの伝統やイディッシュ語や民族衣装を持ち込んだ。グロドノ県には、かなり大きいドイツ語集団も存在した。そういうわけで、ビアリストクにいるときにルドヴィーコ・ザメンホフは、公用語と同時にザメンホフ家の家庭用語でもあるロシア語と、ポーランド語とドイツ語とイディッシュ語と、さらにユダヤ教会ではヘブライ語を耳にしていた。
決意
ザメンホフは、言葉の相違という重荷を痛感していた。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、次第に確信するようになった。そして、人々が皆ただ一つの言語を話したら憎しみ合うのをやめるだろう、という素朴な考えを突き詰め、後にザメンホフは相互理解の促進に向かって積極的な貢献をする人物となるのだ。
参考文献
田中克彦(2007)『エスペラント―異端の言語』岩波書店
Marjorie Boulton…著、水野義明…訳(1993)『ザメンホフ―エスペラントの創始者』新泉社
ハンドルネーム:tonanta